無性に畳に寝転がりたくなる瞬間があるのは、なぜだろう。祖父母の家に遊びに行った記憶の懐かしさからか、それとも私たち日本人のDNAに刻まれた何かなのか......。現代の子どもたちはどうかわからないけれど、畳には人の心を解き、開放的な気持ちにさせる魅力があると思う。今回のいたPayさんぽの舞台は、そんな畳の張り替えを120年以上に渡って手掛ける畳屋さんだ。東武東上線 中板橋駅から徒歩5分ほどの場所に工場を構える「加藤畳店」は、明治30年頃に創業した。「じつはどこから始まったか、あんまり定かじゃないんですけどね。記録が残っていないんです」そう笑うのは、5代目店主の加藤修一さん。もともと現在の北池袋あたりに店舗があったそうだが、先代である父・和男さんが子どもの頃に、この中板橋に移転してきたらしい。埼玉県戸田市にも姉妹店があり、それぞれ隣接する区や市における畳替えを請け負っている。依頼主の約8割が一般住宅のお客さんだという。毎朝9〜10時くらいになると、古くなった畳を引き取りに、依頼主のお客さんのご自宅へ。その後、午後にかけて畳を張り替え、夕方にはお客さんのもとへ納品しにいくというのが、加藤畳店の一日だ。そもそも“畳替え”というものに、馴染みがない人も多いかもしれない。畳は、畳表(表面のゴザ)・畳床(芯の部分)・へり(縁の部分)で構成されていて、私たちが触れる畳表はイグサからできている。植物ゆえに、長年使っていると色が褪せたり、表面が剥げてきてしまったりするのだ。そのように古くなった畳を替える方法は、いくつかあるのだという。「基本的には、今ある畳をきれいにして戻すか、古い畳と新しい畳を入れ替えるか、そのどちらかが私たちのメインの仕事になりますね。本体から丸ごと新しくするのは『新畳』。畳床はそのままいかして、ゴザだけ新しいものに替えるのを『表替え』と言います」それに加え、畳床はそのままに、ゴザを裏返してきれいな面を表にして張りなおす「裏返し」があり、昔はまずこれを行うことが多かったのだそう。新しいものに取り替えるよりも、格安できれいにできる。「昔は、畳屋に依頼するスパンが今よりもっと短かったんです。まずは『裏返し』して、裏も使った上で新しいものに取り替える。今はそもそもゴザの裏が使えることを知らない方がほとんどで、皆さん10年以上経って徹底的に傷んでから依頼してくるので、新しく替えてしまうことが多いですね」畳表に使うイグサのランクは、じつはかなり幅広い。外国産の安価なものから、イグサの名産地である熊本県産の厳選された最高級品まで、お肉のようにランクが分かれているので、好みや予算に合わせて選べる。「ランクが高くなると、長い草のきれいな部分だけを選りすぐって織っていくので、目が詰まっていてきめ細やかな質感になります。耐久性も良く、年数が経っても美しい風合いが続くので、安いものと比べると持ちは良いですね」なかでも、有機肥料栽培の優良品種である「ひのみどり」を使ったものは、加藤畳店が自信を持っておすすめする身体にやさしい畳だ。もちろん予算との相談だけど、畳の部屋が限られているのであれば、素材にとことんこだわってみるのもありかもしれない。工場で目を引くのは、某有名アニメの初号機のようなビビットな色合いの機械。コンピューターシステムが導入された東京でも数台しかない最新のマシーンだそう。「畳屋さんもこんなにシステム化されているのか......」と驚いた。「手で縫っていた時代はもうずいぶん昔ですね。それからコンパクトなミシンのような機械ができて、だんだんと大型化されていきました」引き上げてきたもとの畳の大きさと数ミリでも変わってしまえば、部屋にぴったり入らなくなってしまうため、畳替えは想像以上に繊細な作業。昔は、職人が自らの目とものさしで大きさを測り、それに合わせて手作業でカットしていた工程を、今はコンピューターが担っている。そのため、精度やスピードがぐんと上がったそうだ。それでも、職人さんの手仕事が必要な部分もある。その一つが、畳の縁を付ける作業だ。事前のヒアリングでお客さんに選んでもらった縁を、手作業で一つひとつ丁寧に取り付けていく。ここ数年の縁のトレンドとしては、汚れが目立ちにくい柄ありで、ゴザの色に近い色合いのものが特に人気だそう。一方、最近では畳の素材が多様化したことで、縁がない畳も人気を集めている。「縁があると和室っぽさは出るんですが、どうしても部屋が区分けされたように見えてしまうので、縁が目立たない方が空間として広く感じるんですね。