「はい、こんにちは~!よろしくお願いしますね!」赤と緑のド派手な暖簾をくぐり、昔ながらの引き扉をカラカラカラと開けると、よく通る明るい声が飛んできた。時間は午前10:00。まだぎりぎり朝と呼べるこの時間帯に、居酒屋に入るのは人生で初めてかもしれない。出迎えてくれたのは、「居酒屋 花門」のマスターであるマンスール・コルドバッチェさん。“マンスさん”と、あだ名で呼ばせてもらうことにする。この花門は、なかなかの有名店だ。全品400円均一の料理に、異次元のデカ盛り。そして運営するのは、イラン人の明るくて陽気なマスター。そのキャッチーさから、これまでにテレビや雑誌にもたびたび取り上げられており、見たことがあるという人もいるだろう。私自身、ウワサには聞いていたけれど、足を踏み入れるのは今回が初めて。少しドキドキしながら、奥の座敷席にお邪魔した。お座敷の壁に張られた手書きのメニューを見ると、料理は50種類ほど。冷やしトマトも、焼きそばも、オムライスも本当に400円均一。感覚が麻痺しそうだ。「最初はもっと少なかったんですが、お客さんが食べたいっていうものをだんだんメニューにしていたら、これだけ増えました。ただ、昔ながらの狭いお店なので、冷蔵庫も小さいし、食材をたくさん仕入れしてもしまうところがなかったりして。一個の冷蔵庫に入れられるものから作れるメニューを、たくさん考えたんです」“異次元のデカ盛り”ぶりを知りたくて、人気の「オムライス」と、「とりのから揚げ」を作ってもらうことに。こぢんまりとしたキッチンに大きなフライパンを2つ並べ、一方ではケチャップライスをつくり、もう一方ではから揚げ用の油を熱していく。この大きさが、はたして伝わるだろうか。想像をはるかに超えるわんぱくさ。この量でも、それぞれたったの400円である。オムライスは、1kgくらい余裕でありそうだ。豚肉とタマネギを入れてつくったケチャップライスに、さらにスライスチーズをのせ、薄焼き卵をかぶせているのだそう。豚肉の甘みのある脂と、チーズのおかげで、ケチャップライス単体でもコクがあっておいしい。野菜サラダがたっぷり添えられたから揚げも、そのボリューム感に度肝を抜かれる。そもそも一個が大きすぎる。フライヤーの設備がないため、下味を付けたもも肉をフライパンで二度揚げしているそうだが、とてもジューシー。しっかりめの味付けのおかげで、お酒がついつい進んでしまいそうだ。ちなみに、食べきれなかったぶんは、無料のパックに詰め替えて持ち帰ることができるという、素晴らしい心遣い。この花門の「デカ盛り」、じつはお客さんの人数によって量が変わるらしい。たとえばから揚げの場合、10人のグループには10人用に個数を増やしてくれるのだ。それでも、値段は据え置きの400円。「ふつうグループだったら、テーブルごとにから揚げを2皿頼んだりするでしょ?でもうちはみんな、1皿しか頼まないの。伝票見せたいくらいだよ」デカ盛りがフィーチャーされるため、食堂と間違えられることも多い。しかし、あくまでここは居酒屋。ご飯と一緒に、ぜひお酒やソフトドリンクを楽しんでほしい。(よく料理が激安のお店は、代わりにお酒が高いことも多いけれど、花門はお酒も良心的な価格だ)「お酒が飲めなくても、コーラ一杯でも、マンゴージュース一杯でも頼んでもらえると、私たちはこの細い首が少し繋がるんですよ。『マスターに一杯!』も歓迎だよ!」ハッハッハ!とマンスさんは豪快に笑う。本当に、明るくて楽しい人だ。マンスさんは、イランの首都・テヘラン生まれ。日本語学校に通うために来日し、池袋の居酒屋でアルバイトをしながら勉強をする日々を送っていたそうだ。花門はもともと、ママさんが一人で切り盛りするカラオケ付きの小料理屋さんだった。マンスさんはそこにお客さんとして通うようになり、常連さんとも仲良しに。ところが、しばらくするとママさんが体調を崩し、お店は閉店。常連さんたちが寂しがるのを見たマンスさんは、自ら手を挙げた。「居酒屋さんのバイト経験もあったし、カウンターなら一人でやりくりできるだろうなあって思って。ちょうど結婚した年だったし、ちゃんと仕事を探さなきゃって思っていたところだったから。そうしたら、常連さんもみんな喜んでくれてね。よし、頑張ろうと思って」そうして、1992年にお店を引き継ぐことになったマンスさん。たくさんのお客さんに来てほしいから、英語の“COME ON!”にかけて、「花門」と名づけた。このとき、マンスさんは日本に来て4年目の28歳。故郷から遠く離れた日本で、自分のお店を構えるというのはかなり大きな覚悟がいることのように思える。それに対し、マンスさんは「やっぱり若さだね。今の自分だったら、もっと違うところを探すと思う」とあっけらかんと答えた。小料理屋改め、小さな居酒屋として新たなスタートを切った花門。当初は、一般的な居酒屋と同じような価格設定だったが、ある一人の妊婦さんとの出会いが、今の花門のスタイルに大きな影響を与えることになる。「オープンして2年くらい経ったとき、若いご夫婦が来て。おなかの大きい奥さんが、800円のサイコロステーキを食べたいと言ったんだけど、旦那さんは予算がないからもっと安いものにしてほしいと。それで結局、380円の焼きそばを注文して食べて帰ったんだけど、ちょっともやもやしたんですよ。