子どもの頃に見ていたテレビ番組の中で、スーパーカブに乗って障害物をよけながら、出前のお蕎麦を届けるゲームコーナーがあった。出演者がすぐにせいろを落としてしまうのにやきもきしつつ、「本物のお蕎麦屋さんは、きっとすごいバランス感覚なんだな……」と幼心に関心していた。そういえば、あのバイクで出前を届ける光景を、長らく見ていない。そもそも、お蕎麦の出前というもの自体、残っているのだろうか? 少々疑問に思っていたが、今もちゃんとあった。「そば処あだちや」。今もバイク3台をフル稼働させながら、店舗営業と並行して出前注文を受け続けるお蕎麦屋さんだ。東武東上線 東武練馬駅から徒歩5分。閑静な住宅街の一角に、「そば処あだちや」はある。赤塚、徳丸3丁目で営業し、昭和42年にこの場所に店を構えた。以来、「この辺りで蕎麦屋といえばあだちや」と認知されるくらい、まちの人たちに親しまれてきた。コロナ禍にリフォームしたという店内は、窓からやわらかい光が差し込み、明るく清潔な空間だ。テーブル席とお座敷席があり、初めてでも一人でふらっと入りやすそうな雰囲気。この辺りでは珍しく、通し営業をしているため、ランチタイムを逃してしまった人にもやさしい。現在店主を務めるのは、2代目の布施浩二さん。先代の娘さんと結婚をし、平成24年にお店を継いだ。「たまたまお付き合いしたのが、蕎麦屋の娘さんだったっていう。以前バイトでやっていた飲食の仕事が好きだったのもあって、自然の流れで継ぐことになりました」もともとは、蕎麦を打った経験もなかったが、先代に教わりながら修行を重ね、今では毎朝8時にお店の地下で自ら蕎麦を打っている。蕎麦と一緒につくるおつゆの素材にもこだわりが。「基本はサバ節と宗田節ですね。このふたつを使うと、いい出汁が出るんですよ。夏場はちょっとさっぱりさせるために本ガツオを入れたり、冬はあたたかい蕎麦がメインだから、コク重視でちょっと昆布を入れたりしています」あたたかいものと冷たいもので、おつゆの作り方も違うのだそう。常に安定して美味しいものを提供したい。その一心で、布施さんは日々丹精込めて調理をしている。せっかくなので、一番人気の「天ぷらそば」を注文。この道40年の蕎麦職人・伊勢さんがお蕎麦を茹でてくださるというので、少し見学させてもらった。10人前を一気に茹でることもあるため、蕎麦たちが上手く回って均一な茹で加減になるようにと、大きな窯を使っている。その窯からは、大量の湯気がもくもくと上がっていた。さらに隣で天ぷらを揚げているため、とくに夏場の厨房は暑くて戦場だそう。「お湯が湧いてくると、自然にそばが寄ってくるんですよ。今は若い子たちもいるから、タイマーで茹で時間を管理してるんだけどね。昔はこうやって、ちょうどいい茹で上がりになると、筋が1本スーッと流れるから、それを基準に自分の目で見て上げてたの」伊勢さんは、先代の頃からこの店に入り、昭和・平成・令和と3つの時代に渡って蕎麦をつくってきたベテランだ。布施さん曰く、蕎麦と会話ができるらしい。「職人の域を超えて、変態の域ですよ」。そうして出してもらった天ぷらそば(冷たい)がこちら。蕎麦はつるつるでのどごしがいい。大きなエビや白身魚、野菜の天ぷらもサクサクで、つゆにつけて食べると最高だ。半分サイズのメニューも用意されているので、量をたくさん食べられない人、小腹が空いて少しだけ食べたい人にも嬉しい。じつは蕎麦以外にも、うどんにきしめん、中華、丼もの、一品料理など、メニュー数は100種を超える。「そば処」といいつつ、まちの食堂のような充実したラインアップだ。「お客さんの要望に応えていたら、増えちゃったんですよ。ここ5〜6年で、ちょっとじゃあ……なんて感じでやり始めて、これだけ定着してきたという感じです。蕎麦を食べるって決めて入ってきた人も、座ってメニュー見ると『ちょっと待って!』ってだいたい変わりますね(笑)」しかも、きしめん以外のうどん、中華麺も自家製だというから驚きだ。