小さい頃から、まちの中華屋さんが持つ独特の温もりと人情に惹かれていた。いつも常連さんで賑わう、こぢんまりとした佇まいのお店。大きな中華鍋で手際よく調理される麻婆豆腐やエビチリが、次々と運ばれてくる。その鮮やかなスピードと手さばきに、幼いながらに心を奪われた記憶がある。そんな風情ある中華屋さんが、ここ板橋にも存在する。大山駅から徒歩6分、遊座大山商店街を一本入った通りに佇む「高社郷」だ。昭和36年創業。現在お店を営んでいるのは、2代目店主の水野猛久さん。猛久さんのお父さんは、長野県下高井郡液間瀬前坂出身。その地域には「高社山」と呼ばれる山があり、この山が店名「高社郷」の由来となっている。当時、この地域から多くの人々が満洲国へ移住し、新たな地を開拓して生活を送っていたという。猛久さんのお父さんもその一人で、満洲国で生活していたが、終戦とともに満州国での生活が困難になると、再び新たな開拓地を求めて東京へ移住。新橋の中華料理店に勤めて経験を積んだ後、さらなる挑戦として板橋区・大山で自身の店を開く決意をした。移住先は違っても、開拓精神を忘れることなく働いたことから、ここ大山で中華料理店を開店する際には、その精神を忘れぬよう、「高社郷」と名付けた。猛久さんもまた、その精神を受け継いでいる。大学卒業後、浜松町の中華料理店で修行を積み、高社郷を継ぐ決意をした。幼少期からこの店を継ぐことを伝えられていたが、当時は前向きではなかったという。「当時は『お前がこの店を継ぐんだ』って外堀を埋められちゃってさ。笑 でも、作ることは好きなんだよ。それが、この店を継ぐ決意をした大きな理由かな。」父の夢と家族の歴史を守り続けて約30年、猛久さんは今も日々厨房に立ち、開拓精神を絶やすことなくお店を営んでいる。そして、お店の名物と言えば、この焼き餃子。高社郷を開店する前、猛久さんのお父さんは新橋の中華料理店で働き、餃子作りに力を注いでいたという。その結果、焼き餃子が彼のキャリアを拓くきっかけとなり、給料が倍になり、開業資金を貯めることができた。この餃子は高社郷を始めるきっかけであり、今もお店を支える大切な財産となっている。そのため、高社郷では、創業当初から手作りの餃子にこだわり続けてきた。生地を作って伸ばし、野菜を切って餡を用意し、一つひとつ丁寧に包み込んでいく作業は果てしなく、100個の餃子を仕込むのに3時間はかかるという。「正直、手間がかかるからやりたくないんだけどね。でも、これだけは親父から受け継いだ大切な遺産だから。餃子で財を成したと言っても過言ではないからね。この餃子の味だけは、守っていかなくちゃならない。」もちろん、この餃子にはファンも多く、毎月遠方から訪れ、3人で6人前を頼む常連の家族もいるほどだ。一皿でお腹がいっぱいになるほど具がぎっしりと詰まった餃子は、適度に厚みのあるもっちりとした皮が特徴で、手作りならではの食感がある。一口食べると、口いっぱいに広がる餡が格別だ。味わううちに、日本の一般的な餃子とは少し違う風味に気づいた。尋ねてみると、隠し味に「五香粉(ウーシャンフェン)」という、中国や台湾で親しまれているミックススパイスが使われているとのこと。五香粉は、シナモンや山椒、フェンネル、クローブ、八角といった5種類の粉末を混ぜて作られるスパイスで、七味唐辛子のようなエキゾチックな香りが特徴。ひき肉とよく合い、食べ進めるほどにクセになる、奥深い味わいだ。お店の豊富なメニューには、創業当時から変わらぬものもあれば、時代に合わせて猛久さんが工夫を加えた新しい料理も含まれている。猛久さんは、「新しい料理を開発する際には、お客さんの何気ない一言にきちんと耳を傾けることが大事」だと教えてくれた。たとえば、メニューにある「野菜うま煮そば」は、もともとあった「肉うま煮そば」を食べたお客様の声から生まれた。「女性のお客さんが、『私はこんなに肉を食べられないけど、こういう餡かけ料理は好きなのよ』と言ってくれたの。