ネパールの言葉で、太陽のように明るい子を意味する「スルエシー」。そんな、あたたかくてやさしい願いを込めてつけた娘さんの名前を、店名に冠したネパール料理店が上板橋にある。「光り輝くというイメージで名前を付けたんです。親バカだから」そう笑うのは、店主のケーシーカルキ・ゲヘンドラさん。ケーシーさんと呼ばせてもらうことにする。東武東上線 上板橋駅の北口から徒歩2分。スルエシーは、カレーやビリヤニなどをはじめとしたネパール料理をアットホームな空間で楽しめるレストランだ。2009年に、ケーシーさんが妻・絵里さんとともに立ち上げた。ちなみに、会社の名前も「合同会社スルエシー」である。取材に伺ったときには、ディナータイムが始まっていた。店内には暖色の明かりが灯り、あたたかくて居心地の良さを感じる空間。異国情緒漂うアジア雑貨や、スパイスの入った瓶がたくさん並んでいた。テーブル席はゆったりしていて、ひとりでもグループでものんびり過ごせそうだ。カレーやビリヤニでがっつりお腹を満たすのはもちろん、ネパールのお酒などのアルコール類も豊富に置いているので、飲みながらアラカルトメニューをつまむのもいい。キッチンには、てきぱきと調理をする3人のスタッフさんたち。全員、ネパール出身の方らしい。ケーシーさんやスタッフさん同士で会話するときは、現地の言葉が飛び交う。タンドール窯の中には、むっちりぷくぷくしたナンが。この状態のナンを実際に初めて見た。なんだかかわいい……。カレーとナンのセットを注文すると、本日のカレーの5種類から好きなものを選べる。この日は「チキン」や「マトン」などに加え、一般的なネパール料理屋さんではちょっと珍しい「ビーフ」や「牛スジ煮込み」も。ごろっとした牛肉が入っている、食べ応えのあるカレーだ。珍しいメニューを出すことでお客さんが喜んでくれればと提供を始めたところ、結構人気でよく注文が入るらしい。そして、このお店の隠れ人気NO.1メニューが「ダルバート」だ。ネパールの国民食であるワンプレート定食で、ダルは豆、バートはご飯を表すのだそう。選べるカレー1種とダル(豆のスープ)に、青菜炒めや付け合わせ、副菜などがついてくる。ちょこっとずついろいろのっていて、目にも楽しいワンプレートだ。この付け合わせは、日によって内容が少し変わるらしい。この日は、鶏肉をスパイスで和えたチョエラや、カブとゴーヤのつけもの、ジャガイモと豆のアチャール、トマトをスパイスで味付けたしたもの、唐辛子のペーストなどなど。これらをプレートの中でご飯とよく混ぜながら食べるのがポイント。カレーもスープもご飯にかけてOK。自分好みの味にしながら、自由に食べる。これが楽しくておいしい。ケーシーさんがお店を始めた当時は、ダルバートを提供するお店はかなり少なかったらしい。はじめはカレーとナンの陰に隠れがちだったが、その味がお客さんの間で評判を呼び、今ではダルバートを目当てにスルエシーに来る人たちもいるそうだ。ケーシーさんが日本にやってきたのは、20歳の頃のこと。留学生として日本語学校に通っていた。ちなみに、日本に興味を持ったきっかけのひとつは、海外でも人気を博した朝の連続ドラマだったと聞いて、思わずにっこり。しかし日本語学校に通い始めたとはいえ、当時はまだ今ほどグローバル対応されていない日本での生活は、不安が大きかったというケーシーさん。学校を卒業したらネパールに戻るつもりでいたが、日本で仕事をする覚悟を決め、本腰を入れて日本語の勉強をスタートした。居酒屋や肉屋、工場など、さまざまなところで働きながら勉強し、1~2年で読み書きや会話ができるように。それによって、日本で生活するのが楽しくなったという。その後、日本人の絵里さんと出会って結婚。このお店を始めることにしたのは、長女・スルエシーちゃんが生まれたことがひとつのきっかけだった。「ネパールの田舎の村では、保育園も幼稚園もないけれど、夫婦だけじゃなくて地域の人たちと一緒に子どもを育てるんです。でも日本だと、夫婦そろって働いていたらどうしても保育園に通わせなきゃいけないし、病気になったらお迎えも必要になる。それなら自分で商売をやった方が、時間の融通が利くし、子どもと一緒に過ごす時間もちゃんとつくれるんじゃないかなと思って」大切な娘さんの名前をつけたお店自体、我が子を思う気持ちから始まっていたとは。