「よかったら、抹茶を挽いてみませんか?」お店に到着して挨拶を交わしたのち、その言葉と明るい笑顔に導かれて、気づいたら私は石臼の前に座っていた。ここは、都営三田線の新板橋駅から徒歩3分、JR埼京線の板橋駅から徒歩5分の場所にある老舗茶屋「山城園」だ。目の前にあるのは、御影石でできた茶石臼。そのてっぺんの穴から抹茶のもととなる碾茶(てんちゃ)を入れ、反時計回りにごりごりと回していく。取材を始めるつもりが、まさか抹茶を挽くことになるとは。想定外の展開に少し戸惑いながらも、ひたすらハンドルを回す。すると不思議なもので、心がしんと静まっていく。とっちらかっていた思考も、ひとつにまとまっていくような気がする。そのうち挽かれた抹茶がぽっ、ぽっ、と石臼の隙間からふきだしてきた。本当に少しずつ、少しずつ。この様子がまた、とてもかわいらしいのだ。「石臼でじっくりじっくり挽かないと、きめが細かくて香りのいい抹茶にはならないんです。京都では、大きな石臼を使って自動で回しているところもありますが、それでもとれる抹茶は20分でせいぜい40gほど。そう考えると、抹茶が高価なのもわかるし、本当に一期一会のおもてなしのためのものなんだなと感じますよね」4代目店主の永見久美子(ながみ・くみこ)さんは、にっこりと微笑んだ。そうか、久美子さんはきっと何よりも先に、まずはお茶に触れてほしかったんだ。刷毛でていねいにかき集められたわずかな量の抹茶が、自分の手で挽いたことによって、よりとくべつで大切なものに思えてくる。挽いた抹茶は、「お抹茶体験」として実際に点てて飲むこともできる。取材班も2組に分かれて、点てさせてもらった。点てるときの作法は簡単に教えてくれるが、「あくまで自分の好きにやればいい」と久美子さんは言う。「たまに、『茶道を習っていないけれど、お茶を点ててもいいですか?』という方がいらっしゃって。もちろんいいんですよ。茶道の先生には言えないですが、ようするに抹茶を茶筅(ちゃせん)で混ぜて飲むだけじゃないですか(笑)。ある意味、とても原始的。だからもっと気軽でいいと思うんですよね」個人的に印象的だったキーワードは、「選んだ器の一番大好きなところを見つけること」、そして「相手の気持ちを思うこと」。とても新鮮で、豊かな時間だった。「お茶を身近に感じてほしい」。そんな思いで、こうした石臼挽きやお抹茶体験、ほうじ茶づくりなどの体験を始めたという久美子さん。代替わりしてからなので、山城園の取り組みとしてはまだまだ新しい。お店自体の歴史は古く、もともとは仕入れたお茶や海苔などを販売するのがメインの、いわゆる昔ながらのお茶屋さんだったそうだ。創業は1920年。久美子さんのおじいさんが荒川区の尾久にてこのお店を始めた。その後、この地に移転してきてもう75年以上。トータルで見れば創業100年を超えている。2代目である久美子さんの父・雄治(ゆうじ)さんが早くに亡くなり、母・まささんが3代目として継承。2年前に久美子さんが京都から東京に拠点を移し、現在は4代目として母娘ふたりでお店を経営している。「しばらくは京都に住んでいました。このお店を継ぐことは正直考えていなかったし、お茶関係の仕事をしていたわけでもないけれど、京都にいると否が応でもお茶の情報が入ってくるんですよね(笑)。当時京料理のお店で働くなかで、お茶についていろいろ学ぶ機会もあって。本当に丁寧につくられていることや、お茶のおいしさを改めて知って、これを失くしちゃいけないと思うようになったんです」お茶屋で生まれ育ち、水のようにお茶を飲んできた久美子さんにとって、その存在はあまりに当たり前すぎたのかもしれない。でもだからこそ、一度外に出たことで気づいた魅力があったのだろう。最近は、健康志向の高まりによって日本茶の需要が増加している、なんてニュースも目にするが、昔に比べればこの国全体の“お茶ばなれ”は否定できない。まちのお茶屋さんの数も、どんどん減っている現状がある。昔からつないできた大切な日本の文化を守りたい。まちのお茶屋として、生まれ育った地元の役に立ちたい。そう思うようになった頃、ひとりでお店を経営してきた母・まささんも高齢になり、久美子さんは山城園を継ぐことに決めたのだった。そのタイミングで、店内のリフォームも実施。たしかに、想像以上に店内はきれいで明るく、いい意味で新しい印象を受けた。「私が継ぐ前は、山のように商品が並んでいて座る場所もなかったんですよ。でもやっぱり皆さんに『お茶を飲んでみようかな』と思ってもらうことが大切なので、試飲や体験ができるように座れるエリアをつくって、棚の陳列もがらっと変えました」改めて棚をよく見てみると、お茶の器や急須などが大半を占め、お茶っぱのコーナーはかなりこぢんまりとしている。しかも、袋にすら入っていない。山城園では、お客様の好みからおすすめの一杯を提案する。つまり、お客さんにヒアリングをしてから、それに合うお茶を袋に詰めるのだそうだ。久美子さんは、10年ほど前に「日本茶インストラクター」の資格を取得していて、いわばお茶のプロフェッショナル。