「い」の文字を模した水色のたれ耳と、つぶらな瞳が印象的な可愛らしい犬。名前は「いっペイた」くん。彼は2022年に「いたばしPay」の公式キャラクターとして誕生し、今では板橋区のまちの至るところで見かける。アプリを入れていただいている方にとっては、スマホのホーム画面でもおなじみの顔だろう。このいっペイたくんの生みの親もまた、板橋エリアで暮らしている。このまちをこよなく愛する松本夫妻だ。フリーで活動する編集者の夫・浄さんと、デザイナーの妻・初夏さん。ふたりは今、夫婦ユニット「いたばし編集デザイン室」として活動している。板橋区内でチラシやパンフレットなどの印刷物の編集・デザインに携わりながら、板橋をモチーフにしたユニークなグッズを制作し、まちのイベントで販売も行なう。基本的には、進行管理を含めた全体のディレクションや編集を浄さんが、デザイン制作を初夏さんが担当。新しい相談が舞い込んできたらふたりで話を聞き、内容に応じて見積もりを立てた上で引き受ける。それぞれの得意分野が違うからこそ、ユニットを組むことで受けられる仕事の幅も広がる。ものすごく合理的だし、夫婦の在り方としても素敵だ。そんなふたりが、“板橋が好きすぎる編集者&デザイナー”として、このまちにこだわって活動しているのはなぜなんだろう。いっペイたくん誕生の裏側も気になるところだが、まずはふたりが板橋で活動するに至るまでの軌跡について、初夏さんに聞いてみることに。すると、彼女自身の意外な過去も見えてきた。聞けば、もともと同じ出版社の宣伝部とデザイン部で働く、元同期だったというふたり。このとき初夏さんはデザイナーとして働いていたが、胸の内にはずっと編集の仕事がしたいという野望を抱えていたのだそう。「昔から絵本が好きだったんです。大学4年生のときに初めて、絵本の編集者という選択肢があるんだと知って、なりたいなと。就活には間に合わなかったのですが、デザインの技術があれば編集者になるのに有利だと聞いて、ダブルスクールで専門学校に通い始めました」編集者になることを見据えてデザインの勉強に励んだ初夏さんは、専門学校の紹介で横浜の小さな印刷所に就職。地域新聞やチラシのデザインの仕事を始めた。そして絵本や子ども向けの本に携わりたいという思いから、小学生向けの学習雑誌の付録を制作する会社に転職。さらに数年後には、出版社に転職をして絵本編集部のデザイナーになり、そこで浄さんと出会うのだ。一見遠回りをしているようで、編集者に役立つ知識を得ながら、着実に夢へと近づいているのがすごい。ちなみに、ここでは終わらない。結婚し、第一子を保育園に入れたのちに再度転職。絵本の編集者になる夢を本当に叶えている。そのバイタリティ溢れる生き様には、思わず拍手を送りたくなる。板橋に引っ越したのは、第一子の出産がきっかけだった。当時は縁もゆかりもなかったこのまちを選んだのは、生活の面で都合の良い場所だったからに過ぎない。しかし、板橋で子育てをしていくなかで地域の人たちに支えられ、いつしか愛着を持つようになった。「子育てにつまずきまくって、そのたびにたくさんの人に助けてもらいました。子どもを連れていると、おばあちゃんが可愛いわねって、買ったばっかりのおせんべいをくれたりとか。近所の自転車屋さんも、八百屋さんも、みんな良くしてくださるんですよね。そういうのが本当にありがたくて、板橋全体への思いが高まっていったという感じですね。特にママ友の存在は大きいです。産む前は正直、ママ友って言葉にあまりいいイメージがなかったけれど、実際にはほかのママさんたちの存在にかなり救われてきました。だからこそ、同じ板橋で子育てしてる方の役に立てたらいいなと思ったのが、このまちで活動を始めた原点かもしれません」第3子が生まれてからは、絵本の編集やデザインの仕事からも離れていた初夏さん。しかし、ママ友からイベントのチラシやお店のロゴデザインを頼まれることが増え、「自分のできることで一番喜んでもらえるのはデザインなのかもしれない」と考えるようになったという。ママ友や地域のお店の相談に乗るなかで改めて感じたのは、デザインの土台を固めるための編集やディレクションの重要性だった。「いざ話を聞いてみると、『こういうことをやりたい』という気持ちはあっても、趣旨やターゲット、どういうデザインにしたいかはまだふわっとしているケースが多いんです。でも、皆さんの思いをきちんと形にして、人に伝わるものにするには、そこを明確にする必要があるんですよね。私はそういうのが得意じゃなくて。