大学時代、昭和のフォークソングをこよなく愛する友人に連れられて、よく昔ながらの喫茶店に足を運んでいた。ふかふかのソファに、温かみのある照明。たまに彼がぼそりと語り始める、好きなフォークシンガーのエピソードに耳を傾けつつも、基本的にはたいした会話もせず、各々がのんびりと過ごす時間がとても心地良かった。喫茶店で流れる時間は、とてもゆっくりとしている。本や新聞を読んだり、ただぼうっと物思いにふけったり、ペンを走らせて書き物をしたり。ただ美味しい一杯のコーヒーをじっくりと味わう人もいる。老若男女がフラットに集い、自分の時間を過ごせる居心地の良い空間。それは、いわゆる今風のカフェやチェーン店にはない、喫茶店ならではの魅力だと思う。そんな昔ながらの喫茶店も、多くは店主の高齢化や跡継ぎ問題などの理由から店を畳み、今では貴重な存在になりつつある。今回伺った「珈琲館 イヴ」もまた、高島平エリアに残る数少ない喫茶店だ。新高島平駅から徒歩1分。昭和47年に、ファミリー名店街にオープンして以来、まちの変遷を見守ってきた。この日は朝からバケツをひっくり返したような土砂降りで、団地の間を吹き抜ける強い風で傘がひっくり返ってしまっている人たちが何人もいた。木枠が印象的な扉を開けると、「こんな雨のなか、大変でしたね」と、店主の阿部剛さんと、妻の直美さんが出迎えてくれた。おふたりのやわらかい雰囲気に、ほっと心が解けていく。こぢんまりとした店内には、あたたかみのある明かりが灯り、有線放送のジャズミュージックが流れていた。左手にはカウンター席、右手にはゆったりとしたテーブル席が並ぶ。一番奥の席では、喫煙も可能。入口の大きな窓からは高島平緑地の緑が見える。この美しい借景を活かして、ドラマの撮影で使われることもたびたびあるらしい。「落ち着くでしょ。若い女の子がこの席で、一人でぼーっと外を眺めながらコーヒーを飲んでいくこともあります。喫茶店の中からこれだけ緑が見えるところって、意外と少ないんですよ」サイフォン式で淹れたコーヒーをはじめ、喫茶店らしいナポリタンやピザトースト、サンドイッチなどの軽食、デザートを楽しめる。いざ取材を始めようと席に座らせてもらうと、思わず「わあ」と声が漏れた。何だかものすごく落ち着く。すると、阿部さんからこんな言葉が。「うちの喫茶店の椅子って、異常に低いんだって。この間、一脚壊れちゃったから専門店に探しに行ったんだけど、うちのはほかの店のより5cmぐらい低いみたいで、こんなの見たことないですよって。座るとみんな目線が低くなるから、よけい落ち着くのかもしれないね」よく見ると、椅子の足がだいぶ短めだ。この高さが妙に安心するらしい。買い直した椅子の脚も、今までのものと高さを合わせてカットしたらしい。「50年以上も経てばいろいろ壊れたり、割れたりするからね。だから、備品や内装はちょこちょこ変えているけれど、基本的にはオープンしたときからあまり変えないようにしてきました」と剛さんは語る。ここはもともと、剛さんのお母さんがやっていた喫茶店だ。高島平団地が完成した年、剛さんが5歳のときに一家でこのまちにやってきた。幼い頃から、このイヴによく遊びに来ては、ジュースを飲んでいたのだそう。そして18歳の頃に、お母さんが知人からイヴを任され、店を経営することになった。剛さんは大学の建築科に進学。卒業後は、建築士として、大手住宅総合メーカーの設計部で住宅の設計をやっていたという。「その後バブルがはじけて、会社に見切りをつけて辞めて。当時の本音を言えば、自分で事業を立ち上げるまでの腰かけとして、この喫茶店の経営を手伝おうと思っていたんです」しかし、その間に直美さんとの結婚や子どもたちの誕生を経て、自然の流れでお母さんから店を引き継ぐことに。それから30年以上にわたって、ご夫婦で喫茶店を切り盛りしている。「なるべくそのままを受け継いでいく」をモットーに、昔からのお店の雰囲気は守りつつ、時代に合わせて新しいものを取り入れてきた。その一つが、このグラスだ。イヴ名物の、ハート型のグラス。レトロさを残したポップで可愛らしいこのグラスは、若い世代や団地巡りに訪れるマニアたちの間で話題になり、SNSでもたびたび取り上げられている。ウワサによると、普通の白いストローではなく、赤いストローが刺さっていたらラッキーらしい。