「住んでいるまちに漬物屋ってある?」聞かれてよくよく考えてみたけれど、たしかに都内でお漬物屋さんを見かけた記憶があまりない。実際に、全国から取り寄せた漬物を売る専門店や、特定の漬物に特化したお店は都内にわずか数軒残っているが、「自家製漬物」をつくって小売店として販売するお店は、東京にたった1軒しかないらしい。いわば、絶滅危惧種。教えてくれたのは、そんな貴重な自家製漬物屋である「坂井善三商店」の2代目店主・坂井清峰(きよたか)さんだ。にっこりと優しい笑顔が印象的な人で、小学校の頃から「じいさん」というあだ名で呼ばれていたらしい。(ご本人は“丸顔”を自称している)お店は、東武東上線 中板橋駅の北口から徒歩3分ほどの場所にある。白いのれんがかかった木造の建物は、趣きのある落ち着いた佇まいだ。しかし気取った雰囲気はなく、ポップな看板からも親しみやすい雰囲気が伝わってくる。昭和27年創業。初代・坂井善三さんが、新潟の実家でつくる味噌や醤油を販売するために、この地に店を建てたのが始まりだ。その起源を聞くと、店名にわかりやすく”漬物屋”と入っていない理由も頷ける。「当時、みんな毎日漬物を食べていたので、醤油や味噌と合わせて漬物を作ってみようか、ということで、簡単にできる糠漬けや刻み漬けから始めたと聞いています。そこからだんだん漬物にシフトしていって、昭和34年生まれの僕が物心がつく頃にはもう、漬物屋としてやっていましたね」もともと下町らしい、オープンな店構えだった坂井善三商店。猛暑の影響もあって、より人にやさしい店にしたいと、2014年11月に現在の落ち着いた雰囲気の建物にリニューアルした。長年お店を支えてきた父・善三さんと母・京子さんは今は亡くなり、今は清峰さんと妻の祐江(さちえ)さん、そして妹の郁予(いくよ)さんの3人で切り盛りしている。「大学を卒業したあとは、八王子のそごうで経理の仕事をしていました。会計学科を出てたから、履歴書だけで経理に回されて(笑)。母が59歳の時に大病をしたのがきっかけで、この店に手伝いに入ったんですよ」「だから親父も僕も修行してないの!」と明るく笑う清峰さん。本を読んだり、単純に自分が食べてみたいと思ったりした食材をとにかく漬けてみて、美味しいと感じたものをアレンジしながらメニュー化しているのだそう。店内に並ぶお漬物たちを見てみると、とにかく種類が豊富。きゅうりや大根、長芋といったベーシックなものから、旬のコリンキーや水茄子、青ザーサイ、カブといった期間限定商品、坂井善三商店オリジナルのピクルスなどなど……。塩や酢、醤油で漬ける「浅漬け」と、70年以上の歴史を繋いできた糠床で漬ける「ぬか漬け」があり、それぞれ違った味わいを楽しめる。漬ける野菜たちは、善三さんの代からお付き合いのある足立市場の仲買さんから、その日に農家さんが出荷した新鮮なものを仕入れているそうだ。お店の人気NO.1で「板橋のいっぴん」にも選ばれている「柚子ジュレトマト」は、10年ほど前にお客さんからの要望があって誕生したメニュー。A級品の大きくて真っ赤な完熟トマトをまるごと一個塩漬けした、贅沢な一品だ。「最初は『邪道だからやらない!』って言っていたんですが、(祐江さんと)2人で京都に勉強をしにいったときに、トマトの漬物を試食でつまんだら美味しかったんですよ。でも、甘かった。これは、もっとうちのお客さんに合った味にできるなと思って、1か月くらい試行錯誤してつくりました」寒天とゼラチンを配合し、のどに引っかからない弾力にこだわったジュレは、つるんとなめらか。さらに、さっぱりした高知県馬路(うまじ)村と、甘くて濃厚な埼玉県越生(おごせ)町の柚子果汁とブレンドしたという漬け汁の爽やかさに、思わずうっとりする。自宅で味わって食べるのはもちろん、ホームパーティの手土産にしても喜ばれそうだ。「漬物と言うと発酵食品のイメージがあると思いますが、それはもともと京都の文化。柴漬けも、京都のものは発酵していますが、東京のものは酢漬けなんです。今はもう発酵食と言いつつ、漬物屋全体が浅漬けに移行して、サラダ感覚で食べるものになってきているんですよ。うちで扱っている発酵食品も、ぬか漬けだけですね」知らなかった......。ちなみにぬか漬けにも浅漬けと古漬けがあり、後者は乳酸菌が発酵してかなり酸味のある味わいに。すっぱい漬物は売れないのでは?という予想に反して、意外にも若い人たちに人気で、遠方から買いに来ることも多いのだそう。