個人的には「朝食はパン派か、ごはん派か」と問われれば、圧倒的にごはん派なのだけど、まちでガラス窓から美味しそうなパンがずらっと並んでいるのが見えると、ついつい立ち寄ってしまう。最近はおしゃれなパン屋さんも増えているけれど、やっぱり地域に根ざした昔ながらのパン屋さんもいい。誰でも気軽に入りやすくて、ベーシックな食パンから、お惣菜パンまで種類豊富な商品が並ぶ、ほっとするお店。この板橋エリアにおいて、そんな老舗ローカルパン屋と言えば、「マルジュー」を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。JR 板橋駅、都営三田線 板橋区役所前駅、そして東武東上線 大山駅と、板橋エリアの3つの駅に店舗を構えるマルジュー。今回は、本店である大山店に取材に伺った。大山駅南口を出て、すぐ目の前にお店はある。右側にはファミリーマート、2階にはサイゼリヤがあり、迷うことなく辿り着ける。中に入ると、ふんわりと美味しそうなパンの香りが。100種類ほどのパンがずらりと並び、見ているだけでちょっとワクワクしてくる。到着した10時半頃にはすでに、ご近所さんと思しきお客さんたちがトレイとトングを持ってパンを選んでいたり、奥に広がるイートインコーナーで少し遅めの朝食(早めの昼食?)をとっていたりしていて、賑わっていた。スタッフさんたちも、入れ代わり立ち代わり、厨房でつくって焼いた出来たてのパンをスピーディーに運んでいく。大正2年創業。マルジューといえば老舗のパン屋さん、というイメージは何となくあったけれど、その歴史は想像以上に壮大だった。本家「丸十ベーカリー」の始祖・田辺玄平さんは、日本で初めてパン酵母による製パン法を開発した人なんだそうだ。明治34年に貿易を学ぶために単身で渡米し、そこで得たパンの製法の知識をもとに、研究と開発を繰り返した。「日本にパン食を普及させたい」という思いで、大正2年に東京上野黒門町で食パン専門店の「丸十ぱん店」を 創業。さらに大正8年には、陸軍・海軍の糧食を任されたのをきっかけに、食パンよりも携帯に便利なコッペパンを開発し、納品したのだという。つまり、丸十ベーカリーは日本の食卓にパン食を広めたことに加え、今ではお馴染みのコッペパンを生み出した歴史あるパン屋さんなのだ。「初代社長である伊東正二も、巣鴨の丸十ぱん店で修行をしたのち、暖簾分けを許されて、昭和26年に板橋区仲宿で創業したと聞いています。今は3店舗ありますが、この大山店が一番お客様の来店が多いので、数年前にこの大山店に事務所を移して、本店として営業するようになりました」そう話すのは、マルジューの製造部長を担う、方波見基(かたばみ・もとい)さんだ。7年ほど前に入社し、大山店では職人さんたちを束ねつつ、自らも日々パンをつくっている。マルジューは、お店の奥の厨房ですべてのパンを粉から手づくりする、いわゆるスクラッチベーカリーだ。パンのおいしさは、生地づくりが8割。砂糖や塩などの材料を正確に計量し、酵母であるイースト菌が“気持ちよく”働いてくれるように温度を高めに調整しているのだそう。(人間にとっては少し暑いらしい)「パンは奥が深くて、面白いですね。まさに、生き物なんですよ。毎日同じ配合、同じ手順でつくっても、同じものができないんです」すごいのは、1日のなかで量を調整して、こまめにパンを焼いていること。パン屋さんというと、朝早くから午前中にかけて一気にパンをつくって、午後にかけて売り切る、というイメージがあるけれど、マルジューでは1日に何度もパンを焼くので、夜でも出来たてのパンが食べられる。「マルジューでは、“3たて”と言いまして、焼きたて、揚げたて、つくりたて、これをいかにお客さまに提供できるかが全てなんですね。自分が行ったときにちょうど焼きたてがあると、たいていの方は感動してくださるんです。だから、夕方や夜に来たお客さまにも出来たてのパンを提供できるように、少量ずつ何回も何回もこまめに焼いています」これまでのデータ分析をもとに、天候やさまざまな要素によって日々変動する客足や売れ行きを考慮しながら、それぞれの時間帯につくる個数、スタッフさんの人員などを調整するというのは、至難の業だ。「読みが外れちゃって全然足りないよ、ということもどうしてもあるんです(笑)。でも、一時的に売り切れてしまっても、10分後、30分後にまた出来たてが並びますと言うと、お客さまはまた出直して来てくださるんですよね。