「この辺りはね、もう酒屋だらけでしたよ。志村の方も合わせると、なんせ300件以上。それを何とか、みんなやってたんです」80年、100年と続く歴史ある店が数多く並ぶ板橋宿不動通り商店街。ここで、変わりゆくまちを見守ってきた新井屋酒店の店主・新井さんは、こう語る。かつて、まちにたくさんあった酒屋の多くはコンビニに代わり、店舗自体は残していても、実質営業をしていないケースもある。今酒屋として続いているのは、何かしらのお酒に特化した専門店として営業しているところばかり。日本酒、ウイスキー、ワイン、焼酎......。ちなみに、全国でつくられていて種類が豊富なことから、日本酒専門店の数が一番多いらしい。この新井屋酒店もまた、日本酒専門店として幅広い品揃えを武器に、創業から100年以上が経つ今も大切にお店を守り続けている。いかにも昭和の酒屋さんというような、懐かしさを感じる店構え。こぢんまりとした店内には、日本酒をはじめとした和酒がずらりと並ぶ。創業以来、それぞれの酒蔵さんと大切に取引を続けてきたお酒たちだ。ざっと、100種類はあるだろう。日本酒だけで見ても、北海道から福岡、佐賀まで全国の個性豊かなお酒が揃っている。現在は、からだの調子があまりよくない新井さんに代わって、従業員の田中悠介さんがお店の運営をしている。最初はアルバイトとして入り、今では店舗責任者として働く、勤続24年のベテランスタッフだ。そんな田中さんと新井屋酒店の出会いは、たまたまだった。「出身は東京ですが、父親の仕事の関係で子どもの頃から関東地方、大阪、九州と転々としていたんです。その流れでまた東京に戻ってくることになり、仕事を探していたときに出会ったのが新井屋酒店でした。このお店の常連さんとうちの父親が元同僚で、『アルバイト募集してたから、ちょっと手伝ってよ』みたいな軽いノリで言われて、『あ、わかりました』とやって来たのが最初です」もともと日本酒が好きだったわけでもなければ、お酒自体弱かった。でも、ここで働くならちゃんとお酒の味を覚えなければ、と自分で購入した日本酒に、すっかり魅せられてしまった。「それが、静岡の青島酒造さんの『喜久酔』というお酒です。一般的な知名度はあんまりないんですが、酒屋さん業界の中での評価がものすごく高い、ちょっと変わった銘柄なんです。この純米吟醸を1本買ったんですが、ひと晩で飲みきっちゃったんですよ。美味しすぎて。自分でも驚きました、こんなに飲めるんだって」「喜久酔」はわかりやすくいうと、きれいなお酒。雑味が少なく、香りもほんのりなので食事の邪魔をせず、飲み飽きしないのが特徴だそう。ちなみに青島酒造さんは小さな酒蔵のため、作れるお酒の量が決まっている。取引を希望する酒屋さんは数多くいるが、現状新規の取引は行っていない。限られた数の酒屋さんだけが売れる、レアなお酒なのだ。そうして、日本酒の美味しさに魅せられた田中さん。ほんのしばらくのアルバイトのつもりで働き始めたはずが、気づけば24年。今では店舗の運営だけでなく、お酒の仕入れや飲食店への卸しなども担当している。「各都道府県が主催している利き酒会に参加して、美味しかったものを仕入れたりとか。あとはこの店のお客さんから『この県に美味しいお酒があるから味見してみて』と紹介されたのがきっかけで、酒蔵さんとの取引が始まることもあります。自分が飲んで美味しかったものを、あれもこれもってしていたら、どんどん増えちゃって」それはつまり、田中さん自身が美味しいと自信を持って勧められるお酒しか、このお店にはないということ。「うちには、個性が突出して強いお酒はあんまりなくて。どちらかというと、多くの人に好まれるようなお酒をバランスよく取り揃えてるんじゃないかなと思います。なるべくたくさんの人に日本酒を楽しんでもらいたいという思いが強いので、マニアックなものばかり並んでいるところよりも、飲みやすいものが揃っている方が、初めてのお客さんにも入ってもらいやすいのかなと」最近は、女性や家族連れ、外国人のお客さんもどんどん増えている。