坂井善三商店では、妹のさかっち(郁予さんのあだ名)さんが、主にぬか漬けを担当している。なかには、あまり見慣れない食材たちも。「本を見て、自分が食べてみたいなと思う食材を漬けてきた感じです。最初はお豆腐とかこんにゃくとかいろいろやってたんですけど、結局自分が食べて好きだったものが残りました(笑)。アボカドと半熟卵は1年中やっていて。一番出るのはやっぱりきゅうりだけど、変わり種もコアなファンがいますね」さかっちさんは旅好きで、旅行先で出会った食材を仕入れては漬けてみて、実際にメニュー化したものもあるという。オリジナルの「和風ぴくるす」には、八ヶ岳のペンションに泊ったときに、お土産としてもらった糸カボチャが入っている。実際に食べさせてもらって思うのは、どれも塩味が絶妙で、やさしい味わいであること。じつは、この“しょっぱくない”というのが、坂井善三商店の漬物のこだわりなのである。「お客さんの要望は結構取り入れてるんだけど、塩加減だけはあまり変えないの。もっと濃い、はっきりした味の方がいいって方も中にはいらっしゃるんですけど、食べ続けることで健康に悪影響が出ちゃダメじゃない? だから、うちは毎日でも食べられるような薄味の漬物をつくっているんです」たしかに、ガツンとしょっぱいお漬物も美味しいけれど、どうしても塩分は気になるところ。でもここの商品は、しっかりと旨味はありつつ、塩分が控えめだから、罪悪感なく食べられるのが嬉しい。そういえば、接客や梱包を主に担当する妻の祐江さんは、もともとお漬物が嫌いだったらしい……が、この店の商品を食べてその美味しさに驚いたという。「まずもう匂いが本当にダメで、私の人生に漬物いらないよ!っていう感じで生きてきたので(笑)、いざここの漬物を食べてこんなに違うの!って。嫌な匂いが全然しないし、漬物ってこんなにおいしいんだという衝撃がありましたね」お漬物が嫌いで、人生に必要ないとまで思っていた祐江さんが、お漬物屋の清峰さんと結婚し、お漬物の美味しさに感動し、今では一緒にお店をやっている……まるで、ドラマのようなストーリーだ。「善三」と大きく描かれたシンプルでセンスを感じるパッケージのデザインも、リニューアルに際して祐江さんが考案したもの。(善三の文字は、きれいに左右対称で縁起がいいことから)ちなみに、パッケージの裏側のラベルにもちょっとした仕掛けがある。商品名の下に数行のテキストが書かれているのだが、なんとこれ、一つひとつ内容が違うのだ。どんなことが書かれているのかは、手にとってみてのお楽しみ。「実際、ここまで見る人は100人に1人くらいなの。みんなが見てくれるわけじゃなくても、一人でもいる限り、一生懸命用意だけはしておくみたいな。そういうのが仕事の基本だよね。僕としても、楽しいからやってるだけなの」「漬物をつくったり、面白いことを考えたりするのが好きなんだよね」。そう話す清峰さんは、本当に楽しそうで、嘘のない心からの言葉なんだろうなと伝わってくる。公式サイトにブログ、月刊通信「いつみてもまるがお」、「きよまる新聞」など、さまざまな形でマメに、そしてユーモアたっぷりに発信を続けている清峰さん。ただでさえ忙しい日々の中で、ここまでやれるのはなぜだろう、と思っていたけれど、なんとなく答えがわかった気がした。仕事をして、人に喜んでもらえることはもちろん嬉しいけれど、それはあくまで、自分の“好き”や“楽しい”の延長線上にあるものなのかもしれない。「こうやってやれているのは、これまでの漬け方を真似しろとか、強制せずに好きなようにやらせてくれた両親のおかげだと思います。若い頃は仕事とやりたいことが分かれてたけど、今はあんまりだね。やっぱりこれ(お店をやること)が楽しい。だって、いろんなことできるじゃん。自分がつくったもので笑ってくれるし、おいしいって喜んでもらえるんだから」そんなふうに言えるのって、素敵だなあと思う。清峰さんにとってこのお店は、自分の好きを存分に表現できる格好の場なんだろう。最後に、個人的にお漬物をいくつか買おうとレジに持っていったら、唐突に清峰さんとのじゃんけんタイムがスタート。運よく勝つと、祐江さんがおもむろにラッパを取り出して「パフパフ~!」と鳴らしてくれた。なんだこれ、愉快すぎる。ここは、何度でも通いたくなるお漬物屋さんだ。坂井ファミリーと何気ない会話を交わし、美味しいお漬物を手にした帰り道の足取りは、きっと少し軽くなっている。