学生時代、パートナーとお店を営むことに、猛烈に憧れていた時期があった。小さな本屋さんとか、喫茶店とか、雑貨屋さんとか。近しい趣味を持つ大切な人と、それぞれの得意分野を活かして、自分たちだけのお店をつくりあげていくのって、なんて素敵なんだろうと。もちろん、当事者の方々にお話を聞くにつれて、そんな簡単なことではないと思い直すのだけど、今もまだその思いはほんのりと心の片隅にある。今回取材に伺ったのは、まさにご夫婦ふたりで営んでいる小さな喫茶店だ。東武東上線 上板橋駅北口から徒歩2分。ときわ通りから一本入った通りに、「喫茶さかもと」はある。「珈琲」と大きく書かれた、ブラウンの看板が目印だ。表に立てかけられた看板には、几帳面さを感じさせる小さくて丁寧な字でメニューが書かれている。こういうところからも、なんとなくお店の方の人柄が伝わってくる気がする。ゆったりとしたジャズが流れる店内で迎えてくれたのは、この店のオーナーである坂本新介さんと千佳子さんだ。創業2013年。結婚後に夫婦ふたりで立ち上げたというが、その経緯を聞いてみると、「なかなか複雑だよね」と千佳子さん。まず、出会いの場がかなり独特だった。「私は前の夫を亡くしていて、ひとりで暮らしながら日本語学校の先生をしていたんです。その合間に趣味で通っていた仏像彫刻の教室のクラスメイトとして、今の夫に出会いました」(千佳子さん)ちなみにその教室では、実際に仏像を彫ったり、みんなで美術館に仏像を見学しに行ったりしていたらしい。(気になる……)当時、新介さんは学生時代から通っていた神保町の「純喫茶ロザリオ」で働いていた。しかし、オーナーさんがご高齢でお店を畳んでしまうことになり、仏像彫刻の教室でクラスメイトだった千佳子さんに今後について相談していたのだという。「外国人の友達が多かったので、日本語教師の仕事も楽しいんじゃないかなと思って、彼女に話を聞いたりして。でも、性格的に向いていないんじゃないかと言われました(笑)。むしろ、今まで喫茶店が好きでやっていたんだから、その方向で考えた方がいいんじゃない?って」(新介さん)その後、千佳子さんも、2011年に起きた東日本大震災の影響で日本語学校の授業がなくなってしまうなど、難しい状況に。そこで、本格的に喫茶店のオープンに向けて動き出した新介さんが、一緒にやらないかと千佳子さんを誘うのだ。こうしてタイミングが上手く重なり、ふたりの人生の歯車が動き出した。もともと音楽と本が共通の趣味だという、新介さんと千佳子さん。音楽を聴きながら、本をゆっくり読めるような喫茶店にしたいという思いで一致した。「喫茶さかもと」という名前にも、ふたりの覚悟が込められている。「この辺りでも、長く続いている古いお店は皆さん、店主のお名前をつけているところが多い気がしていて。自分の名前をつけるからこそ、責任を持って頑張っていけるんじゃないかなと思って『さかもと』とつけました」(新介さん)店内にはたくさんの本棚があり、お茶しながら自由に読める本が並んでいる。幅広いジャンルが揃っているので、来るたびに選ぶのが楽しくなりそうだ。「私自身、家で本を読もうと思っても、やらなきゃいけないことが気になっちゃって集中できないんですよね。それぞれ子育てとか介護とかいろいろな事情があるなかで、自分だけの時間が30分でもあると、ちょっと幸せじゃないですか。そういうときに、ぜひ使ってもらえたらなと思うんです。実際そうやって、ひとりでいらっしゃって静かに本を読んでいくお客さんも多いんですよ」(千佳子さん)そう言われて店内を見渡すと、おひとり様にもかなりやさしい席構成になっていることに気づく。仕切りがあり、ほかのお客さんと対面にもならないので、人の目を気にせずゆったりと自分の時間を過ごせそうだ。落ち着いた雰囲気の店内に、ジャズの音楽はよく合う。時代は、1950年代のものが多い。もともとジャズがお好きなのかと思いきや、聴き始めたのはじつは開店してからなんだそう。「ブラックミュージック全般が好きで、なかでもヒップホップをよく聴いていたんです。最初はここでもヒップホップをかけていたんだけど、やっぱりちょっと違うなって(笑)。そこからジャズの本を読んで情報収集していくうちに、どんどんハマりました。ご年配のお客さんから教えてもらって集めたり、譲っていただいたりしたCDから、お店の雰囲気に合う曲をかけています」(新介さん)新介さんの背後の棚には、CDがいっぱい。実際にはこの3倍くらいの量があるそう。「お店が休みの日に、古本屋さんやCDショップに見に行くのも楽しいんですよ。お店のためというよりも、それが趣味みたいなものだから」千佳子さんは笑う。こだわりのドリンクやフードのメニューも紹介したい。ブレンドコーヒーをはじめ、カレーやナポリタン、トーストなどの食事や、自家製スイーツが楽しめる。