家族の愛やあたたかい気持ちがたっぷり詰まっているのを感じて、思わずじーんとしてしまう。そうして、2009年に上板橋でオープンしたスルエシー。日本の食材を活かしつつ、スパイスを使ったシンプルなネパール料理を提供するお店として始まった。最初の1年半ほどは我慢の時期が続いたが、地域の人たちのクチコミが広がり、次第にお客さんが増えていったという。そのうち某有名雑誌に掲載されたり、食べに来た著名人がラジオで紹介したりしたことをきっかけに、板橋区外からくるお客さんの姿も。しかし、あくまで地域密着型のネパール料理店として、通ってくれるお客さんたちの声をとても大切にしてきたケーシーさん。「もっとこういうメニューがあったらいいんじゃないかとか、味をこう変えたら日本人も食べやすいんじゃないかとか。今までお客さんにいろいろなアドバイスをもらってきましたが、それがすごく参考になるんです。奥さんやスタッフと慎重に検討しながら、こだわりたいところは守りつつ、変えるべきところは改善してきました」率直な意見に素直に耳を傾け、料理に活かす。そうした地道な努力のおかげか、スルエシーの料理は本格的なのに食べやすく、どれを選んでも間違いがないと評判だ。そしてもちろん、自分の“好き”や“らしさ”を表現することも欠かさない。たとえば、一品料理として提供している「ゴーヤのアチャール」や「オクラの炒め物」は、一般的な日本のネパール料理店にはほとんどないらしい。「自分のお気に入りの味をお客さんにも食べてもらいたい」という思いから、一般的なレシピをアレンジしたり、ほかにはないメニューを提供したりしているのだ。ネパール料理ではおなじみのスパイシーな串料理「シークカバブ」も、この店ではラムではなくチキンを使い、さらに軟骨を入れている。これはケーシーさんがかつて、やきとりを扱う居酒屋さんで働いていた経験から。軟骨のこりこりとした食感が楽しく、練り込まれたパクチーがいいアクセントになっている。つくねのような感覚で食べられて、おつまみにもぴったりな味だ。ちなみに、今回ダルバートを注文したときに選んだ「牛スジ煮込みカレー」も、居酒屋アルバイト時代に出会った煮込みにヒントを得て、カレーにアレンジしたらしい。たしかに、これもネパール料理屋さんでは見かけないメニュー。ほろほろとした牛スジは旨味たっぷり。カレーにこんにゃくが入っているのを見て、なんだかほっこりと懐かしい気持ちになる。こういう、働く人のルーツやお店ならではの工夫が料理に見えると、何度も通いたくなるよなあと思う。この上板橋でお店を始めた当初、商店街の方に「ここで10年商売が続いたら、日本どこにいっても大丈夫」と言われたことが印象に残っているというケーシーさん。そんなスルエシーも、2024年の春に創業15年を迎えた。もうすっかり上板橋ではおなじみの店だ。「なぜ続けてこられたと思いますか?」という問いかけに、ケーシーさんは「やっぱり、お客さんに愛されていることが一番だと思うんです」と答えた。お客さんが求めるものが何かをよく観察して、それにきちんと応える。料理のおいしさはもちろんのこと、個人店ならではのアットホームな雰囲気や一人ひとりに合った接客、会話を積み重ねてきた結果なのだろう。「僕としては、お客さんに『カレーといったらスルエシー』と思ってもらいたいという気持ちで、ずっとここまでやってきましたし、これからもずっとそれを目指しています。そのためには、僕たちがお店を好きでいることが一番大事だと思っていて。それは働いてくれるスタッフにも伝えるし、自分自身にも言い聞かせています」お店のことを心から好きって言えるのっていいですね、と言うと、ケーシーさんは「僕は大好き」と笑った。「ただの店じゃなくて、僕の子どもみたいなものだから。もちろん、人間だからいろいろ感情的になることもあるし、弱気になることもあるし、毎日山と谷を繰り返してきているんだけど、やっぱりここに来ると一番安心するしリラックスできる。いくら疲れていても、お客さんが来て会話をすると、力が出て元気になるんです」今度このお店に来たら、ケーシーさんやスタッフさんにネパールのことについてもっと聞いてみよう。現地にはどんな暮らしがあって、旅行に行ったらどこのスポットがおすすめか。本場のネパール料理は何が違うのか。スルエシーのおいしいカレーとネパールのお酒をゆっくりと楽しみながら。