散歩途中や帰り道に、ふと立ち止まってしまうあの香ばしい香り。棚に並ぶ豊富な種類の中からお気に入りを選ぶひとときは、いくつになってもワクワクする。板橋区の志村銀座通りに佇む、1948年創業の「マルフクベーカリー」も、そんな幸せな時間と確かな味を提供しているパン屋のひとつだ。店内に一歩足を踏み入れると、ふわりと漂う焼きたてパンの香りが出迎えてくれる。そんなマルフクベーカリーの始まりは、戦前までさかのぼる。現在の店主である阿部さんは3代目。阿部さんの祖父は戦前、中野や麻布の洋菓子店で働いていた。しかし、戦争の激化に伴い福島に疎開。終戦後に東京へ戻り、池袋で太鼓焼き(今川焼き)の屋台を営んだ後、現在の志村坂上でパン屋を開業した。阿部さんのお母さんである房子さんは幼い頃から家業を手伝い、結婚後は福島出身の夫(阿部さんのお父さん)とともに店を支えた。「父の出身地『福島』と、パンの『丸い』形を合わせて、『マルフク』という名前が生まれたと聞いています。実際、昔のパン屋には『マル』がつく名前が多くて、板橋のパン組合には『マルジュウ』や『マルエイ』といった名前のお店もいくつかありました。」創業から75年、マルフクベーカリーは一つひとつのパンを手作りで焼き続けてきた。創業当初のパンは現在のような惣菜パンではなく、もっとシンプルなものばかりだったという。しかし、戦後の復興期、働き盛りの男性客が多かったこともあり、「もっと腹持ちが良く、食べ応えのあるパンを」という声に応える形で、少しずつ改良を重ね、惣菜パンの開発を進めていった。長年にわたって家族で試作を繰り返し、地域の人々に「おいしい」と喜ばれるパン作りを続けてきたのだ。「昔ながらのスタイルを守りつつ、時代に合わせて少しずつ進化してきました。多くのお客様に愛され続けているのは、祖父母が築いた基盤と家族の支えがあったからこそだと感じています。」そんな阿部さんがパン屋の仕事を本格的に手伝い始めたのは高校卒業後のこと。もともとお兄さんが「店を継がない」と宣言していたこともあり、「自分がやるしかない」という覚悟を胸に、家業に飛び込んだ。しかし、当時の阿部さんはパン屋の仕事だけにとどまらない情熱を持っていたという。平日は店を手伝いながら、夜はプロを目指してボクシングの厳しいトレーニングに励む日々。やがてプロライセンスを取得し、週末はリングに立つという生活を送っていた。しかし、数年後、怪我のためボクシングを断念。その後も新たな事業に挑戦するなど模索を続ける日々が続いたが、25歳を過ぎた頃から「家業を守ることが自分の使命ではないか」と考えるように。そして、30代に入った頃、ついに覚悟を決め、マルフクベーカリーを継ぐ道を選んだ。毎日何百個ものパンを焼き、多くのお客さんを魅了し続けるマルフクベーカリー。その中心に立つ阿部さんの技術は、独自のスタイルで築き上げられたものだというから驚きだ。「修行もしていなければ、専門的な学校にも通っていません。だからこそ、僕にできるのはアイデア勝負なんです。他のお店を見て回り、ひたすら考えてアイデアを出しています。」美味しいパンを作るため、阿部さんは著名な職人を訪ねて一日修行を繰り返してきた。中には、片道30キロ離れた埼玉の店まで通うこともあったという。その熱意に心を動かされ、快く技術を教えてくれる職人たちも多かった。「川口の『DAISY』という有名店のチーズケーキが美味しくて、社長にお願いして学びに行かせてもらいました。他にも7軒ほど回ったんですが、たくさんの出会いがありましたね。」こうして培った技術が、マルフクベーカリーのパンに息づいている。ショーケースに並ぶパンや焼き菓子には、お店の歴史と阿部さんの歩みが詰まっていると知ると、ますます色んなパンを食べてみたくなる。店内にはサンドイッチや惣菜パン、菓子パン、ぶどうパン、焼き菓子など、120種類以上が棚いっぱいに並んでいる。「仕事帰りのお客様にも焼き立てを届けたい」という想いから、夜8時まで釜を稼働し、売り切れたパンはリクエストに応じて追加で焼くこともある。その味わいは「板橋のいっぴん」にも選ばれるほどで、数々のメディアで紹介されてきた。「ちくわのフリッター」や「納豆ドーナツ」といった個性豊かなパンは、休日になると遠方から訪れるお客さんも魅了している。マルフクベーカリーの看板商品「ちくわのフリッター」は、房子さんが生み出した一品。50年以上愛され続けるその味には、半世紀にわたる歴史と工夫が詰まっている。このパンの誕生は、房子さんが幼稚園児だった息子・阿部さんのお弁当に揚げたちくわを小さく切ったものを入れていたことがきっかけ。ある日、「ちくわをパンに挟んでみたらどうだろう?」と試したところ、お客さんから大好評。以来、変わらぬ味を守り続けている。「ちくわのフリッターはとっても人気で、遠くからわざわざ買いに来てくださるお客様もいるんですよ(房子さん)」数年前に開催された全国パン祭りでは、東京代表として出店し、朝2時起きで500個を準備したというエピソードも。