お寿司を食べたいと思ったとき、反射的に回転寿司を頭に浮かべてしまうようになったのは、いつからだろう。世の中の寿司はいつの間にか「回る寿司」と「回らない寿司」に分けられ、後者は高級で敷居が高く、気軽に行けないイメージがついてしまっている。意識してまちを歩いてみると、お寿司屋さんというのは意外とたくさんあることに気づく。その多くは見るからに老舗感があり、それがまたハードルとなって扉に手をかけるのを躊躇ってしまうという人も多いのではないだろうか。本当は、職人さんが握ってくれたおいしいお寿司を食べたい気分なのに。そんな人におすすめしたいお寿司屋さんが、板橋の千川にある。東京メトロ有楽町線の千川駅と、東武東上線大山駅のちょうど間くらいに位置する「松葉寿司」だ。それぞれの駅から約15分ほど、閑静な住宅街のなかにお店はある。到着すると、自転車に乗ったままのおじさんと、水撒きのホースを手にした店主と思しき男性が世間話をしていたようす。やわらかい日差しが差し込み、まさに昭和にタイムスリップしたかのようなその光景を、思わずぼうっと眺めてしまった。昭和27年創業。70年以上続く、このエリアでは一番古いお寿司屋さんらしい。現在は、3代目店主の小山田博之(おやまだ・ひろゆき)さんと、その母・厚子(あつこ)さんの2人で運営している。数年前に一度建て替えをしているため、老舗でありながら店内は清潔できれい。こぢんまりとしているように見えて、カウンターとお座敷、個室、そして半地下部分には傾斜地を利用してつくられた宴会場もあるらしい。会食や法要など、家族が集まるシーンに使われることも多く、MAX7人が入れる個室は小さいお子さん連れのファミリーにも好評だ。夜だけでなく、ランチの営業もやっている松葉寿司。11:00〜14:00のランチタイムには、「にぎり寿司」や「ちらし寿司」、「さしみ定食」などがお手頃価格で食べられるとあって、ご近所さんに人気なんだそう。「今日はお寿司が食べられる……!」とうきうきしていた取材班。ランチメニューの中でもとくに人気のにぎり寿司とちらし寿司をつくってもらうことに。博之さんは「慣れないことしてるから手が乾いてるな」とカメラに緊張しつつ、ささっと握ってくれた。つやつやのにぎり寿司が出てくると、思わず「わあ~!」と声が出た。桶ににぎり6貫と巻物が入ってボリュームたっぷり。さらに、サラダと味噌汁、小鉢が付いてくる。豊洲市場で仕入れているネタは新鮮かつ分厚くて、食べ応え抜群。母・厚子さんがつくる小鉢は日替わりのため、何が出てくるのかはお楽しみ。この日のサトイモの煮っころがしは、味が染みていてとてもおいしかった。懐かしくてやさしい味。昨今の物価高騰でやむを得ず値上げしたというが、これで1100円はオトクである。こちらは、ちらし寿司。マグロやサーモン、エビ、タコ、アナゴなどのお刺身に、玉子やしいたけなど具材がたっぷり。ちらし寿司というと、小さくカットされたお刺身がのっているイメージだが、松葉寿司のは切り身がそのままのっていて、どちらかというと海鮮丼に近く、オトク感が強い。いろいろな具材をちょっとずつ楽しみたいという人には、このちらし寿司がおすすめだ。にぎり寿司と同様にサラダ、お味噌汁、小鉢がついてくる。「ランチは親父から俺に切り替わるときに始めたから、何だかんだいって30年以上やってるのかな。近所に日本大学の医学部があるから、そこの学生さんがよく来たりね。若い女の子が一人でふらっと来ることもあるし」もともと、博之さんのおじいさんが始めたというこのお店。山梨から上京し、はじめは神田でお店を持ったものの戦争の影響で山梨に帰郷。その後再び上京し、この地で松葉寿司を創業したのが昭和27年のことなんだそう。その後お父さんが後を継ぎ、埼玉からお嫁に来た厚子さんとともにお店を切り盛りしてきた。そうして代々家族でつないできた店だからこそ、博之さんも当たり前のように寿司屋を継ぐつもりだったという。「子どもの頃から親がやっているのを見てきたしね。本当に自然の流れでそうなったという感じなんですよ」「とくになりたいものもなかったからね」と、さっぱりとした調子で話す博之さん。高校卒業後は調理師専門学校に進学したのち、学校の紹介で京都の料理旅館で日本料理の修行をすることに。