新高島平は、ちょっと不思議な駅だ。初めて降り立ったとき、高島平緑地の向こう側にそびえたつ、巨大な高層団地の存在感に驚いた。昭和46年に建てられた「高島平団地」。一万戸の住宅が集合していて、現在も多くの区民が暮らしているという。その1階部分には「ファミリー名店街」という名のレトロな商店街が広がり、昔ながらのお店が今も営業を続けている。今回取材で伺ったのは、そのうちの一つである魚屋さんだ。お店の入口には焼き魚や煮付け、いかの塩辛などのお惣菜が並び、ご近所さんと思しき方たちがふらっと立ち寄って眺めていく。創業1969年。ファミリー名店街の名にふさわしく、家族だけで経営を続けている。現在、お店を運営しているのは、2代目大将の黒田昌良さん、妻の真理子さん、そして今は結婚して隣町で暮らす娘の希望さんの3人だ。初代である昌良さんのお父さんは、もともと赤羽で商売を始め、その後千葉のスーパーで魚屋をやっていたそう。当時は魚が売れに売れ、事業は絶好調。それからこの新高島平の土地を紹介され、このファミリー名店街でお店を始めた。板場にお邪魔すると、ちょうど昌良さんと希望さんが、店頭に並べる商品の仕込みをしているところだった。昌良さんが手際良くお刺身を切っていく隣で、希望さんはアジをたたいている。なめろうをつくっているらしい。魚屋さんといえば、お刺身や一本モノの魚を売っているイメージが強いが、黒田水産は店内で調理した自家製の商品がかなり充実している。「自家製のなめろうを置いている魚屋とか、あんまり見たことないでしょ。たまにお客さんにも言われるの。これじゃあ、料理屋さんじゃないですかって」魚屋さんの一日は、早朝の仕入れから始まり、とにかく忙しい。お惣菜の調理は手間がかかってしまうため、一般的にはなかなかやらないそうだが、黒田水産では15年以上前から、家族で分担して行っている。「以前と同じように、ただ生の一本物の魚を並べていても売れないんです。今は、煮付けのやり方もわからないし、そもそも魚を触るのも怖いという人も増えていて。だから、うちで煮たり焼いたりというところまでやるようになったんです」と希望さん。たしかに、一本物は上手く扱う自信がないという人も多いだろう。知識豊富な魚屋さんが、美味しい食べ方で調理してくれたお惣菜たちは、間違いないに決まってる。聞けば昌良さんは、お父さんに「魚屋はいずれなくなるから、お前は料理人になれ」と言われて調理師免許を取り、もともと軽井沢のホテルの和食部門で働いていたらしい。真理子さんとの結婚を機に、家族を養うために魚屋を継いだというが、その時の経験や技術も確実に活きているのだろう。「うちは特殊な魚屋だから。そこらの魚屋さんには負けないと思うよ」。昌良さんがそう語る理由は、お惣菜以外にもいくつかある。そのなかでも特徴的なのは、やはりお刺身だ。店内のショーケースに並ぶ、キラキラと輝くお刺身たち。タコやカツオ、ホタテ。一番人気のマグロのお刺身は、ひと舟1500円。一般的なお魚屋さんやスーパーに並ぶお刺身と比べると、やや高価な印象だ。でも、それにもきちんと理由がある。「根津に、日本一の魚屋と言われている『根津松本』という魚屋さんがあって、俺はその店を目指しているんだよね。松本さんでは、ミシュランの星付きの日本料理屋さんや寿司屋さんで扱うレベルの、質の高い魚を置いているんだけど、うちではそれと同等のものを、高島平価格で売ってるの。なるだけ生、そして天然モノにこだわってね」この日店頭に並んでいたお刺身も、朝6時に昌良さんが豊洲で一本買いしてきた、天然の生インドマグロを切ったもの。鮮度も品質も抜群。それを思えば1500円という価格はかなり良心的だ。ホタルイカは、富山湾内でとれた地物のなかから、さらに特選品を仕入れている。生で美味しく食べてもらうために、軟骨や目玉、くちばしは事前に一つひとつ丁寧にとってから、パック詰めに。これをワンコイン以下で食べられるのはすごい。