自転車には、どこか苦い思い出があった。まだ自転車に乗れなかった頃、家の目の前にある公園で週末に行われる父のスパルタ特訓は大嫌いだったし、乗れるようになってからも学校で年に一度開催される自転車教室が憂鬱だった。とにかく操作に自信がないのだ。それは大人になってからも変わらず、上京したてのときに道路の溝にはまって自転車ごとずっこけてからは、乗ることすらちょっと怖くなってしまった。そんな私が先日、秋川渓谷の紅葉を見るために、数年ぶりに自転車をレンタルすることに。最初は少し不安だったもののすぐに慣れ、すいすいと景色が流れるさまが楽しくて、本当にどこまでも行ける気がして、「ああ、自転車ってこんなに楽しかったんだ」と改めて実感することになった。その数日後、たまたま自転車屋さんへの取材が決まり、「これは自転車に呼ばれているのか?」とすら思ったのだった。冬らしい澄んだ青空のもと、訪れたのは石神井川沿いにある「サイクルショップアベ」だ。東武東上線の中板橋駅から徒歩8分ほど。細長いショートケーキ型のちょっと変わった形の店舗である。取材したときは、クリスマスの飾り付けで賑やかな雰囲気だった。中に入ると、やさしい笑顔がそっくりな親子が出迎えてくれた。1952年創業。初代・文策(ぶんさく)さんが立ち上げた、老舗の自転車屋さんだ。昔は下駄屋さんを営んでいたが、自転車に興味があって修行に行ったのちに、25歳のときにこの地に開業したらしい。「昭和27年といえばまだね、自転車というのは高級品だったから。新聞屋さんや豆腐屋さんが使うようなごっついものしかなかったんだよね。でも、この中板橋近辺には自転車屋さんがたまたま多かったんですって」そう話すのは、2代目店主の阿部信行(あべ・のぶゆき)さん。現在は、明るくて陽気な母・勝子(かつこ)さんとともにお店を営んでいる。もとの店舗は今の3倍の大きさだったそうだが、石神井川の整備の影響で、こぢんまりとしたサイズ感に。10坪に満たない三角形の店舗に、およそ70台の自転車がぎっしりとディスプレイされている。「展示が難しいんですよ」と笑う信行さん。パズルみたいに動かしながら、出し入れをしていく。天気がいい日はいいものの、雨の日は外に展示している自転車も中に入れるため、身動きができなくなってしまうらしい。サイクルショップアベが目指すのは、「どんなお客さんにも対応できるお店」。子どもの自転車から、ママチャリ、電動アシスト自転車、スポーツバイク(ロード、クロス、MTB)まで幅広く扱っている。最近のトレンドで言うと、ママチャリタイプは自動ライトと3段もしくは6段ギアが付いているものが主流。軽くて速いスポーツタイプも人気で、中高校生でも通学に使う子が男女問わず増えているらしい。「この近辺の自転車屋としては、うちはスポーツバイクがかなり充実している方だと思います。父がやっている時代は、いわゆるママチャリがメインだったんだけども、他店との差別化やトレンドも考えて、私がこの店を継いでからは少しずつ品揃えの幅を広げてきました」信行さんがお店を継いだのは、20代半ばを過ぎた頃のこと。お店を継ぐことは考えていたが、ひとまずは他の業種を知ろうと、のちのち活かせそうな車の営業の仕事を始めた。「5年間営業の仕事をしてたんですが、父ががんになってしまって。仕事も続けられなくなり、じゃあこの機会に、ということで会社を辞めて店に戻ることになったんです。まあでも、子どもの頃からよく手伝いをしていたし、高校生のときはひとりで店番していたこともあるしね。工具を使うのも好きだったから」自転車のラインアップを広げたことで、サイクルショップアベを訪れる層もぐんと広がった。お子さんから80代のおばあちゃんまで。スポーツバイクを探して隣町からはるばるやってくる外国の方もいれば、仕事用にと電動アシスト自転車を探しに来る介護職の方もいる。なかでも、「ママチャリからスポーツバイクに乗り換えたいけれど、どう選べばいいかわからない」というお客さんが結構多いらしい。それには、スポーツバイク未経験の私も興味がある。信行さんはどんなふうに接客するのだろう?「まずはどういう目的で使いたいか、予算がどのくらいかをお聞きした上でご提案することが多いかな。通勤や通学用なのか、それとも遠出でサイクリングする用なのかとか。