「喫茶店というと、ご年配の常連さんだけのイメージがあるかもしれないけれど、そうじゃなくて、やっぱり若い人たちにも来てほしいからね」グラスだけでなく、ガムシロップやミルクの入れ物など、店内の至るところにハートが隠れているので、訪れたときはぜひ探してみてほしい。また、剛さんが店内で一つひとつ丁寧に調理をする軽食メニューにも、お客さんに喜んでもらうための工夫が散りばめられている。たとえば、今や喫茶店の軽食の代名詞でもあるナポリタン。イヴのナポリタンは、太めの麺がもちもちで、酸味と甘味のバランスも絶妙。上にはチーズがのっていて、麺の温度でとろけて絡まるとさらに美味しい。「学ぶためにさ、外のスパゲティ専門店とかに行って観察すると、やっぱりチーズをかけたものをお客さんが嬉しそうに食べてるんだよね。そうか、単純にちょっとこれやるだけで喜ぶんだって。それでうちのメニューにも取り入れてみたりとか」サラダとスープ、選べるドリンクがセットになっていて、大満足のメニューだ。ちなみに、この日はお目にかかれなかったが、同じ商店街のお肉屋さんで薄くスライスしてもらった豚肉を使った「しょうが焼き」も、隠れ人気メニューだそう。「もともとね、料理が好きだったんですよ。小学生の頃から一人で天ぷらをつくったりしていたので、調理に対してはそんなに抵抗はなかったかな。それでいろいろやっていたら、メニューが増えて大変なことになっちゃったけど」各種パスタにカレー、ピザトースト……。たしかに、喫茶店なのに軽食メニューがだいぶ豊富だ。「食べたいっていう人がいる限り、メニューからなくせないんだよね」と苦笑い。調理は剛さんが一人で担当しているため、混み合う休日はぜひ、コーヒーを飲みながら本でも読んで、のんびりと待とう。こうした小さなアップデートの積み重ねによって、今ではイヴを目がけて都外から電車に乗ってやってくるお客さんも増えている。ただ、どんなに時代に合わせて手を加えても、イヴの看板であるコーヒーだけは、豆の種類も淹れ方も、ずっと頑なに変えていない。豆は、50年以上の付き合いになる問屋と焙煎士から仕入れたものを使用。酸味と苦味のバランスが良く、飽きがこない。サイフォン式で淹れることで、お湯が一定の温度で温められるため、ムラがなく安定した味わいになるのだそう。「母が勉強してきたことを受け継いで、ここまでほぼ変えずにやってきました。本当はコーヒーの話なんていくらでもしたいんだけど、お客さんに押しつけたくはないから、コーヒー好きの人に聞かれたら話すくらいにしています。お客さんのなかには、『40年前にここでアルバイトしていました』とか、『昔ここの高校に通ってて、よく来ていました』っていう方もいらしてくれるんですが、その懐かしいとか、変わっていないねっていう言葉に癒されるんです」“変わらない”を維持するのは、もしかしたら一番難しいことなのかもしれない。生産国周辺の情勢が変われば豆は仕入れられないし、信頼する焙煎士がいなくなれば味わいも変わってしまう。可愛らしいカップやソーサ―も、すでに取り扱いを終了している場合、一度割れてしまえば全く同じものはもう手に入らない。何十年経っても変わらずにいることは、じつはたくさんの努力と奇跡に支えられているのだと気づかされる。時代とともにどうしたって変わっていくもの、変えていかなきゃいけないものはある。そこには柔軟に対応しながらも、大切に守り続けたいもの。それが、剛さんにとっては自慢のコーヒーの味と、この居心地の良い空間なのだ。剛さんに「お店をやっていてよかったと思うことは何ですか?」と聞くと、「そりゃもう、人と出会うってことだよね」と間髪入れずに返ってきた。「ここで30年以上やってきて、本当にいろいろなお客さんが来ましたよ。芸能人も政治家も、いつも入口の席に座るゴッドファーザーみたいな人もいたし。毎日顔を出してくれる90代の常連さんもいれば、若い学生さんたちもいる。出会うたびに、こういう人もいるんだなとインプットしていくのが楽しいんです」今後、高島平団地は建て替えが計画されている。それはつまり、このお店もゆくゆくはなくなってしまうことが決まっているということ。「団地があるかぎりは、頑張りたいと思ってるけどね。10年もすれば僕らもまた年を取るし、そのあとにどうしていくかはもう、自然の流れですね」どんなに歴史があっても、ファンがいても、お店はいつまでも永遠にあるわけではない。だからこそやっぱり、行けるときに行くべきなのだ。行きたいと思った日が吉日。この空間で、ゆっくりと流れる時間をこころゆくまで楽しんでほしい。