実際にどうヒアリングするのか気になって、「今とは違うお茶を飲んでみたいけれど、何を選んだらいいかわからないんです」と伝えてみた。すると、「今はどんなお茶を飲んでいるかと、もし何か不満に思っていることがあれば教えてください」と久美子さん。今は人からお裾分けでもらった緑茶を飲んでいて、あっさりしていて無難においしいけれど、何となく物足りなさを感じている。そう話すと、久美子さんはまずお茶をつくる過程についての簡単な説明をしてくれた。日本茶の場合、お茶の葉を摘んだらまずは生葉の酸化発酵作用を止めるために蒸す。それを乾燥させ、撚り(より)合わせていくのだが、この蒸す時間が肝心なんだそうだ。蒸す時間が短いと茶葉は針のように細長い形になり、長いと細かく粉っぽくなる。これがいわゆる、浅蒸しと深蒸しの違いである。「浅蒸しは透明感のある爽やかですっきりとした味わい、深蒸しはとろっと味が濃くて甘みが強いのが特徴です。だから今のお茶が物足りないと感じているなら、おそらく深蒸しのお茶がお好きなんじゃないかなと思います」なるほど。そんなふうに言ってもらえると、納得感がある。ちなみに浅蒸しと深蒸しはお茶屋さんによっても好みが別れ、どちらかしか置いていないお店もあるらしい。山城園では、好みに合わせて選べるように、どちらもこだわりのお茶を用意している。「うちでは昔から、それぞれ『浅蒸し/深蒸ししか考えられない!』と自信満々な問屋さんから仕入れるようにしているんですよ。私たちは小売店は自分でお茶をつくっているわけではないので、問屋さんの自信満々をお客さんにお届けすることが仕事だと思っています」山城園では静岡産のお茶をメインに、京都産の玉露や抹茶も扱う。仕入れ先の問屋さんは、長いお付き合いのあるところばかりなんだそう。(季節によって変わる挿絵は、すべて久美子さんの手描き!)「お茶屋さんはわがままな商売」だという久美子さん。問屋は農家から仕入れたお茶を自分好みの味に仕上げ、その味に惚れ込んだお茶屋が仕入れてお店で販売する。つまりお店に並ぶお茶はぜんぶ、店主が自分の“好き”が詰まったお気に入りの味。だからこそ、商品のラインアップにはお茶屋それぞれの個性が出るのだ。まちにお茶屋がたくさんあった時代は、お店を渡り歩いて自分好みのお茶を売っているところを探す、なんてこともあったらしい。正直、どのお店も置いてあるお茶はだいたい同じだと思っていたけれど、それを聞くといろいろなお店に足を運んで、飲み比べてみたくなる。ちなみに、山城園の一番人気は、6:4の割合で煎茶に茎茶(くきちゃ)をブレンドしたもの。混ぜることで茎茶が持つ甘みが際立つのだそう。こうやって、ブレンドしながら自分好みのものに近づけられるのは、ちょっとワクワクする。家に急須がなかったり、茶葉の片付けが億劫に感じたりする人には、ティーパックタイプもおすすめ。通常、ティーパックは業者から仕入れたものを販売するお茶屋さんが多いが、山城園ではパックだけを取り寄せて中の茶葉はお店で詰めている。だから好みの茶葉を詰めた、自分だけのティーパックをつくってもらうこともできるのだ。手間もコストもかかることをあえてやるのは、よりおいしいお茶を手軽に飲んでほしいという久美子さんの思いから。お湯の入った水筒にパックをポンと入れておけば、外出先でもおいしいお茶が楽しめるのは嬉しい。お店の気軽な雰囲気と、久美子さんの明るくてチャーミングなキャラクターも相まって、今では昔からのお得意さんに加え、幅広い年代・国籍の人が山城園にやってくるようになった。なかには、こんなほっこりエピソードも。「アメリカの留学生の方たちが6人いらっしゃって、3対3でお抹茶体験をしたことがあったんです。まずお茶を点てるのも初めてだし、何より“人のために”お茶を点てるという経験はしたことがないとおっしゃっていて。自分ではなく相手のために点てるから、皆さん本当に真剣なんですよ(笑)。おいしくできるかなって。それがすごく大事な時間だったと言ってくれたのは嬉しかったですね」この人は濃いめが好きだと言っていたからそうしようかなとか、今日は寒くて冷えるからちょっと熱めにしようかなとか。そうやって、相手を思ってお茶を淹れるという行為は、日本に根付いてきた大切な文化なのだ。たしかに、そういうものは失くさずにちゃんと未来に繋いでいきたいなと思う。居心地が良くて、楽しくて、気づいたらあっという間に2時間が経過していた。お礼を言おうとしたら、「すごく楽しい時間を過ごさせてもらいました」と久美子さんに先手を打たれてしまった。慌てて「いえいえ、こちらの言葉です……!」と伝えつつ、こういう目の前の人を思いやる丁寧な気遣いが、このお店の居心地の良さにつながっているんだろうなと、改めて感じた。お店の前にある「お茶の木」はたくさんつぼみを付けていて、あと1~2週間もすれば可愛らしい白いお花が見れたという。ちょっと残念に思いながらも、またお店に来る口実ができたことがなんだか嬉しかった。