田中さんが接客で大事にしているのは、とにかくわかりやすい言葉で説明すること。フルーティーな日本酒だとしたら、「バナナのような香りがしますよ」、「パイナップルっぽい感じです」と、誰もが具体的にイメージしやすいワードに置き換える。「彼の説明は理路整然としていてわかりやすい」と、店主の新井さんも田中さんの接客に太鼓判を押す。ただし、お酒の説明をするのは、お客さんから声を掛けられたときだけ。「どんなお店でも、すぐに店員さんに声を掛けられるとプレッシャーじゃないですか。その気持ちもよくわかるし、ラベルを眺めている時間が好きという方もいらっしゃるんですよね。じつは酒屋って、ほかの小売店と比べてもお客さんの滞在時間が長いんです。どれを買おうかと迷っている時間も、お客さんにとっては大事だと思うので」こぢんまりとしたお店だからこそ、そのくらいの距離感がむしろ心地良い。よりたくさんの人に、日本酒の魅力を知ってほしいという思いから、お店以外でも精力的に活動をしている。近所のレンタルスペースで日本酒の飲み比べ会を開催したり、飲食店の定休日に間借りをして、週に一度だけ1合500円で日本酒を飲める居酒屋をやったり。イベントや間借り居酒屋で提供するお酒はすべて、新井屋酒店で購入可能。ちなみに、料理も全部田中さんがつくっているらしい。いつの間にか、日本酒を飲みながらおつまみをつくるのが趣味になり、こうしてお客さんや家族に振舞うのが楽しいのだという。「料理が出来上がる頃には、自分も出来上がっちゃうんですけどね(笑)」SNSでの発信もなるべくマメに行なっている。自分なりの方法で、地道に日本酒の魅力を伝え続けるなかで、たしかな手応えを感じる瞬間もあった。「飲み比べ会に参加してくださった若い女性の、『私が思っていた辛口と全然違って驚きました』という言葉が、すごく印象的だったんです。辛口のお酒を飲んで、初めて美味しいと思ったと。それを聞いて、そうか、やっぱり丁寧に説明をすることで、お客さんの中の日本酒の幅を広げられるんだなと感じて。やっていて良かったなと思った瞬間でしたね」たしかに、パッケージを見ただけで自分の好みに合うお酒に出会うのはなかなか難しい。「日本酒が苦手」と言う人の中には、たまたま居酒屋で飲んだ日本酒が合わなかったり、まだ美味しい日本酒に巡り合えていなかったりするケースも多い。そういう人こそ、まちの酒屋さんを頼ってみると新しい発見を得られそうだ。お酒に詳しくないから、と少しハードルを感じる人もいるかもしれないが、酒屋は「美味しいお酒を飲みたい」と思う人に平等に開かれている。新井屋酒店で「こういうのを飲んでみたい」と相談すれば、豊富な知識を持つ田中さんが親身になって相談に乗ってくれるはずだ。専門店でしか得られない、お酒を買う楽しみがきっとある。ちなみに田中さん曰く、ここ最近の日本酒のレベルはかなり上がっているらしい。酒蔵のIT化が進み、杜氏の技術や手法がデータ化されたことで、高いレベルのお酒が安定してつくれるようになったこと。そして、かつてはライバル意識が強かった酒蔵同士で、オープンに情報共有するようになったことで、日本酒業界全体のレベルが底上げされたのではないかという。「好みに合う合わないはあるにしても、今の日本酒は本当にどれを飲んでも美味しいんですよ。だからこそいろいろな人に味わってほしいし、そのために自分自身も頑張りたいと思っています」一見クールな田中さんだが、日本酒の話になると生き生きと楽しそうに語る姿が印象的だった。大手スーパーやコンビニとの価格競争が厳しい酒屋業界において、小さなお店を守り続けることは決して容易いことではないだろう。でも、酒蔵さんたちが大切につくったお酒を、こうして一つひとつ愛を持って売る人がいる限り、その酒屋の未来はきっと明るい。