ディレクションや編集の経験が豊富な夫とユニットを組んで、板橋区内の案件をお受けするようになりました」ちなみに、仲宿商店街にあるおむすびのお店「板五米店」のロゴデザインが、ふたりでの初仕事だ。やがて、初夏さんは地域新聞で“まちのデザイナー”として紹介され、板橋区立美術館の館長や区とも繋がりが生まれた。いたばしPayの相談が舞い込んできたのも、ちょうどこの頃のこと。区から「デザイナーを探している」と相談があり、浄さんがディレクションを、初夏さんがアイコンとタイポグラフィのデザインを担当することになった。「じつは、提案までに2週間弱しかなかったんです(笑)。展開規模も結構大きいものだから、どうしようと思って。そこから慌てて担当者の方と話して、メインターゲットである女性をイメージしながらひたすらアイデアを考えましたね。最終的には全部で10案近く提出しましたが、板橋の『い』をキャラ化したような案は必ず出そうと決めていました」板橋の“橋”や、区の鳥であるハクセキレイをモチーフにしたもの、シンプルな文字のロゴなど、幅広く出したなかで、決まったのが現在のいっペイたくんだ。名前も初夏さんが考案。犬をモチーフにしたのは、たまたまらしい。「どうしよう、どうしようとなりながらラクガキをしていたら、たまたま犬に見えてきたんです(笑)。最初の案ではここまで耳が『い』の文字に見えなかったんですが、採用されてから一生懸命近づけました。色は私の好きな組み合わせです。赤系も候補に入れていましたが、夫からのアドバイスもあり、ほかのキャッシュレス決済にはあまりない色合いにしました」また、いたばしPayのキャッチコピー「人とまちをつなぐキャッシュレス決済」は、浄さんが考案したものから採用されている。こうして生まれ、今や板橋区内ではお馴染みになりつつあるいっペイたくん。いたばしPayの加盟店が増えるたびに、いっペイたくんの顔もまちに増えていく。大好きなまちのあちこちで、自分の手掛けたものを目にするのは、どんな気持ちなんだろう。「やっぱり、見かけると『わ~』って思いますよね。最近はようやく慣れましたけど(笑)。区内での露出がすごく多いので、子どもから大人の方まで『すごくかわいい』『使いたくなる』と言っていただけるのは、嬉しいです。イベントで板橋グッズを販売しているときに、私がデザインしたとは知らずにいたばしPayで購入いただくこともあったりして。『決済時のいたペイって声が可愛いですよね』とか『癒されるんですよ~』って言われると、くすぐったい気持ちになります」初夏さんたちが制作している板橋愛が詰まったグッズも必見だ。板橋区の形をした板橋区“非”公認キャラクター「イタバシーラカンスさん」のグッズや、板橋区の形をした木製キーホルダー&ブローチなど、ユニークなものばかり。まちのイベントや、協業している「いたばしデザイン同好会」のサイトでも購入できる。「洗練されすぎず雑味があって、でも調和がとれている」。そんな板橋区をイメージしたブレンドコーヒーも販売中。大山の「珈琲工房ふろんてぃあ」さんによる自家焙煎・ブレンドで、しっかりと苦みがありつつ、酸味は控えめ。そのままでも、ミルクを入れても美味しく飲める。パッケージデザインは、板橋区の名所をモチーフにしている。「グッズに関しては、とにかく自分たちが欲しいものをつくって、板橋愛のお裾分けのような気持ちでやっています。なんとなく板橋に住んでいる方にも、『あれ、もしかして板橋って結構いいかも?』『楽しいじゃん!』って思ってもらえるようなきっかけをつくれたら最高ですね」板橋を愛し、ひたむきに情熱を捧げてきた初夏さん。活動の根底にあるのは、「板橋に恩返しがしたい」という強い思いだ。「私にとって、板橋はホームです。大好きな人がたくさんいて、面白いことがたくさんあって、自分は自分のままでいていいと思える。キャッチーな派手さはないけれど、噛めば噛むほど味が出るスルメみたいに、長く住み続けたくなるまちだなあって。変わらないでほしい部分はありつつも、今後板橋区内で目にするデザインが底上げされて、より意図が伝わるようになれば、暮らしはより豊かでハッピーなものになると信じています。だからこそ私たちとしては、伝えたいこと・ものに対して、より良くしようと一緒に楽しんでくれる方々と歩めたら嬉しいですね」迷い、悩みながらも、自ら人生をプラスの方へと動かしてきた人。そんな初夏さんと話していると、不可能なことなんて何もないような気がしてくる。このまちを愛する人たちとともに、いたばし編集デザイン室は今後も地域の新たな魅力を見つけ、伝えていくだろう。