技術の進歩によって、今やスーパーに並ぶ野菜や果物たちの顔ぶれは年中ほとんど変わらない。季節問わずいつでも食材が買えるのはもちろんありがたいのだけど、その反面、それぞれの旬というものがいつなのか、意識する機会が減ってしまったような気がする。旬の食材は、味が濃くておいしいと聞く。せっかくならもっと生活の中に旬を取り入れたいし、季節を感じたい……。もし、そんな思いを抱いている人がいたら、ぜひ行ってみてほしいお店がある。中板橋にある洋菓子専門店「パティスリーマサ」だ。中板橋駅北口からすぐの場所にある、茶色いマンションの1階。「ここであっているかな......?」とちょっと不安になるが、思い切って奥に進むと淡いトリコロールの看板が見えてくる。ホイップの泡立て器に見立てた、丸みのあるロゴも可愛らしい。2016年11月創業。オーナーシェフの町田政信さん、妻の奈々さんが夫婦で営むケーキ屋さんだ。こぢんまりとした店内は、シンプルでありながら、ぬくもりを感じる居心地の良い空間。棚にちょこんと置かれた可愛らしい雑貨たちは、政信さんがパリから仕入れたものらしい。焼き菓子やギフト商品、そしてガラスのショーケースにはきらきらと輝くケーキたち。「かっこよくて洗練されたお店は有名シェフにお任せして、うちは普段づかいしてもらえるようなアットホームなお菓子屋さんを目指してやっています。ただその代わり、味にはとことんこだわってお菓子づくりをしてきました」政信さんはもともと、神田のおもちゃ問屋生まれの下町っ子。両親は商売で忙しく、幼い頃から自分で料理をつくることには慣れていた。そのまま調理の専門学校に進み、さまざまな分野に触れるなかで選んだのが、お菓子の道だった。理由は、「もし料理人になったら、自宅で料理したくなくなる気がしたから」と政信さんは笑う。最終的にケーキ屋さんになることを見据え、フレンチレストランでデセール(コースの最後に提供されるデザート)を担ったり、「KIHACHI」のレストランに併設されたケーキ店でテイクアウトを学んだりと、幅広く経験を積んできた。その後、いよいよ政信さんにとって初のケーキ専門店となる、横浜の「ベルグの4月」に就職。ここでケーキ屋としての基礎をがっつりと学んだ。「かなり厳しい環境でしたね。でも7年勤めて、その間に支店のシェフもやらせてもらったので、また新しい環境を求めてフランスに行こうと。ある意味、国外逃亡ですよね(笑)。ただ、当時は100通手紙を書いても、3通お断りの返事が来ればいい方と言われていたくらい、採用されるのは奇跡だったんです。でもダメ元で、知人のフランス人の方に協力してもらって、パリのお店の注文サイトに経歴とつくったケーキの写真を貼り付けて送ってみたら、2日後に『いいよ』って返事がきて」しかもそのお店は、フランスでは老舗の有名店。(政信さんは、内定をもらうまでお店のことも良く知らなかったらしい……) まさに“持っている”としか言いようがない奇跡だ。厳しかった社長も、「それなら行ってこい」と送り出してくれたのだという。フランス語も全くわからないまま、本場・パリに飛び込み、日々がむしゃらに働く姿が認められ、1年程度で戻るつもりが5年以上働いた。このフランスでの経験が活きて、帰国後に政信さんはフランスの名誉菓子職人ミッシェル・ブラン氏から声がかかり、北海道のホテルでのチョコレート店の立ち上げに携わることになる。「食べるときの五感をよく考えながらつくりなさい、というのがブランさんがよく言っていたことです。一つのケーキの中でも、食感の違うものを組み合わせてみたりとか。ブランさんがプレゼントしてくださったこのシェフコートを見るたびに、そのことを思い出します」そんな、華々しいキャリアを歩んできたように見える政信さんが、いよいよ自分の店を持とうと心を決めたのは、「自分のつくったものをより間近でお客さんに喜んでもらいたい」と思ったから。北海道から、親戚の空き家がある本蓮沼に戻り、物件を探し始めて出会ったのが中板橋のこのマンションだった。奥まっている立地や、電気の動力不足にリスクはあったが、「中板橋でケーキ専門店をやってほしい!」という不動産屋さんや、横浜時代の社長の後押しもあり、大家さんと交渉の末にこの物件に決めた。「あとは、生まれ育った下町のような、人との繋がりがある温かみの感じられるまちだなと思ったのも、決め手でしたね」。