最近では、和紙や樹脂といった素材が出てきて価格がぐんと下がったことで、縁なしの畳がかなり一般家庭にも普及してきました」防水性が高く、汚れに強い樹脂の畳は、飲食店や旅館で重宝され、イグサに近い肌ざわりを持ちつつ耐久性があり、変色しにくい和紙の畳は、ペットのいるご自宅にもおすすめ。どちらも、カラーバリエーションが豊富なのも特徴だ。この縁なし畳であれば、洋室にぴったり合うように採寸して敷き詰めたら、和室に変身させることもできる。昨今、畳の部屋はどんどん減っていく一方で、畳屋としてお店を続けていくというのは並大抵のことではないだろう。板橋エリアで見ても、多いときは50軒以上あったという畳屋さんは、多くは跡継ぎがいなくて店を畳み、残っているところも普段はほぼ営業していないところばかりだという。加藤畳店も、職人さんたちがご高齢で辞めることが決まり、父・和男さんの代で規模を縮小して続けるかどうか、判断を迫られた。当時20代だった修一さんは、ディーラーで車の整備士をやっていたそうだが、会社を辞めて、しばらくは親子2人でこの店を運営していたのだそう。「父に畳づくりを教わって、2人でやっていた期間はかなり長かったですね。それから周りの畳屋がだんだんと閉じていったことで、相対的に需要が増えて、結構忙しくなったんです。そろそろ人手が必要かな、というときに、こうやって巡り合わせでぱらぱらと若い子たちが職人として入ってきてくれるようになりました」たしかに、黙々と作業する職人さんたちは、皆さん20〜30代と若い。昔から続く畳屋さんでこれだけ若い方々が働いているなんて、正直ちょっと驚いた。「うちで10年くらい長く働いてくれていた子が、今実家のある広島で自分で畳屋をやってますけどね。事情があって地元に帰って、一度は別の仕事を探してたんだけど、『せっかくなら活かしたら?』と言ったら、本当に畳屋を始めたみたいで。頑張ってますよ、今。うちで働くなかで、楽しさを見出せたんだなというのが、すごく嬉しいなって思いますよね」その元スタッフさんとは今でも関係が続いていて、お店のメンバーで広島に遊びに行ったこともあるのだそう。このエピソードからも、加藤畳店の社風が伝わってくる。そう、はじめからずっと感じていたことだが、何だかとっても親しみやすいのだ。「リフォーム屋さんとかね、建築屋さんってどうしても怖いイメージがあるでしょ。多くの畳屋さんはもう暖簾も下げて、依頼が来たときだけ営業するところが多いんですよね。だからなるべく敷居を下げて、頼りやすい雰囲気を出せるように、なるべく可愛らしい感じでやっているんですけどね(笑)」加藤畳店のオリジナルキャラクター「たた美ちゃん」と「イグサくん」は、修一さんの妹さんがつくったのだそう。「はじめはちょっと抵抗があったけどね」と修一さんは笑いつつ、畳を引き取るトラックにも貼り付けて、加藤畳店の立派なトレードマークとして活躍している。ゆるくて可愛い。「畳替えというと、どうしても大変そうなイメージを持っている方が多いんですね。だから、お客さんにはなるべく負担をかけないというところに力を入れています。畳の上にある荷物の移動や床の掃除、仕上げの拭き掃除まで、こちらで無料でやるようにしています」畳屋さんとお客さんの付き合いは、頻度で言えばかなり少ない。一度畳を替えたら、少なくとも次は数年後になる。でもだからこそ、一回一回を大切にするこの姿勢がとても重要で、丁寧な仕事ぶりが次の依頼へと繋がっていくのだろう。「喜ばれる仕事だなっていうのは、つくづく思いますよね。部屋が明るくなりましたとか、綺麗になってよかったって言ってもらえると、やっぱり嬉しいです」最後に、修一さんが思う、和室や畳の良さとは何か聞いてみた。「やっぱり、すぐごろんって寝転がれちゃうのがいいですよね。和紙の畳にももちろんいいところがあるんですが、やっぱりイグサの畳は特別だなって。草が呼吸しているから、湿気を吸って部屋が爽やかになりますし、草の上を歩いている形になるので、素足で歩いたときの踏み心地も非常にいい。選択肢が増えたことは素晴らしいと思いつつ、従来のイグサの畳もやっぱりなくなってほしくないですね」取材をしていて、いわゆる“畳屋さん”のイメージが覆る瞬間がいくつもあった。それと同時に、昔から繋いできたものを守り続けようとする思いも、ひしひしと伝わってきた。今は賃貸に住んでいる身ではあるが、いつか畳の部屋が欲しくなったら加藤畳店さんにお願いしようと、心に決めている。