いわゆる“脱サラ”をして飲食店を始める、という話はたまに聞くけれど、たとえばもともと食に近い仕事をしていたりだとか、趣味でよく料理や食べ歩きをしていたりとか、そういう人たちが念願を叶えて……というイメージがある。あるいは、単純にビジネス的に勝算を感じて踏み出すケースもあるかもしれない。でも、今回取材した「地粉手打うどん 哉(ちか)」の店主・林体哉(はやし・もとちか)さんは、そのどれでもない。もともと料理はおろか、包丁すらほぼ握ったことがなかったという林さん。好んで食べる麺類と言えば、もっぱらラーメン。蕎麦かうどんしかなければ、蕎麦を選ぶタイプだったらしい。そんな林さんが、大宮のうどん屋で運命の出会いを果たし、45歳で脱サラしてうどんの世界へ。2024年12月で丸2年を迎えたお店の評判は上々。詳しくお話を聞かせてもらうことにした。都営地下鉄三田線の板橋区役所前駅から徒歩2分。人で賑わう仲宿商店街を進むと、オレンジ、イエロー、グリーンの屋根が連なるスポットが見えてくる。老舗の「珈琲 紙風船」と「お肉のマツキン」の間にある細い通路を進んだ右手に、うどん哉の入口はある。奥まっているので「ここでいいのかな?」と一瞬迷うが、臆せずに通路を進んでほしい。清潔感のあるこぢんまりとした店内には、カウンター席をメインにテーブル席がひとつ。おひとり様にもやさしい設計だ。午前11時から午後5時までの通し営業。取材に伺ったときはすでにお昼時を過ぎていたが、遅めのランチをとるお客さんの姿もあった。板橋区役所からもほど近いことから、平日にはお昼を食べ損ねた職員さんたちがよく来るらしい。店名の通り、この店では北海道江別市産の地粉を100%使用し、手打ちにこだわったうどんが楽しめる。寒暖差の多い北海道の小麦からつくられた小麦粉は、外国産のものと比べても粉の風味が格段によく、噛めば噛むほど旨味を感じられるのだそう。「前日に踏み作業をして10時間ほど熟成させたものを、翌朝手打ちしています。仕込みは基本的に僕ひとりでやっているので、いつも時間ぎりぎりになってしまうんですよね」と林さんは笑う。メニューは「渾身素うどん」、「肉汁うどん」、「きのこ汁うどん」に加え、期間限定で「さっぱりヘルシー鶏汁うどん」や「ネバネバヘルシー冷やしぶっかけ」など。それぞれ、冷つけ(麺が冷たい)、温つけ(麺が温かい)、温かけの3つから食べ方を選べる。まずは、一番人気の「肉汁うどん」をつくってもらうことにした。この日は寒かったので温かけで。せっかくなので、日替わりの天ぷらから王道の「ちくわ」と「ゴボウ人参かき揚げ」、そしてちょっと珍しい「ブロッコリー」も一緒に頼んでみた。席に届いた瞬間、出汁のいい香りがふわ~っと漂ってきて思わずうっとり。出汁の香りってなんでこんなに幸せな気持ちになるんだろう。一口飲んで、思わず「おいしい……!」と声が出た。きりっとした味わいの中にやさしい甘み。4種類の鰹節(本鰹、鯖節、宗田、ムロアジ)と日高昆布、煮干しからとっているという出汁からは、丁寧な手仕事を感じる。豚バラとねぎの甘みもしっかりと溶けている。そして、うどんはむっちり極太麺。しっかりとしたコシとしなやかな弾力。このもっちもちのうどんが汁にとても合う。噛むたびに、地粉ならではの旨味をしっかりと感じる。揚げたての天ぷらは、お手頃な価格にも関わらずボリューミー。大判のかき揚げは満足感があるし、ブロッコリーはしっとりサクサクで新食感。ちくわは練り込まれた紫蘇が爽やかでとてもおいしかった。身も心もぽかぽかになったところで、気になっていたお店を始めた経緯について林さんに聞いてみた。「以前は、営業の仕事をしていたんです。それなりに充実していましたが、何か物足りないなという気持ちがずっとありました。このまま、ただ年をとっていいのかなと。そう思い悩んでいたときに、たまたま伯父に連れられて行ったお店のうどんがあまりにおいしくて。これはすごいぞと思い、修行させてほしいと直談判しました」そこは、昼には手打ちうどんが売り切れてしまうほど、毎日行列の絶えない埼玉県・大宮の超人気店。しかも、当時の林さんは料理経験がほぼゼロだった。当然すんなり受け入れてもらえたわけではなく、何度か店に足を運んで、どうにか働かせてもらえることになったのだという。