「これを楽しみにしてくれるお客さんがいるから頑張れるんです」と語る房子さんは、90歳近い今も毎朝工房に立ち、一日で100個以上を作ることもあるそうだ。今回は特別に、「ちくわのフリッター」の製造工程を工房で見せてもらった。オリジナルのドッグパンに辛子マーガリンを塗り、たっぷりの千切りキャベツ、揚げた大ぶりのちくわをのせ、マヨネーズとパセリで仕上げる。ほんのりカレー風味のちくわとシャキシャキのキャベツ、まろやかなマヨネーズの絶妙なバランスがたまらない。一つで十分満足感がありながら、どこか懐かしさも感じさせる味わいが魅力だ。カレー粉、卵、塩胡椒で味付けした衣を丁寧に絡めることで、ふんわりと仕上がるちくわ。さらに、ほんのり甘く焼き上げられたオリジナルのドッグパンが、マヨネーズや具材との相性を一層引き立てている。「よそと同じものじゃなくて、うちだからこそ作れるパンを届けたいんです」と語る房子さん。その手間暇を惜しまない姿勢が、一つひとつのパンに宿っている。続いて紹介するのは、ユニークな見た目が印象的な「納豆ドーナツ」。ちくわのフリッターに次ぐ人気商品だ。味付けした納豆とネギを生地で包み、海苔を付けて揚げたこのオリジナルパンは、納豆の濃厚な風味と油のコク、海苔の香ばしさが絶妙にマッチしている。「当時、店の2階で暮らしていた頃、お腹が空いたときにパンに納豆をのせて食べてみたら意外と美味しかったんです。それがきっかけで生まれました(阿部さん)」揚げた時に納豆が漏れないよう、接着代わりに使用していた海苔が、今では味わいの大事な要素になっている。そしてもうひとつは、「生クリーム入りミニあんぱん」。「うちの生クリームあんぱんは、あんこから自家製です。甘さ控えめのあんこと、乳脂肪分48%の生クリームを組み合わせています。この生クリームは、父のケーキ作りの経験から厳選したもので、濃厚な分美味しさが際立ちます(阿部さん)」また、小ぶりなサイズにすることで食べ飽きない工夫や、冷蔵保存が必要な生クリームを使用しているため、持ち帰りの際には必ず保冷剤をつけて提供するなど、小さな工夫や思いやりも欠かさない。「保冷剤をつけるパン屋さんは珍しいかもしれませんが、お客さんに美味しい状態で召し上がっていただきたい一心で続けています(阿部さん)」取材中、パンをトレイに溢れるほどのせるお客さんたちの姿が印象的だった。種類豊富なパン一つひとつに宿る魅力を思えば、どれも試したくなるのは当然だ。「食べた人が笑顔になる。それが一番の喜びです」と笑顔で語る房子さん。その想いは息子の阿部さんにもしっかりと受け継がれている。阿部さんは、地域に根ざした活動にも積極的で、地元の学校や企業でのイベント販売やメニュー提案に加え、地元中学生の体験学習の受け入れにも長年取り組んできた。その中で生まれた商品が定番化したり、かつて体験学習に参加した生徒が成長してパン職人として戻ってくることもあるという。「地域の皆さんに喜んでもらえるなら、どんな工夫も惜しみません。一度始めたら、上手くいくまでとことん挑戦したいんです。」その情熱と誠実な姿勢が、多くの人に愛されるお店づくりや地域との信頼関係を支えているのだ。地域とのつながりを大切にした取り組みや新たな挑戦を続けてきたマルフクベーカリー。しかし、ここ数年は大きな課題にも直面している。40年以上勤めたベテランの職人たちが一気に引退し、人手不足が深刻化。現在は、房子さんともう一人の職人、そして阿部さんの3人でお店を支えている。品数や品質を守るため、朝から夜遅くまで奮闘する日々が続いている。「正直、悩んでるんです、ずっと。継続するためには新しい職人さんが必要です。でも、人を増やせば売上を伸ばさないといけないし、値上げも考えなくちゃいけない。でも、お客さんにはたくさんのパンを楽しんでほしいから、値上げは避けたいんです。この先どうするべきか、本当に葛藤しています。」房子さんの年齢を考えると、この先の持続可能な運営には新たな仲間の力が欠かせない。阿部さん自身もそれを強く意識し、新たな職人の募集や体制づくりに向けて、少しずつ動き始めている。「ここに来れば、きっと食べたいパンが見つかる」それがマルフクベーカリーの強みであり、自信だと阿部さんは最後に教えてくれた。甘いものからお惣菜系まで幅広く取り揃え、お客さんの「食べたい」という気持ちに応え続けてきたマルフクベーカリー。「この一年間は全力で走ってきましたが、来年はさらに工夫を重ねて、自分たちならではの新しい商品を生み出していくつもりです。『次はどんなパンが登場するんだろう?』と期待してもらえるお店にしていきたいですね。」家族の手で受け継がれてきた伝統の味。地域とともに育んできた絆。そして、日々挑戦し続ける新しいアイデア。そのすべてが詰まったマルフクベーカリーには、パンの美味しさだけではない、人の温もりや物語が広がっている。ここを訪れれば、きっと食べたいパンに出会えるはずだ。そして、その一つひとつのパンが、心を満たす幸せを届けてくれるだろう。