パートナーと一緒に暮らすようになってから、ほぼ毎晩ちゃんと自炊をするようになったのだけど、栄養バランスを考えながらおいしい献立をつくりつづけるのって想像以上に大変だ。3年目になっても、毎日頭を悩ませている。そんな私が今献立に困ったときにシュッと取り出すもの、それが豆腐だ。小ネギやキムチをのっけるだけでおかずが一品増えるし、ただの野菜のサラダも豆腐を合わせればタンパク質がとれる。豆腐の万能さに気づいて常時ストックするようになってからは、毎日のご飯づくりがちょっとラクになったような気がする。でもどうせ毎日のように食べるなら、おいしくて身体にもやさしいお豆腐がいい。そう思ってやってきたのは、副都心線 小竹向原駅から徒歩15分の場所にある「豆腐の和泉屋」だ。この地でオープンしたのは、昭和36年のこと。しかし、創業自体はもう少し前に遡る。「もともとは叔父が世田谷区の経堂でやっていた豆腐屋で、新潟から出てきた私の親父が丁稚として働いていたんですよね。昔はそうやって親戚のツテを頼って、東京に出てきて働くことが多かったんです。それからしばらくして親父は独立して、目黒区の柿の木坂で豆腐屋を始めたみたいです」2代目店主の目黒保夫(めぐろ・やすお)さんは、そう話す。「豆腐の和泉屋」という名前は、叔父さんの店から暖簾分けという形でそのまま引き継いだ。目黒区の柿の木坂といえば高級住宅街だが、当時もお屋敷街としてさまざまな著名人が暮らしていたらしい。店の目の前には日本を代表する歌手たちのお屋敷が並び、小さい頃の保夫さんはよく遊びに行かせてもらっていたのだという。東京らしい華やかなエピソードだが、商売はなかなか上手くいかなかった。「大きいおうちはたくさんあるけれど、人口密度は少ないから全然商売にならなかったみたい」と保夫さん。その後、お父さんと同じ地域出身の豆腐屋さんの紹介で、現在の大谷口の店舗に移転。以来、両親で店を切り盛りしてきた。保夫さんは、ゆくゆく店を継ぐ気持ちこそあったものの、大学卒業後は警察官になる予定だったらしい。聞けば、大学時代は柔道に勤しんでいたそうで、県警や警視庁に就職するコースが当たり前だったのだそうだ。保夫さんもそのつもりだったが、試験4日前にオートバイでまさかの交通事故。手を負傷し、試験どころではなくなってしまった。かなり絶望的な状況だが、ここからさらに意外な展開になっていく。「池袋のサンシャインシティに行った帰りに、近くのファミリーレストランに寄ったんです。その当時、まだファミレスに入ったことがなかったんですよ。それでカウンターで料理を注文して待っていたら、隣の人に声をかけられて。柔道や就活の話なんかをしていたら、『じゃあ試験はいいからうちの会社に来ないか』って。じつは、そこのファミレスの人事の方だったんです」たまたま入ったファミレスで、まさかのスカウト。ドラマのような展開だが、保夫さんはその勢いのままオファーを受けることに。キッチンから入り、5〜6店舗で店長を経験。しかし、あまりのハードワークに身体はボロボロになり、ファミレスを辞めて実家の豆腐店に戻ることに決めた。それが25歳のときのこと。まだ四半世紀の人生にしては、なかなか波瀾万丈である。その当時、世間では“出店”というものが流行っていたらしい。簡単に言えば、本店とは別の店舗で同じ商品を販売すること。和泉屋でも、保夫さんが戻って人手が増えたタイミングで、江古田の空き物件を借りて出店を始めることになった。朝は本店で豆腐をつくり、その一部を江古田に持って行って販売。そして、夜になったらまた本店に戻ってくる。その間に、妻・千恵子さんと結婚し、お父さんが亡くなったタイミングから一緒に江古田のお店で働いてきた。出店として始まった江古田店は、40年間地域の人に愛されてきたが、2年前にお母さんが亡くなったのを機に惜しまれつつ閉店。現在は夫婦ふたりで、この本店である大谷口店を運営している。機械は少し新しくしても、豆腐の作り方は創業当時から変わらない。防腐剤や添加物を使わない手作りの豆腐は味が濃く、香りや甘みが強いのが特徴。冷蔵で2~3日しか持たないぶん、作りたてのフレッシュなおいしさを楽しめる。「同じように作ってもね、やっぱり毎日ちょっとずつ出来が違うんですよ。90点のラインは必ず超えられるんだけど、100点満点というのは本当に難しくて。めったにないですね、本当に年に何度かあるくらい。