大正や昭和などの時代を描いた映画を観ると、まちでリヤカーを引いたお豆腐屋さんが、ラッパを吹きながら豆腐を売り歩くシーンがあったりする。ラッパを吹くのは、明治初期から始まった文化らしいが、やっていたのはだいたい昭和まで。今ではもう、ほとんど見かけることのできない光景だ。その時を生きていなくても、その様子から当時の暮らしや営みを想像して、不思議と懐かしい気持ちになる。そんなラッパで売り歩いていた時代を経て、今もなお、まちの豆腐屋として愛されているお店がある。ときわ台と上板橋のあいだ、前野中央通り沿いに店舗を構える「吉野屋豆腐店」だ。「おとうふ」と書かれた、茶色ののれんが可愛らしい。取材に伺った時には、昼下がりのやわらかい光が差していた。店頭に並ぶのは、定番の木綿や絹の豆腐に加え、よせ豆腐にごま豆腐、がんもや油揚げ、厚揚げなどなど。全部で10種ほどのメニューがそろっている。バリエーションが豊富で、見ているだけで楽しい。現在お店を運営しているのは、3代目の石倉さん。吉野屋豆腐店は、おじいさんの代から始まった。その起源を聞いて少し驚いた。「昔、豆腐屋さんってね、職人を集めてやってたんだよ。豆腐職人っていうのがいて、うちのおじいちゃんがそういう人たちを何人も集めて、この店を始めたみたいよ。だから、当時は自分は豆腐づくりを知らなくても豆腐屋ができたんだよね」当時はいわば、フリーランス豆腐職人がたくさんいたらしい。面白い。その集めた職人たちから学び、2代目のお父さん、3代目の石倉さんへと豆腐づくりの技術が受け継がれてきた。この場所にお店を構えたのは、昭和26年のこと。それ以前から別のまちで豆腐屋をやっていたが、戦争などの影響で板橋のまちに移ってきたのだという。今では、完全に家族経営。ただご両親がともに80代のため、基本的には石倉さんが中心になって豆腐をつくり、接客も行なう。がんもや厚揚げなどの揚げ物は、お母さんが担当。そんな石倉さんだが、以前は百貨店でお馴染みの「マルイ」の社員として働いていたそう。当時は主に紳士服を担当し、上野や中野、川越などに勤務していた。勤めて約10年が経ち、32歳になった頃にこのお店を継ぐことに決めたのだという。「自営業をやろうかなって思ったときに、うちが豆腐屋だったから。じゃあ、手っ取り早いしいいかと思って」会社員を辞めて自営業を始めようと思った理由は、「何となくサラリーマンが嫌だったから」と笑う石倉さん。とはいえ、豆腐屋の仕事はとにかく朝も早いだろうし、なんならサラリーマンよりもハードそうなイメージだ。石倉さん自身、もともと豆腐屋を継ぐつもりは全くなかったらしいが、どんな心境の変化があったのだろう。「いやあ、会社に行ってて、上の人たちを見てるとなんとなくわかるじゃない、自分の未来が。いずれこうなるんだったら、自分で違うことを始めた方がいいんじゃないかと思って。まあ、思い切りだよね」かなりさっぱりとしている。ともあれ、石倉さんは吉野家豆腐店の店主として、本格的に豆腐づくりを始めた。豆腐というのは、つくる過程を知るとじつにエコな食材だとわかる。石倉さんに、改めて豆腐の作り方をざっくりと教えてもらった。水につけて一日置いた大豆をグラインダーですりつぶすと、白くてどろっとした「呉(ご)」になる。それを窯に入れ、ボイラーの蒸気で熱して煮沸。汲みだして布で漉すと豆乳がとれ、それににがりを加えて豆腐ができる。豆腐の切れ端や売れ切れなかったものは、水を切って揚げて「厚揚げ」に、練って野菜を入れて低温と高温で二度揚げすれば「がんも」になる。さらに布に残ったおからは、出し汁や野菜と炒めれば「五目おから」に変身。「それでも余ったおからは、毎日来る『おから屋さん』にお金を払って持っていってもらってるね。最終的に牧場に持っていって、飼料にするみたい」そう考えると、本当にほぼ余すところなく活用されていて、気持ちがいい。豆腐は気温や水温に左右されるため、石倉さんは毎日なるべく同じ品質を保てるようにと、気を配りながらつくっている。今の石倉さんの始業時間は、朝4時くらい。それが毎日だと思うと気が遠くなりそうだが、それでも、前に比べるとだいぶ遅くなったという。「以前は、志村にある凸版印刷の社食とか、学校給食用に大量に卸したりしていたから、夜中からやってたんだけどね。