そのとき、林さんは45歳だった。「20年以上勤めた会社を辞めるわけですから、当然妻には猛反対されました。でもダメだったらすぐに諦めるからやらせてほしいと、どうにか説得したんです」漫画みたいな話である。人は何歳になっても挑戦できるとは言うけれど、実際に行動に移せる人はそう多くない。家族もいるとなれば、本人の気合いだけでどうにかなる話でもない。それでも、と思わせるほど林さんを駆り立てたうどんも改めてすごい。まったくの未経験から、厳しい修行期間をスタートさせた林さん。仕事を終えて自宅に帰ってきてからも、夜な夜なうどんづくりの練習をする日々が続いた。時には、友人を呼んで試食会を開いたり、パックに入れたうどんを配ってアンケートをとったりしながら、少しずつ自信をつけていったという。独立したのは、修行を始めて4年が経った頃。師匠には「甘くないぞ」と言われながらも、腹を決めて自分の店を構えることにした。仲宿商店街を選んだのは、ある意味たまたま。第一候補だった落合の物件が借りれず、不動産屋さんに改めて紹介されたのが今の物件だった。「板橋には縁もゆかりもなかったし、この物件の存在は知りつつも、古くて奥まっているからスルーしていたんです。でも紹介していただけるなら……と、不動産屋さんとこのまちを訪れたときに、商店街の活気や人情味に惚れ込んでしまって。板橋区役所も近いし、ここで勝負する価値があるなと思えたんですよね」そうして、2022年12月24日のクリスマスイブにオープンしたうどん哉。うどん屋としては珍しく、「食と健康」をお店のテーマに掲げている。単価が上がることはわかっていても、おにぎりやおいなりさんなどのご飯もののサイドメニューは置かない。天ぷらは、お肉系は扱わずに旬の野菜をメインに日替わりで6〜7種類。からだにいいネバネバ系や、野菜たっぷりのヘルシーなメニューを提供する。うどんを存分に味わってほしいから、アルコール類も置く予定はない。これを始めた背景には、林さん自身が修行中に炭水化物ばかりをとっていて体調を崩した実体験がある。おいしいうどんを提供したいけれど、お客さんの健康を害してしまうのはよくない。そこで食生活アドバイザーの資格を取り、できるだけヘルシーなメニューを考案してきた。ブロッコリーの天ぷらもそのひとつだ。今後もう少し余裕ができたら、出汁を使ったヘルシーなお惣菜もつくる予定だという。創業から早2年。お隣の「肉のマツキン」さんの協力や、地域のリアルなクチコミのおかげで、常連さんも増加。目まぐるしく流れる日々の中、どんなに忙しくても、体力的にしんどくても、手打ちにこだわって実直にうどんをつくりつづけてきた。そこには、修行先の師匠からの教えがいきている。「学んだことと言うと、もちろんうどんやつゆづくりなどの技術面もありますが、一番はやっぱり商売に対する姿勢だと思います。すでにあれだけ行列ができる人気店であっても慢心せず、常にいいものをつくろうとする探求心が師匠にはある。どこまでも終わりがないんです。そういう姿勢を身近で学ばせてもらえたことが、すごく大きかったなと感じます」一人でも多くの人においしい地粉の手打うどんを味わってほしい。だからこそ自分を奮い立たせて、こだわりを貫き続ける。「“お客さまにいかに得をさせるか”というのは、いつも心掛けていることかもしれません。そう思うことで、手間がかかる作業も頑張ろうという気持ちになるし、仕入れにおいても値段だけに走らずにしっかりと品定めすることができるじゃないですか。『たらいの水の理論』で、常に他人に奉仕しようという気持ちでいれば、最終的には自分に返ってくると思うんですよね」最終的には、ヘルシーメニューのトータル提案ができるうどん屋になることが夢だという林さん。普段自宅で料理をしない人たちへ健康的な自炊のきっかけになればと、出汁の販売を検討中だそう。何歳になっても、ワクワクする未来や夢を語れるのってやっぱり素敵だ。リスクを負ってでも、自分の人生を生きることを諦めず、とことんやりたいことに挑戦する。「このままでいいのかな」と悩んだとき、心の向く方へと迷わず行動できる自分でありたいなと、林さんの姿を見て思った。