「おせんべ、おせんべ、焼けたかな」小さい頃に誰もが一度はやったことがあるであろう、この可愛らしい手遊び。先日公園に行ったら、原っぱでまあるくなってやっているちびっこ3人を見かけて、懐かしくなってしまった。昔は自分のおせんべいもちゃんと焼けるのかドキドキしていたけれど、大人になった今はもう、一人ずつちゃんと順番に焼けていくことを知っている。小さい子どももお年寄りも、みんなに愛される気軽なおやつ、おせんべい。今では数少ないおせんべい屋さんをまちで見かけると、無性にばりばりと食べたい気持ちが湧き上がってくる。板橋エリアにも、おせんべい好きが集まるお店があるらしい。東武東上線 中板橋駅の北口から徒歩3分の場所にある、「安藤製菓」だ。この地に店舗と工場を構えたのは、昭和11年のこと。まだ店もまばらで、商店街として成り立っていなかった当時、初代がおせんべいを製造できる広めの土地を探して、見つけた場所がここだったらしい。「創業者は、藤沢あたりの農家の次男坊だったんですよ。当時農家の次男や三男は、東京に出て働くのが一般的だったから、初代も親戚を頼って、『田端・西郷煎餅』というお店で10年ほど修行していたそうで。おせんべいをつくりたくて東京に出たわけではないと思うけれど、たまたま自分に合っていたんでしょうね。それから自ら店を持とうと、卸先の方にこの場所を紹介してもらって、『安藤商店』として創業したと聞いています」そう語るのは、3代目社長の妻で、店舗の運営や接客を担当している安藤由美さんだ。その後、お店や住宅ができてエリアが密集するようになり、火を用いる製造工場は昭和46年に所沢へと移転。現在、この店舗では工場でつくられたおせんべいたちの梱包や販売を行っている。店内にお邪魔すると、想像していたよりも奥行きがあって驚いた。工場が移転する前は、店の奥で実際におせんべいを焼いて、さまざまなところに卸していたというから、この広さにも納得する。取材日はゴールデンウィーク前だったので、「こどもの日」に合わせて、こいのぼりや兜が飾られていた。お客さんに季節感を感じてほしいという由美さんの思いが見える。広々とした空間をぐるりと囲むように、たくさんのおせんべいやお菓子が並ぶさまは、なかなか迫力がある。単品で販売されているおせんべいのほか、お歳暮やお中元をはじめとしたギフト用の箱に入ったものや、洋菓子やゼリーなどの仕入れ物のコーナーも。一番の注目はやはり、お店のブランドである「安藤の炭火焼せんべい」だ。安藤製菓では、創業時から炭火焼にこだわったおせんべいをつくっている。「大量につくるおせんべい屋さんは、基本的にガスとか電気が多いんだけど、うちは独自の炭火焼製法でつくっています。使っている紀州備長炭は火力が強いのが特徴で、職人さんたちが生地の状態と火加減の微妙なバランスを上手く調整しながら、じっくり手間をかけて焼いていくんです」なかでも大きくて分厚い「特選堅焼」は、区民が選ぶ「板橋のいっぴん」としても知られる看板商品。しっかりとした歯ごたえがあり、生地がとにかくおいしい。その秘密は、お米にある。「千葉や栃木の指定農家さんで栽培されたコシヒカリを使っています。安いおせんべいは加工用のお米を使うことが多いんですが、うちで使っているのは普通に炊いて食べてもめちゃめちゃおいしいお米なんですよ。硬質米で、堅焼きせんべいとの相性もいいと言われています」焼かれたおせんべいは、創業者が試行錯誤の上に開発した秘伝のタレにつけて乾燥する。今は、勤続50年以上のベテラン工場長がその味を受け継ぎ、日々タレの調合を自ら行っているのだそう。安藤製菓のおせんべいの種類はかなり豊富だが、じつは基本の生地とタレはほぼ全部同じ。焼くときの型を変えることで、さまざまな厚みや大きさのおせんべいができあがる。さらにそこに、海苔を巻いたり、ざらめや黒胡麻などをつけたりすることで、味わいにバリエーションが生まれるのだ。どれもおいしそうでつい迷ってしまうが、人気どころで言うと、おせんべいが見えないほどの大きな海苔を贅沢に巻いた「汐騒」や、わざと炭火でちょっと焦げ目が多くつくように焼いた、香ばしさが魅力の「おこげ」らしい。