それで、いつも農家から届くかぼちゃを使って、肉の代わりに野菜をメインにしようとなった。そうやってこの野菜うま煮そばができたんだよ。」猛久さんがこれまでお客様の声に耳を傾け続けてきた結果が、今の豊富なメニューに繋がっている。特に冷やし中華には、他では見かけない豊富な種類が揃っている。定番のハムやきゅうりをのせたものに加えて、麻婆冷やし、トマト冷やし、サラダ豆腐冷やしなど、なんと6種類もの冷やし中華が楽しめる。この豊富なラインナップは、訪れるたびに新しい味が楽しめると評判で、「高社郷なら色んな冷やし中華が味わえる」という口コミが広がり、訪れる人の選択肢の幅を広げている。「料理人には、味覚のセンスがないとダメ。あと、新しい料理を生み出すためのアイデアや、材料を組み合わせた時の味のイメージ力が重要。受け継ぐだけだと、やっぱり限界があるから、時代の流れに応じて変化していくことが大切なんじゃないかな。」お客さんに愛され続ける味を守りながらも、現代に合わせて変えていく。そうした柔軟な対応力とアイデアが、このお店が時代を超えて親しまれ続ける理由なのだろう。あとふたつ、猛久さんイチオシの料理を紹介したい。高社郷自慢の、「大粒牡蠣みそラーメン」。驚くほど大きな牡蠣が惜しげもなく入っているのは、「注文してくださったお客さんの期待に応えるために、その時お店にある一番大きな牡蠣を使う」という、猛久さんのこだわりから。にんにく、しょうが、そしてすりおろしたにんじんを加えた自家製のみそは、コクがありながらもまろやかな味わい。香りを引き立たせるため、さっと火を通したみそが牡蠣の旨みと絶妙に絡み合い、豊かな風味が広がる。もう一品は、「トマト・ブロッコリー・えびの塩味炒め」。こちらは厚生労働省の「全国ヘルシー中華料理コンテスト」で銀賞を獲得した逸品。素材本来の味と鮮やかな色合いを活かすため、素材ごとに丁寧に揚げ処理をし、最後にさっと塩味で調えられている。ホクホクのブロッコリーとぷりぷりのえび、そこに卵とトマトがやさしく混ざり合う一皿は、やさしい味わいでありながらも満足感がある。その絶妙な塩加減に、虜になること間違いなし。そんなこだわりの味を日々届ける猛久さんは、取材中も終始笑顔で話してくれた。実は、かつては恥ずかしがり屋で、お客さんとコミュニケーションを取るのが苦手だったという。「昔は母親が喋る担当だったの。でも、母親が引退すると、常連さんから『お母さんはどうしたの?』って聞かれるようになってね。母との楽しい会話も楽しみにしてくれていたんだと気が付いて。その時、今度は自分の番だなって思って、話術を磨けるように頑張ったんだよ。笑」お客さんとの距離を縮め、「また来ます」という言葉を引き出せるような接客を心がけている猛久さん。今では、自然体で飾らない猛久さんとの温かな会話を求めて通う常連さんも多い。最後に、「この店を続けていて良かったと思う瞬間」について尋ねると、それは「『美味しかった』『また来るね』と言ってもらえる時」だと話してくれた。「毎週来る常連さんが来ない時があると、味が変わっちゃたかな?とか、お客さんに何かあったのかな?って心配しちゃってね。たまに商店街のイベントでお店を閉めると、『休んでたでしょ』なんて言われたりするの。笑 でも、そうやってお客さんと信頼関係が築けていることは嬉しいし、これこそが俺が目指しているお店の姿なんだよね。下町だからさ、お客さんとは友達みたいな関係でいられたら素敵だなって思うんだよね。」恥ずかしがり屋だった猛久さんが、明るい笑顔でお客さんと会話する姿には、代々続いてきたこの店の歴史が詰まっているのだと感じた。常にお客さんに寄り添い、その期待に答え続ける猛久さんの姿勢からは、学ぶべきことがたくさんある。この店を訪れた際には、ぜひ料理の感想を伝えてみて欲しい。猛久さんとの会話を楽しみながら、温かなひとときを過ごすことができるだろう。