中華麺を外注していたお店が辞めてしまったので、「それなら」と自分の店で作ることにしたのだそう。お店を営業しつつ、電話やネットから出前の依頼が入ると、バイクで近隣のお宅まで届けにいく。冒頭のとおり、3台のバイクをフル稼働させて。実際にバックヤードに置いてあるものを見せてもらった。ちなみに昔は自転車を使っていたらしいが、この辺りは坂も多いため、キツくて話にならないらしい。バイクの後ろには、見慣れない仕掛けが。このバネをガチャンとすることで、商品が落ちなくなるのだそう。(正直仕組みはよくわからなかったが、きっとすごい技術なんだろう) 「うちは、出前の方が多いんですよ。割合で言えば、出前とお店で7:3くらいかな」出前でも、いたPayをはじめとしたキャッシュレス決済が可能。「電話で注文をする際に言ってもらえれば、スタッフがQRコードを持っていきます」とのこと。小さな積み重ねが大事だと信じ、配達に行ってくれるスタッフには、必ずお客さんと一言二言コミュニケーションを取るように伝えている。面白いのが、Uber Eatsや出前館といった、デリバリーサービスを併用することで、あだちやの蕎麦を注文する人がどの辺の地域までいるのかを検証しているところ。それをもとに、最近では自分たちで出前を受けるエリアも少しずつ拡大しているそう。今ではほとんどの蕎麦屋で辞めている出前を続けるのは、ご近所に求めている人たちがいるから。「やっぱりお年寄りとかね、なかなか買い物に行けない人とか結構多いので。そういう方たちに応えるためにも、注文一個でも文句言わずに持っていくよーって感じでやってます」常連さんの中には、昔からあだちやが生活の一部になっていたり、スタッフさんとコミュニケーションを交わすことが楽しみになっていたりする人もいるのだろう。すると、布施さんが常連さんとのこんなエピソードを教えてくれた。「最近、近所の常連のおばあちゃんがお亡くなりになって。からだが不自由で、結構ちょくちょく出前を頼んでくれていたんですよ。おでんとかね。そうしたらその娘さんが、おばあちゃんの棺桶にうちの出前版のメニューを入れてくれたって聞いて、つい泣きそうになりましたね。ああ、そこまで愛されていたのかって。本当にありがたいことだなと思いました」「とうとう、うちもあの世まで進出かってね」と笑う布施さんの表情は、ちょっと寂しそうでありながら、とてもやさしかった。お店を信頼し、愛してくれる人たちにこれからも利用してもらうためにも、この場所を守っていきたい。そこで布施さんは、小さな工夫をしている。たとえば、「お子様限定のくじ引き」。食事のあとにくじを引いてもらい、出た数だけお菓子をプレゼントするという可愛らしい企画だ。「おかげさまで好評で。くじがあることを知ってる子なんかはね、帰る頃になるとそわそわし始めるんですよ」たしかに、小さい頃に楽しかった思い出がある店には、大人になっても行きたくなる。もし自分に家族ができれば、その子どももきっとまた連れていくだろう。ほかにも、新聞の折り込みチラシに粗品券(ゴミ袋など実用的なものがもらえる)をつけてみたり。小さな取り組みも、長い目で見ればきっといつか実を結ぶ。「僕らみたいなお店に必要なのは、機動力ですね。とりあえずいろいろやってみて、ダメならすぐパッてやめる。行けそうならそのまま行っちゃう、みたいな。やっぱりこういった商売には浮き沈みがあって、良いときもあれば、悪いときもあるんですよ。その悪いときの底辺をなるべく下げずに、むしろ上げていくにはどうしたらいいかなって、常に考えて行動するのが大事。この機動力で今もなんとかやってますよ」へこむこともあれば、頭を抱えたくなる日もある。でも、お店を続けていくためには、ネガティブになんてなっていられない。浮き沈みがあることすらもポジティブに捉え、常に前に進み続ける布施さんと、そば処あだちやのこれからを、応援したいと思った。