イメージにたがわず、かなり厳しい環境だったらしい。「今じゃとても考えられないような厳しさだったね。まあでもそのぶん親方には可愛がってもらったし、お互いの信頼関係があるから成り立っていたというか。それこそ、家を出て自分で掃除、洗濯をやるのも初めてだったから、暮らしの面でも鍛えられたかなと思います」そこで3年ほど修行をして精神的にも鍛えられたのち、松葉寿司へと戻ってきた博之さん。当時はまちにも活気があり、かなり忙しい時代だったという。「その頃は、この商店街にも70店舗くらいあってすごく賑わっていたんですよ。大げさじゃなく、店を開けておけばお客さんがいくらでも入ってくるっていう時代だったから。帰ってきてからは、すぐに両親と一緒に店に立ってこの仕事を始めました」博之さんに代替わりしてからは、一品もののメニューを豊富に出すようになったそう。理由は、お客さんからの要望が多かったから。「だいたい、お客さんが『これ食べたい』っていうのがきっかけでつくってるね。昔と違って、お客さんの要望にも応えなきゃいけない状況になっちゃったから(笑)。修行で日本料理をやっていたのが多少は活かせているかなと思うけど」関西にいた経験が、料理にもちょこちょこ反映されている。たとえば、一番人気の「だし巻き卵」。厨房で一つひとつ丁寧に焼き上げる。ふわふわとおいしそうなこのだし巻き卵、ただのだし巻きではない。じつは、カニと三つ葉とチーズが入っているのだ。一口食べると、出汁からじゅわっとカニの旨味を感じるとともに、チーズと三つ葉がいいアクセントになっている。シンプルに、めちゃくちゃおいしい。「ちょっとアレンジしてるんだよ。春先だと、シラスと菜の花を入れたりね。このだし巻きも、関西で修行していたからやれるんだけど」知らなかったが、だし巻き卵は関東風と関西風で分かれており、後者は砂糖を使わずに出汁と醤油で味付けしているので甘くないのだそう。一方で、夏季限定の隠れ人気メニューの「鰻」は、博之さんの好みから関東風に。背開きにして、一度白焼きしたものを蒸してから再び焼くので、しっとり&ふっくら。そして、創業から70年以上継ぎ足してきた秘伝のタレはちょっと甘めだ。「お寿司屋さんだけど鰻もおいしい」と、毎年楽しみにしている常連さんもいる。取材中、博之さんが繰り返し口にしていたのは、「寿司屋だからといって、敷居が高い店だと思ってほしくない」ということ。なんとなく「ツウは最初からにぎりを頼まない」という勝手なイメージがあると話すと、「そんなことないよ」と博之さんは笑う。「最初に一品を食べて最後にお寿司を食べて帰る、という楽しみ方ももちろんあるけど、それもお客さんの自由だから。セオリーだと言われているようなことも人が勝手につくったものだし、我々からしたらお客さんが好きに食べてくれた方がいいと思うんだよね」お店の人にそう言ってもらえたら、気持ちがだいぶラクになる気がする。食べたいものを食べればいいし、もし迷ったら聞けばいいのだ。「昔ながらの寿司屋だから、会話できるのがいいところだと思うんですよ。何を頼んだらいいかわからなかったら、遠慮なく聞いてもらえれば、今はこれが旬ですよとお伝えできるしね。困ってたらこっちから話しかけることもあるよ」お父さんの代から通うご年配の常連さんも多いが、「若い人も大歓迎」とのこと。行きつけのお寿司屋さんがあるって、想像しただけでちょっと素敵だ。お父さんが亡くなって以来、母と息子ふたりで切り盛りしてきた数十年。最後に、これからのことについて聞いてみると、こんな答えが返ってきた。「まだ母親(厚子さん)も元気だからいいけどね。いつ具合悪くするかわからないし、うちは後継ぎもいないから。この代で終わりだよというと、常連さんの中には『なんでだ』って言う人もいるけれど、まあ俺が決めることだからね」年を重ね、「お店を残さなければ」というプレッシャーからも今は解放されたという博之さん。ほんのりと寂しい気持ちになるが、そのあとすぐこう続けた。「まあでも、もしこの店を継ぎたいって若い子が来たら拒まないし、一から教えたいとも思うから」なるほど、そういう未来もあるかもしれない。いつか後継者が現れることも期待しつつ、まずは一度、博之さんのにぎるお寿司や厚子さんのつくる料理を味わいに行ってほしいと思う。