オーダーを受けてから豆を挽いてドリップするコーヒーはちょっとレトロで、しっかりめの味わい。集中して本を読むのにもぴったりだ。カレーは、「ポークカレー」、「マフェ」、「豆カレー」、「キーマカレー」の4種類。こぢんまりとした喫茶店でそれだけ種類があるのも、なかなか珍しい。でも、その理由を聞いて納得した。「僕はそんなに器用じゃないので、お食事の注文が集中すると慌てちゃうんですよね。かといって、料理の質は落としたくないですし。その点カレーは、営業していない日に全部仕込みをしておけるから、こちらとしても安心なんです」(新介さん)調理はすべて新介さんがひとりで行っている。事前に準備できるカレーは、作り手としても心強い存在なのだ。もちろん、味もしっかりおいしい。中でも西アフリカのソウルフードである「マフェ」はとくに人気。マフェとは、マリ共和国やセネガル共和国など、西アフリカで食べられているピーナツペーストとトマトで煮込んだシチューのこと。この店ではそこにスパイスを加え、ご飯に合うカレー風にアレンジしている。一口食べると、複雑なスパイスの香りがふわっと鼻に抜ける。おいしい……。刺激的なのにマイルドでやさしい味わいなのは、ピーナツペーストのコクのおかげらしい。チキンもごろっと入っていて、満足感も高い。「西アフリカもお米を食べる文化だから、向こうの料理は日本人も親しみやすいんですよ」と千佳子さん。このマフェには特別な思い出があるのだという。「30年以上前にフランスに留学していたときに、マリ共和国出身の友人ができて、マフェをごちそうしてもらったんです。ピーナツペーストが苦手だったのに、そのあまりのおいしさに衝撃を受けて、日本でも作ってみたい!と思って。そこから、なんとか記憶を辿りながら作り上げました」(千佳子さん)本来マフェで使われているピーナツペーストは無糖。日本にはなかなか取り扱いがなく、かなり探したらしい。「付き合っているときから、砂糖の入っていないピーナツバターを探してるってずっと言ってましたね」と新介さん。そのやりとりが微笑ましい。人生初のお店経営をスタートし、夫婦二人三脚で歩んできた12年。お客さんが少なくてガラガラな日があっても、逆に予想外に混み合ってドタバタな日があっても、「そういう日もあるさ」と気持ち的に振り回されることはなくなった。もちろん、お金も身体も、考えなければならないことはたくさんある。でも、お店を続けていきたいからこそ、何より大切にしているのは、“お互いが健やかでいること”。そのために、それぞれ好きなことをやる時間をきちんと確保するようになった。「営業時間を短くして、毎週水曜日と金曜日の閉店後に、また日本語教室を開くようになりました。やっぱりずっと、日本語を教えることに関わっていたいという気持ちがあったんですよね。ご近所の外国の方に紙芝居を見せたり、日本語を学ぶための本を一緒に読んだりしています。いろいろな方がいて面白いですよ」(千佳子さん)一方、新介さんはもともと好きだった絵を描くように。じつは、店内に飾られたイラストや絵は、ほとんどが新介さんが描いたもの。コロナ禍で熱が再燃し、個展を開いたこともあるらしい。イラストを複製したポストカードは、店内でも販売している。パートナー同士でお店を営むというのは、想像以上に大変なことなんだろうなと思う。どんなに仲が良くても、長く付き合っていれば、喧嘩をしたり、ぎくしゃくしたりすることだってある。その上、家だけでなく仕事場でも一緒なんだから、いろいろあって当たり前だ。だからこそ、ふたりのようにお店以外に自分の表現の場を持つことは、良い関係性を築き続ける上でとても重要なピースなのだろう。最後に、ふたりの関係について千佳子さんはこう話してくれた。「たぶん人間って、自分と近ければ近いほど、『なんでわからないの?』って腹が立つじゃないですか。でも私は夫より年上で世代が違うので、知っていることも、当たり前も、全然違うんですよ。今の夫と出会っていなければ、ヒップホップなんて私、一生聴いていないと思います(笑)。でも実際触れてみたら、結構面白かったりして。そうやって違いを面白がりつつも、干渉はしないし、わからないことはわからないままでいいやって。いろいろな夫婦やカップルの形があると思いますが、私たちはそんな感じでのんびりやっています」(千佳子さん)ちゃきちゃきしていてアクティブな千佳子さんと、言葉は多くないが穏やかで優しい新介さん。きっといいバランスなんだろうなと思う。何よりお互いを尊重し、思いやっているのがとてもよく伝わってきた。そんなふたりが営むこの店には、肩肘張らずにいられる安心感がある。とくべつ干渉することなく、各々の過ごし方を尊重し、ただここにいさせてくれる。そんな、ちょうどいい距離感の喫茶店。家の近くにあったらもう、通い続ける一択である。