ちなみに一番の売れ筋は、製造工程で割れてしまったり、タレ・砂糖の付き方が甘かったりしたおせんべいが詰め合わせになった「久助」だ。いわゆる「こわれせん」だが、満点を10として、ちょっと欠けているから9、きゅうすけ、と呼ばれるようになったとか。(諸説あり)味の美味しさはそのままに、お手頃価格で買えるとあって、おせんべい好きのお客さんたちに人気だ。その久助とは別に、店内には「わざとこわし煎 二度漬」というちょっと変わり種も。丸く焼けたおせんべいに、「あっさりめの醤油ダレ」をつけ、乾くのを待ってからわざと割り、その割れ口に染み込むように二度目の醤油ダレをつける……というかなり手間がかかったこだわりの商品だ。「これだけね、タレが違うんですよ。醤油だけだからすごくあっさりしていて、昔懐かしい味がします。『久助』を売っていると、割れ口にタレが染み込んでるのがいいっていうお客さんがすごく多くて、そのニーズに応えて生まれました。でもね、これがまた割れちゃったり、上手く染み込まなかったりすると、『わざとこわれ煎』の久助になっちゃうの(笑)」安藤製菓のおせんべいのラインアップは、由美さんが嫁いできた頃から基本的にはほとんど変わっていないというから驚きだ。それはつまり、いつの時代にも、このお店の味の根強いファンがいるということなんだろう。「たぶん、新しくしていくことが必要なときもあると思うんだけど、うちのお客さんは、変わらない方がいい、変わらないでほしいっていう人が多いんでしょうね。本当にありがたいなと思っています」ふふふ、と嬉しそうに笑う由美さん。由美さん自身、3代目社長との結婚を機に中板橋にやってきて、このお店で働きはじめて30年以上になる。今ではもう、自分にとってお店は当たり前の日常だと言うが、昔は商家に嫁ぐことになるなんて夢にも思っていなかったらしい。「出会った当時、私は製薬会社で秘書をやっていて、主人は経営を学ぶために銀行員として働いていたんです。だから結婚しておせんべい屋さんに嫁ぐことになったのも、『あれ、銀行員だったはずなのにおかしいな』みたいな(笑)。でも、接客はそんなに抵抗がなかったし、そこから30年以上経った今でも楽しいなと思う瞬間はよくあるんですよ」おせんべい屋さんで働いていて一番嬉しい瞬間を聞くと、ちょっと照れながら、お客さんから“かわら版”を褒められたときだと教えてくれた。年に2回、お中元とお歳暮の季節に送るお客さんへのダイレクトメールに、カタログと一緒にこのかわら版をくっつけているのだそう。すべて自分で執筆していて、もう20年ほど続いているらしい。お店や商品の情報だけでなく、由美さん自身の何気ない近況についても、テンポの良い文章で書かれており、読んでいて楽しくなる。普段から小説を読むのがお好きだという由美さんにとって、かわら版で自ら言葉を綴る行為は、一つの自己表現の形でもあるのかもしれない。「あとはやっぱり、わざわざ『おせんべい美味しかった』って伝えてくれる方がいるとすごく嬉しいですよね。所沢の工場で一生懸命つくってくれているおかげなんだけど、スタッフのみんなは直接お客さんが喜ぶところを見られないじゃないですか。だから、なるべくそういう声は主人に伝えて、工場の朝礼でみんなに言ってもらうようにしています」スーパーの「成城石井」全店舗での取り扱いが始まって以来、商品の裏面を見た人から電話でのお問合せもどんどん増えているという。おせんべい好きが認める、おせんべい屋さん。きっと、ファンはこれからも増え続けるだろう。取材中も、スーツを着たお兄さんがふらっと立ち寄って、のり巻きの「汐騒」を一袋だけ買って帰っていった。きっと休憩時間のおやつにするんだろう。もしかしたら、自宅にストックして切らさないようにしているのかもしれない。おせんべいは普遍的なおやつだな、とつくづく思う。昔懐かしい、正統派の美味しいおせんべいを食べたくなったら、ぜひ中板橋まで足を伸ばしてみてほしい。