そこで、サイコロステーキも焼きそばも全部同じ値段にしたら、みんな好きなものを好きなときに食べられるんじゃないかなって」その後、再び来店した妊婦さんがサイコロステーキを頼んだのを見て、嬉しくなってしまったマンスさんは、前回食べられなかったからと量を2倍に。これが、花門のデカ盛りの始まりである。「料理を座敷に届けたときの、『ワーッ!』っていう声を聞けると、私もキッチンの中で嬉しくなるし。お客さんの笑顔を見ると楽しくなっちゃって、どんどんどんどん量を増やしちゃうんですよ」“東京では10年お店を続けられたら安泰”この「いたPayさんぽ」でさまざまなお店を取材させてもらってきたなかで、何度か耳にした言葉だ。裏を返せば、それだけ長く続けることがいかに難しいかということ。まちのお店が頻繁に入れ替わることに、消費者側の私たちもすっかり慣れてしまっているなあと思う。そのなかで花門は、これだけの安さとデカ盛りを維持しながら、30年以上お店を守ってきたわけで、それがどれだけ大変なことだったのかは、素人にも想像がつく。というか、むしろなぜ成り立っているのか不思議である。だって、ふだんから安すぎるのはもちろんのこと、30周年パーティーには「1時間食べ飲み放題30円」なんて企画も、「誰もやったことないことにチャレンジするのが面白いでしょ?」という理由でやっちゃうのだ。どう考えたって、採算が合わない。お店のリアルな経営事情はどうなのか。少し踏み込んで聞いてみると、それまで笑顔だったマンスさんが少し表情を引き締めた。「この31年の間に、たくさんの波がありましたよ。値下げしたときに、これじゃ3年で潰れるよって言われたしね。本気でお店を畳もうかと思ったことも何度もあったけれど、テレビに取材してもらったことで、お客さんが来てくれるようになって、ここまでなんとかやってきました」メディア出演のおかげでたくさんの人に知ってもらえたから、と取材の依頼は断らないと話すマンスさん。しかし、メディアやSNSで注目を集め、予約で満席になるようになった今でも、儲けは一切ない。花門で利益になるのは、ドリンクと冷奴のみ。いくらお客さんが来てくれても、料理の注文だけだと確実に赤字になってしまうのだ。光熱費が払えず、電気が止まりかけたときは、常連さんに「1か月食べ飲み放題プラン」を提案して、前払いでもらったお金を電気代にあてたこともあった。また、オープン前の昼間は“便利屋さん”として、ご近所さんの買い物代行や犬の散歩、家の修理などを請け負い、もらったお金をお店の運営費やアルバイトのお給料にあてている。自由な休みもほとんどない。「本当ね、この物価高もあって、この頃はどんどん厳しくなっているんですよ。お店を開けると赤字になるから、この店を守るために3か月くらい閉めたらどうかという話にもなったくらい」今はどこのお店も軒並み値上げしているし、2ドリンク制などをルールにしている居酒屋も多い。消費者としても苦しいけれど、致し方ないなと思う。それは、お店側も苦しいのがわかるから。だからどうか花門も、もう少し値上げをするか、量を減らすか、せめて1ドリンク制にしてほしいと思ってしまうのだけど、マンスさんは頑としてそれをしない。「私の原動力はお客さんの笑顔、それに尽きるんですよ。もともとは、妊婦さんの笑顔から始まって、それでたくさんのお客さんが喜んでくれるお店になったわけだから。これでスタイルを変えたらもう、花門じゃなくなるし、メディアを見て期待してきてくれたお客さんを裏切りたくないんです。もし値上げするなら、いったん花門を解散する。たとえば、店名を一文字だけ変えて『ケモン』で再出発するとかね。それだったら、気持ちとしてはアリなんだけど(笑)」およそ30年間、このスタイルでお店を懸命に守ってきた。花門の看板を掲げる以上、自分の生活と引き換えにしても、“らしさ”を失くしたくない。こちらが想像するよりもはるかに強い覚悟をもって、マンスさんは日々闘っているのだ。その思いに応えるように、家族をはじめ、それぞれのやり方で応援してくれる人たちが、マンスさんの周りにはたくさんいる。たとえば、常連さんが隣のお客さんに「こっちでお金出すから一杯飲んでいきなよ」とドリンクを勧めてくれたり。料理に感動したお客さんが、「花門を盛り上げよう!」と店先に手作りの募金箱を設置してくれたり。冷奴が唯一の黒字メニューなのも、お隣の「かどや豆腐店」さんが好意で、余ったお豆腐や厚揚げをタダでお裾分けしてくれるからなんだそうだ。妻のきよみさんや2人の娘さんたちも、マンスさんの気持ちを理解して、サポートしつづけてくれている。「やさしい人が周りにたくさんいて、困ったときはみんな助けてくれるんですよ。だからその恩返しでご飯をいっぱい盛ったりね。逆に、私が助けるときもあるし。だから花門は今、人情居酒屋みたいな感じなの」みんなの義理人情で繋いできた、みんなの店。そんな花門がこれからも存続していくことが、きっと多くの人にとっての希望になるのだと思う。「板橋は、人情のあるあったかいまちだから、ここに来て本当に幸せだなって思うんですよ。私は板橋を大事にしてるから、板橋の皆さんもぜひ、花門を応援してもらえると嬉しい。直接お店に来られなくても、心の中でエール送ってもらえるだけでもすごく心強いんです」今度またこの店に来るときは、いっぱい食べて、いっぱいお酒を飲もう。そして、生まれて初めての「マスターにも一杯!」をドキドキしながらマンスさんに言ってみようと思うのだ。