さらには、魚屋さんはおろか、一般的なお寿司屋さんでも扱わないような高級な商品も、たくさん仕入れているらしい。昌良さんが「特殊な魚屋」と言うように、たしかに昔ながらのまちの魚屋さんと聞いてイメージするものとは一線を画している。しかし、昔からこのスタイルだったわけではない。方向性を変えた大きなきっかけは、コロナ禍だったという。「コロナ禍もあって、ちょっとお店のやり方を変えなきゃしょうがないなと思って。当時、ホテルも飲食店もやらなくなって、高級な魚も市場に溢れてたからね。一方で、家飲み需要で、自宅でいいものを食べたいというニーズが増えていたのもあって、よその魚屋では見ないようなものを扱ってみることにしたんだよ」市場が困っていた時期に高級な魚を買い、お店で提供することにした昌良さん。それが上手く家飲み需要とマッチし、コロナ禍でも売上は上々。その好調ぶりは、今も続いている。本来であれば、一見さんには売ってくれないような商品を仕入れられているのも、そのときの“持ちつ持たれつ”の関係があるからなのだ。扱う商品を変えたことに伴って、店のブランドも意識するように。「黒田魚道庵」という新しい名前を付け、家族3人、お揃いの帽子とTシャツを身に着けている。「面白いのがあるよ」と昌良さんが見せてくれたのは、宮城県の塩釜で獲れたマグロの脳天。200kg近い大きなマグロから、たった2本しかとれない希少部位だ。これも本来は、ミシュランの星付きの高級なお寿司屋さんでしか扱っていないのだという。「銀座に行ったら、これ1切れで3000円くらいするよ」と笑う昌良さん。それが黒田水産だったら、8切れくらい入って1500円で買えてしまうというから驚きだ。初めて見る脳天にテンションが上がってしまい、興味本位で「どんな味がするんですか?」と聞いてみたところ、特別に味見をさせてくださることに。一口食べて驚いた。一見筋のように見えるが、筋っぽさはなく、まさに溶ける食感......。もし店頭に並んでいたらラッキーなので、ぜひ試してみてほしい。「値段だけ見ればちょっと高いから、毎日っていうワケにはなかなかいかないし、安いだけのものを求めているならスーパーに行けばいいと思う。だから俺は、美味しいものを食べたいときに利用してほしいんですってお客さんに言ってるの。実際そういう人が増えてさ。たとえば、長いこと入院していた人が、やっと退院できたから美味しいものを食べたいとか。孫やお客さんが来るから、美味しいものを食べさせたいとかね」おめでたい年末年始には、お刺身の盛り合わせの注文が殺到し、朝2時から準備をするのだとか。「年末にお刺身を食べてくれた人から、年明けに『海沿いの海鮮が美味しいと有名なところに旅行したけれど、あんたのところの刺身の方が美味かったよ』って言われたりしてね。小さい頃はほとんど褒められなかったけれど、今こうやってお客さんから褒めてもらえることが増えてすごく嬉しいんだよ」「毎日が楽しい」。取材中、何度か昌良さんの口から出た言葉だ。嘘のない、素直な言葉にハッとした。「子どもの頃は実家が魚屋っていうと、からかわれたりもするし嫌だったんだけど、今は自分で一生懸命やってお客さんがたくさん来てくれて、楽しいよ。この間だってさ、うちの娘が外にいて、お客さんが『お姉ちゃん、昨日のブリ刺しおいしかったよ。ありがとう!』って。こっちからしたら買ってもらって、儲けさせてもらってるのに、お礼まで言ってもらえてさ。おかげさまで、いたPayをきっかけに来てくれるお客さんも増えたし、子どもの頃から思い描いていた夢もほぼ叶ったよ」週に一度のお休みが楽しみだという昌良さん。じつは取材当日が58歳のお誕生日で、翌週にはご家族で別荘に遊びに行くのだと教えてくれた。日々懸命に働いてお金を稼ぎ、自分の好きなもの、したかったことに使う。それを地で行く昌良さんの生き方は、豪快でかっこいい。「俺の最終的な目標は、地元のお客さんたちの会話の中で、『黒田水産の魚をいつも食べてるよ』って自慢できるような魚屋さんになることだね。そのためにも頑張るよ」