僕らからすると、本当にこの仕事はエンドレスだなと思いますが、実直につくり続けることが、お客さまに喜んでいただけることに繋がるのを実感しています」マルジュー人気NO.1の「コク旨マルジューカレーパン」も、時間帯をずらしながら1日に20回揚げているらしい。多いときは300個近くカレーパンが売れる。このカレーパンは、2022年に「カレーパングランプリ」初参加で金賞を受賞し、「板橋のいっぴん」にも選ばれた、方波見さんにとって思い入れのある商品らしい。今年から、フィリング(パンの中に詰められているカレー)を、工場でつくられた出来合いのものから、自家製のものに変えたそうだ。「一番はやっぱり、自分たちが自信を持っておいしいと思えるものをつくりたいからですね。人気NO.1の商品なのに、なぜ自分たちのところで全てつくらないのかという話もありましたし、タイミングよくパンの講師の方との出会いもあったので、じゃあ自家製にチャレンジしてみようと。細かいスパイスの量や具材の大きさなどを調整できるので、試行錯誤を重ねて今の形に至るまでに3か月くらいかかりました。自家製に変えたことで、カレーパンが人気NO.1から落っこちちゃったらどうしようと思っていたんですが(笑)、おかげさまで売れ行きも好調で、お客さまにも好評をいただいています」パンを割ってみると、中にカレーがぎっしりと入っているのにまず嬉しくなる。生地はもちもち、こだわりの自家製フィリングにはホロホロとした牛肉が入っていて、しっかりとコクを感じる。おいしい。方波見さん曰く、カレーパンを含め、ほとんどのパンは焼き上がって粗熱が取れた頃が、適度に水分が抜けて一番おいしく食べられるそうだ。フランスパンなどのちょっと固めのパンは、美味しく食べられる寿命が短いので翌日に持ち越さず、「出来たての4時間後に食べてみてください。できればマーガリンでなく、バターで!」と力強く教えてくれた。こうしたおいしい食べ方や、おすすめのパンの組み合わせを、積極的にお客さんに伝えるようにしているという方波見さん。作り手として、マルジューのパンに自信と愛を持っているからこそ、その言葉には説得力がある。ちなみに、そもそも方波見さんがパン職人を志したきっかけを聞いてみると、意外な答えが返ってきた。「当時、20歳ぐらいですかね。銀座にちょっと用事があって行ったときに、某老舗ベーカリーの前を通りがかったんです。ガラス張りの窓越しに、職人さんが窯からパンを出す姿が見えて、これはかっこいいなと思いまして」その光景に強烈に心を動かされた方波見さんは、勢いのままに求人誌からそのベーカリーを探して連絡。やる気があるならいいよ、と未経験からアルバイトに採用され、いつの間にか社員になっていた。まさに、運命的な出会いだ。その後、いくつかパン屋さんを経験したのち、活気ある商店街のパン屋という点に魅力を感じ、マルジューに入社した方波見さん。2代目社長の独創的なひらめき、実行力に刺激を受けながら、日々よりおいしいパンづくりを追求している。「職人としては、フランスパンを買っていただけると非常に嬉しいんです。なぜかというと、生地の配合がシンプルだから。高級食パンみたいに、生クリームをたっぷり入れればそれなりにおいしくなるんですが、フランスパンは、小麦と水と酵母に味付けは塩だけなので、作り手の腕が試されるんですよね。あとは、日常的に食べる食パンがおいしいと言っていただけるのも嬉しいですね」では、長年パンづくりに携わってきた方波見さんにとって、大切にしていることとは?「自分に正直にパンと向き合うってことですかね。だんだん慣れてくると、つくる過程でここは端折ってもいいやとか、横縞なところが出てきます。それは、生産性を上げる上でやむを得ないこともあるんですが、マルジューでお客さまにおいしいと思っていただけるラインを超えるには、ほとんどの作業が端折れないんですよ。それをわかっていながら、自分に嘘をつくと、結果的にパンの出来に現れてしまう。完璧を目指すのは大変ですが、自分に正直であることは貫き通していきたいですね」取材を終え、帰り際に厨房の前を通りかかると、ちょうど方波見さんがパンをつくっているのがガラス越しに見えた。カメラマンがそっとカメラを向けると、気づいて照れくさそうに笑っていた。老舗パン屋としての人気や地位に甘んじず、常に実直に、より美味しいパンを提供しようと邁進する、マルジューの職人さんたち。厨房で絶え間なく動くその背中は、とてもかっこよく見えた。