両親も高齢で、もうほぼ私一人でやってるから、そういう大きな卸しはやめちゃったの。今は少し保育園に卸すくらいで、あとはお店に来てくれるお客さん中心に商売しています」ちなみに寒い時期になると、ぎっくり腰になりやすいらしい。2年に1回くらいの頻度でぎっくり腰になり、かなりしんどい思いをしたのも、卸しから離れるきっかけになった。「そういうのが重なって、あーもうやめた!ってね」。さらに、豆腐屋として革新的なのが、週休3日を取り入れていること。お休みがほとんどないイメージがあったが、「めちゃめちゃあるよ」と石倉さん。営業日がかかれた紙を見せてもらうと、たしかにめちゃめちゃある。赤丸がされている水・金・日・祝日はお休みだ。「5年くらい前に週休2日にして、今は週休3日にしました。でも休みの日も配達はするし、なんだかんだ油の手入れとか商品の仕込みをして、4~5時間くらいは働いてるんだけどね。ただお店は休みにしちゃった。だんだん浸透すれば、いつものお客さんはわかってくれてるし、特に問題はないです」売上のことを考えれば、営業日を絞るというのはリスキーなことに思える。しかし実際には、分散していたお客さんがまとまって来てくれるので、マイナスな影響もないそうだ。「だいぶラクになったよね。そのおかげで平日にゴルフに行けるようになったし」と嬉しそうな石倉さん。豆腐屋の業界でも革命的だろうし、まさに時代の先端を行く働き方だ。吉野屋豆腐店の強みといえば、商品のバリエーションの豊富さ。豆腐以外の商品の仕込みも、新しいアイデアの考案や試作も、そうした日々の余裕があるからこそできること。このお店名物の「豆乳ババロア」は、20年ほど前に石倉さんが考案した手作りデザートだ。濃い豆乳のまろやかでやさしい味わいと、中に入った缶詰のみかんの爽やかな酸味がとにかく絶妙で、飽きが来ない。甘さ控えめなので、ヘルシーなデザートとして重宝しそうだ。実際まとめ買いする人が多く、一日に50個は売れるらしい。そのため、休日を使ってまとめて大量につくるのだそうだ。ちなみに、「よせ豆腐」も根強い人気があるらしい。基本の豆腐とはにがりが異なるため、少し甘味を感じる。王道の食べ方はやっこだが、スプーンですくって味噌汁に入れるもよし、丸いパックに入っているので、そのままぱかっとお鍋に入れるもよし。「最近は若い子が、これ(豆乳ババロア)だけ買っていってくれるみたいなこともありますよ。もちろん昔から来てくれる人もいるし、ベビーカーを押したお母さんもいる。スーパーじゃなくて、お豆腐屋で豆腐を買いたいと思ってくれる人が今もいるんだよね。あとはさ、油揚げを1枚おまけしたりすると、そのお客さんが大体何か持ってきてくれるの。田舎から送られてきた野菜とかさ。そういう物々交換をよくするんだよ」もらった野菜はお店の機械で揚げて、家族で食べるらしい。なんという、ほっこりエピソード。板橋で取材をしていると、東京ではなく、地元の田舎にいるのではないかと錯覚する瞬間が何度もある。お客さんのなかには、毎朝6時半に豆乳を入れる容器とお金を店頭に置いてラジオ体操に行き、帰りに受け取りにくる常連さんもいるのだそう。それを続けて、なんと20年。その方にとってはもう、吉野屋豆腐店は人生の一部なのだ。いたばしPayに関しても、「スーパーだと後ろに並んでるからプレッシャーがあるし、特に高齢の方はすごく勇気がいるみたいで。だから初めての人は、うちで練習していけばいいよ」と話す石倉さん。お会いしてからしばらくはどことなく緊張感があって、まさに“職人”という趣を感じていた。しかし、お話を聞けば聞くほどさっぱりと気のいい、やさしい人だなと思った。時が来たら潔く決断し、軽やかに自分の人生を生きているところも粋だ。そんな石倉さんがつくるお豆腐も、とてもやさしい味がする。そういえば、メニューの字がとても素敵なので、思わず「どなたが書かれたんですか?」と尋ねると、「あ、これ私」との答えが。ちょっと遊びがあって、とてもいい。「字、とてもきれいですね」と言ったら、「よく言われる!」と笑っていた。その感じも、石倉さんっぽくてこちらまで笑顔になった。最後に買い物をしたら油揚げを1枚おまけしてくれたので、今後は何か物々交換できるものを持って、また遊びに行こうと思う。