たとえば通勤・通学に使うのであれば、漕ぎだしが軽くてスピードが出しやすい、ハンドルがまっすぐのクロスバイスがおすすめです」ママチャリに比べると高価な印象のあるスポーツバイクだが、サイクルショップアベでは2〜3万円台と手頃なものから10万円以上するものまで幅広く扱う。今お店で一番売れているのは、この「コーダーブルーム(KhodaaBloom)」という日本のブランドのスポーツバイク。「RAIL DISC(レイルディスク)」は、ブランドの中でも一番人気かつ最軽量のモデルなんだそう。ブレーキ部分がワイヤーではなく、油圧で停止するタイプになっている。軽い力でよく止まるため、握力が弱い女性にもおすすめだ。「ちなみに、『3万円のものと15万円のものは何が違うの?』って思うでしょ」と、信行さんから見透かされたように問いかけられた。そうそう、それが聞きたかった。「ざっくりとした違いはパーツ。自転車って結局、パーツの集合体だから。強度や精度のいいパーツを使っていれば、それが積み重なって値段が上がっちゃうんですよ」いいパーツを使っていると、走りやすさや乗り心地が全然違うらしい。もちろん、初めてのスポーツバイクであれば安価なものでも十分な性能。気に入ったら少しずつグレードアップするのも手だ。一方で、マニアは車体のフレームだけ購入し、自分好みのパーツをカスタムしていくのだそう。最近はオプションパーツも豊富に出ていて、自分だけの自転車をつくりあげられる。なるほど、自転車にもそういう楽しみ方があるのか。「自転車って深いんですよ」と信行さんは言う。年々自転車の技術は進化し、情報やトレンドもどんどんアップデートされているらしい。そのなかで、信行さんが地域の自転車屋として大切にしているのは、「どんなことにも対応できるように日々勉強を怠らない」こと。「長年やっていると、うちでは扱っていない自転車の要望や、やったことのない修理の依頼もくるんですよ。そういうときに『うちでは無理だから』と簡単に断ってしまったら、せっかく来てくれたお客さんに迷惑がかかるじゃないですか。だから、日頃からわからないことはその場で調べたりして、できるかぎり対応しようというスタンスでいるんです」たとえばスポーツバイクの場合、ブレーキのパーツひとつにしてと数十種類存在することもあるし、複雑で細かい修理も多い。サイクルショップアベでは、スポーツバイクに特化した問屋さん15社ほどと取引しているそうだが、そもそも情報がインプットされていなければ対応もできない。だからこそ、“日々勉強”なのだ。時には、仲のいい板橋の同業者仲間と助け合うこともある。「お客さんには気持ちよく帰ってほしい」。その思いから、日々学びを怠らず、誠心誠意丁寧な接客を貫いてきたサイクルショップアベ。地域に根差した自転車屋として、これまでにたくさんのお客さんを受け入れ、見送ってきた。過去には、こんなこともあったという。「朝の通勤途中に電動自転車がパンクをしてしまったというお客さんが、開店前に来て。急いでいたので、ひとまずうちの代車をお貸しして、仕事帰りに引き取りにきてもらうことでお預かりしたんですよ。そうしたら、引き取りのときに『とても助かったから』とケーキまでいただいてしまいました。その後もずっと修理や自転車の購入で長いお付き合いをさせてもらっています」同じようにピンチを救ってもらった人たちが、きっとこれまでにたくさんいるのだろう。それに対し、「たいしたことはしていないんだけどね」とあくまで謙虚な信行さん。「仕事は趣味みたいなもの。この商売が好きでやっているから」という言葉に、すべてが詰まっている気がした。そんな信行さんに、ご自身が思う自転車の魅力について聞いてみた。「やっぱり、手軽に乗れてどこにでも行けるっていうのが一番じゃないかな。荷物が大きくなければ、気が向いたときにふらっと出かけられるし、車みたいに駐車場代やガソリン代も気にしなくていい。それでもって、健康にも環境にもいいしね」そう思うと、自転車ってあらためてめちゃくちゃいい乗り物だ。それに、自転車だからこそ出会える景色やお店があるということも、今さらだけどちょっとわかってきた。一台あれば、世界は確実に広がる。自分が愛せる、相棒だと思える自転車をこの店で買おう。その日は、自転車を買うための小さな旅。しばらく川を眺め、気になる場所にあちこち寄りながら、のんびり自宅へと帰るのだ。