新しくケーキ専門店がオープンするというウワサを聞きつけて、初日は大行列ができた。立地の懸念もあったが、一度来てくれたお客さんたちが再び足を運んでくれたり、クチコミを広げてくれたりしたことで、今では地元で人気のケーキ店に。むしろ、隠れ家のような雰囲気で、ゆっくりと落ち着いてケーキを選べるのが好評らしい。ショーケースには、丁寧な手仕事を感じる、美しくて繊細なケーキやタルトが並ぶが、なかでも色とりどりのフルーツにはつい目を奪われる。高知の農家さんから直送された小夏をまるごと使ってゼリーにした「まるごと土佐小夏」や、「完熟アップルマンゴーのショート」など、初夏らしいフレッシュな顔ぶれも。季節感たっぷりの限定のケーキなんて、わくわくしないわけがない。「ショートケーキにも季節感を持たせるようにしています。今はマンゴー、そのうちメロンや桃、スイカのショートケーキも出てきます。じつは、定番のいちごも夏は旬じゃないから、一回つくるのをやめたことがあるんですよ。でもやっぱりそれを目当てに来店されるお客さんがかなり多かったので、いちごのショートケーキは例外で通年つくっています」同じショートケーキでも、使われる果物が変わっていくことで、季節や旬を感じつつ、一年を通してさまざまな味を楽しめるというのが粋だ。この政信さんの“旬”へのこだわりは、想像以上に徹底している。「たとえばモンブランも、うちは栗がとれる季節だけ販売しています。早ければ9月の中旬から、11月くらいまでしか売らない。通年あれば売れるんでしょうけれど、うちではつくらない。それはやっぱり、ショーケースを見たお客さんに旬を感じてほしいからなんです」売れるとわかっていても、つくらない。その決断には、政信さんが大切にしたいものが透けて見える。この日、店頭に出ていたケーキは20種類ほど。これらは、ほぼ全て政信さんが一人でつくっている。しかも、ケーキは基本的に当日つくったものしか出さず、余っても翌日には繰り越さないというから驚きだ。「フルーツと同じように、生クリームでも美味しい“瞬間”があるわけで、時間が経つと香りが飛んだり、表面が乾いたりして劣化してしまうんです。つくりたての生クリームは、フレッシュ感が確実に違う。そのぶん数はつくれないけれど、やっぱりつくりたてにこだわりたいんですよね」旬だけでなく、“瞬”も大切にしたい。だから、できるだけつくりたてにこだわる。それが、政信さんのお菓子づくりにおける譲れない信念なのだ。とはいえ、せっかくつくったケーキを余らせないためには、その日にどのケーキをどのくらいつくるか、慎重に見極めなければならない。天気や周辺のイベント情報など、オープン以来蓄積してきたデータをもとに、祈るような思いでケーキをつくり、ショーケースに並べていく。「今日は売れるはずだから、とショーケースにいつもの1.5倍くらいの量を並べて、さらに厨房で在庫分を取っておいた日に、夕方までほぼそのままびっしり揃っていると、『あ、今日終わったな......』と思うんです。でも夕方から急に混み始めて、結局ほぼ完売、みたいなこともあるから、毎日ヒヤヒヤですよね(笑)」少し苦笑いをしつつ、政信さんは「まあ、でも……」と言葉を繋ぐ。「自分の好きでやっていることですからね。本当はサボろうと思えば、いくらでもサボれる。僕も正直、ごくたまにがっつり残ってしまったときは、悩むんですよ。翌日も出したいなあって。でも結局は出さないんです。つくりたてにこだわる以上、残ることもあるし、せっかく来てくれたお客さんにご迷惑をかけちゃうこともあるんですけど、そこはぶれないでやり続けないとたぶん、お客さんも気がついちゃうんじゃないかなって」どうしたって、こだわらずにはいられないところ。それこそが、ものをつくる人としての強烈な個性になるのだと思う。「自分らのやれる範囲で、自分の好きなものを、ぶれずにつくり続けられているというのは、いいことなのかなと思います。仕込みのためにお休みもいただいてしまうけれど、今これだけお客さんが来てくれてるので、もうちょっとやっていけそうな気がしますね」このまちで自分のお店を始めて以来、お客さんの喜ぶ顔を間近で見れたり、たくさんの人との繋がりができたりしていることがとても嬉しいのだという。午後に予約が入っているという27cmサイズの大きなバースデーケーキに、政信さんはとてもていねいに飾り付けをしていった。このケーキを囲む家族の笑顔が見えた気がした。