上手くいったときは、目で見てわかります」しかも、おいしくできた日というのは夫婦でちゃんと意見が一致するらしい。ちなみに、取材当日はたまたま「とてもよくできた日」だったという。「毎日のように買ってくれるお客さんはやっぱりわかるみたいで、『この前のとくにおいしかったね~!』って言われるんですよ」と千恵子さん。「それを聞いて心の中ではやっぱりな、と喜びながら、言葉では『そうですか?』ってすまして答えるんですけどね」と、保夫さんも笑う。何十年も繰り返しやってきたことだとしても、慢心せずに味を極め続ける。明日は今日より少しでもおいしくつくれるようにと、心を込めて。「豆腐屋ってね、もう100年くらい売っているものは変わっていないと思うんですよ。基本は豆腐、五目がんも、油揚げ、生揚げ。あとは豆乳とかおからとかね。うちも創業当時から、品揃えはほとんど変わっていません」ちなみに「生揚げ」とは、厚揚げのこと。保夫さん曰く、料理屋で出すときに呼び名として品がいいということで、「厚揚げ」が一般的になったんだとか。和泉屋では、ちょっとだけ食べたいときに嬉しい「べビー生揚げ」もある。可愛い。「五目がんも」は煮て食べても良し、焼いて食べてもよし。レンジで温める場合は、めんつゆと少しのお湯を入れてチンすればおいしくいただける。また、千恵子さんがお客さんから聞いたという、こんなアレンジレシピを教えてくれた。「江古田にお店があったときにね、外国のお客さんが結構いらっしゃったんですよ。その中にがんもが好きで毎回買って言ってくれる方がいて、どうやって食べるのか聞いたら、焼いてハンバーガーみたいにパンに挟んで食べているって。わさびとマヨネーズをつけて食べるとおいしいらしいんですよ」“がんもバーガー”とは斬新なアイデアだ。聞いただけで、ちょっとやってみたくなってしまった。(おいしそう……)仕入れ商品のなかには、こんにゃくや白滝も。長くお付き合いのある、中野区のこんにゃく屋さんから週に一度仕入れて販売している。のぼりにも出ている生ゆばは、わさび醤油で食べるのがおすすめ。浸かっているのは昆布水なので、これも捨てずに料理に使ったり、そのまま飲んでもおいしいらしい。「本当は、ゴマ豆腐とかいろいろ種類をつくりたい気持ちもあるんですけど、今は納める方が多くなっちゃったから、なかなか種類を増やせないんです。昔はうちも店売りだけだったんですけどね。周りにたくさんあった豆腐屋さんもどんどん辞めて、そこが請け負っていた分の豆腐の注文がうちに来たりして」そう、和泉屋では毎朝、保育園や小中学校、病院などへの卸しの仕事も行っている。全部で20か所ほどある卸先に、ふたりで手分けして車で配達。帰ってきたら、午前中の間に豆腐をつくり、午後から夕方にかけて販売する。それがふたりの毎日のルーティンだ。多いときは、1000丁の豆腐をつくることもあるのだという。朝は早いし力仕事も多い、そして拘束時間も長い豆腐屋の仕事は、毎日が体力勝負だ。ここ数年は夫婦二人三脚でやってきたからこそ、お互いの変化も肌で感じるという。「ここ数年は体力がなくなっているのがわかるし、食べなくなったし、やっぱり昔のようにはいかないですよね。ふたりでできてあと2~3年かな?とかね」と千恵子さん。それに対して保夫さんは「2~3日かもしれないよ」と冗談を言う。時代の移り変わりとともに、お豆腐屋さんでお豆腐を買う人自体どんどん減っている。とくに夏場は酷暑のせいで人通りが少なく、売上にダイレクトに響く。それでも体力が続く限りお店をやっていくと決めたのは、和泉屋のお豆腐を待っている人がいるから。「手作りのおいしい豆腐をありがとう」という言葉に支えられ、今日(こんにち)までやってきた。「一生懸命ここまで長く続けてこられてよかったなと思いますよ。やっぱり大変だし、やめたいと思うことなんてしょっちゅうあったけれど、それを乗り越えて今日まで来たので。まあ、仕事は何をやっても大変ですし、そう思うと豆腐屋だったら社長でいられるじゃないですか。転勤もないし、休もうと思えば休める。それが個人商店の良さだと思ってやってます」それを聞いて千恵子さんも、「最終的にはやっぱりお豆腐屋がいいかってなるんですよね」と微笑んだ。そのふたりの言葉に、すべてが詰まっている気がした。「一度食べたらもうほかのお豆腐を買えない」と評判の和泉屋のお豆腐を、ぜひ食べられるうちに食べてみてほしい。これからお鍋がおいしい季節だ。