甘く香るメロン、みずみずしい桃、さわやかな甘味が口いっぱいに広がるみかん。果物は、私たちの日常に小さな幸せを届けてくれる存在だ。疲れた時に食べるひと切れのりんごは心を癒してくれるし、特別な日のデザートに添えられたいちごは、その瞬間をぐっと特別なものにしてくれる。板橋には、そんな果物をただ手にとれるだけでなく、選ぶ時間そのものを特別な体験に変えてくれる場所がある。志村坂上駅から徒歩1分、城山通り沿いに佇む「田中屋果実店」だ。昭和20年の創業以来、80年以上にわたって地域の人々に美味しい果物を届けてきた。現在は、3代目店主である松野安弘さんが暖簾を守っている。田中屋果実店は、松野さんのお父さんの知人が立ち上げた果実店。お父さんは従業員として働きながら、約50年前に店を引き継ぎ、長年にわたって守り続けてきた。店名が「松野」ではなく「田中」であるのは、創業者の名前をそのまま引き継いでいるためだ。戦後間もない昭和20年、当時浅草にいた松野さんのお父さんは、空襲で住む場所を失い、食料を求めて板橋に移り住んだ。当時10代半ばだったお父さんは、10人兄弟の長男として弟や妹を支えるため、懸命に働いたという。市場での仕入れや店頭での接客、家族を支えるための労働——その努力の軌跡が、今の田中屋果実店の礎となっている。「親父が働いていた頃は、給料が家族の生活費として先にとられてしまうこともあったみたい。弟や妹を養う責任もあったから、すごく大変だったって聞いてるよ。」壮絶な時代を生き抜いたお父さんの姿は、松野さんにも大きな影響を与えている。若い頃から家族のために働くお父さんの話を聞き、その背中を見て育った松野さんが、初めてお店に立ったのは高校生の頃だった。「親からお小遣いは貰っていなかったから、『お金が欲しかったら店で働きなさい』と言われてね。それで、店を手伝いながら稼いだお金で遊びに行ってたよ。」当時はバブル期で景気も良く、松野さんの両親と、叔父、叔母が家族総出で店を切り盛りしていた。そんな松野さんに、当時ほかの道を考えたことはなかったのか尋ねると、「高校を卒業したら継ぐものだと思ってたから、他の選択肢は一切考えていなかった」という返答が返ってきた。両親が働く姿を見ながら、いずれは自分もこの店を背負っていくのだという覚悟が自然と芽生えていたのだという。松野さん一家が田中屋果実店を営みはじめてから、約50年。お店は地域に根ざし、長い年月をかけて多くの人に親しまれてきた。そして約7~8年前、お父さんが亡くなったことをきっかけに、松野さんはお店を引き継ぐことになった。「継ぐことになったのは、親父が亡くなったからだね。後継だからしょうがなしに。笑 でも、代表がいなくなれば店は成り立たないし、それは寂しいからさ。今は俺と奥さん、あと弟の3人でなんとかやってるよ。」ここには、長年の歴史が刻まれている。お父さんの代、約30年前にはバナナが飛ぶように売れていたという。一日で何十キロも売れるほどの人気商品で、仕入れのたびに竹の籠いっぱいのバナナを運ぶのは一苦労だったそうだ。しかし、時代が移り変わるにつれて、売れる果物も変化していった。現在では、その手軽さや食べやすさから、みかんが人気を集めている。果物の人気は、時代とともに移り変わる。バナナやみかんに限らず、どの果物もその時代のニーズによって選ばれるものが変化していくのだ。田中屋果実店では、そんな時代の流れを敏感に捉えながら、果物を選び抜き、工夫を重ねてきた。その積み重ねが、地域に愛され続けるお店の姿を支えている。そんな松野さんの一日は、朝4時半から始まる。新鮮な果物を仕入れるために、市場へ足を運ぶのは毎朝の欠かせない日課だ。新鮮で高品質な果物を仕入れるためには、市場の人との関係性を築くことも大切なことだと教えてくれた。「僕らの場合は、親父の前の代からずっと市場に通ってるから、代が変わっても屋号のおかげで市場の人に覚えてもらえているの。前もって『いいものを取っておいてほしい』とお願いすることもあるよ。」松野さんが市場に通い始めたのは、小学校1年生の頃。遊び半分で親に連れられて行った市場での体験は、やがて果物を選定する際の基礎となった。今では、スイカを叩いた時の音で中身の状態を見極めたり、りんごの蜜の入り具合を判断したりと、その目利き力が日々の仕入れに生きている。現代では果物の育成技術が飛躍的に進歩し、季節を問わずさまざまな果物が手に入るようになった。しかし、そんな時代だからこそ、松野さんは「旬」を感じることを何よりも大切にしている。「技術が進んで、いつでも美味しいスイカやいちごが食べられるようになったけど、やっぱり果物は旬のものを味わうのが一番。四季を感じる楽しさを、果物を通して届けたいんだよね。」春にはみずみずしく甘いいちご、夏には糖度の高い桃やスイカ、秋には香り豊かな梨や柿、冬には濃厚な甘味の蜜柑と、季節の移り変わりとともに店に並ぶ果物も表情を変えていく。松野さんは、市場で果物の香りや色、手触りなどを丁寧に確かめながら、その時々で一番美味しいものを選び抜いている。「旬の果物は、一番美味しい瞬間を迎えているから、食べたときの満足感が違うんだよ。お客さんにも、果物を通して季節を楽しんでもらえたらうれしいなと思ってるよ。」また、松野さんは「果物は種類によって美味しい大きさが違う」と語る。りんごやぶどうは大きめ、みかんは小ぶり、メロンは中くらいと、それぞれの果物の特徴を熟知した上で最適なサイズを見極めている。たとえば、デコポンという果物の場合も、鹿児島産の「大将季(だいまさき)」など、すぐれた品種を厳選し、確かな目利きで仕入れを行っている。この丁寧な選定とこだわりが、田中屋果実店の果物の高い品質を支えているのだ。さらに、松野さんが大切にしているのが、「美味しさ」と「手軽さ」の両立だ。果物は高級品というイメージがある一方で、誰でも気軽に楽しめるよう、品質だけでなく価格にも細やかな配慮をしている。その一例として、みかんやりんごなどの規格外品や少し小ぶりな果物も仕入れている。「柿を食べたいと思っても、一個350円だとなかなか手が出ない人もいるでしょう。でも、500円以下で家族みんなが一個ずつ食べられる価格で提供できれば、みんなが楽しめるじゃない?うちも裕福な家庭じゃなかったから、『食べたくても買えない』って気持ちがよく分かるんだよね。だからこそ、美味しくて手頃な果物を提供して、もっと多くの人に食べてもらいたいんだよ。」規格外とはいえ、一つひとつの果物を丁寧に見極めた上で仕入れているため、味は一級品。実際に店頭でいただいたみかんは驚くほど甘く、みずみずしいものだった。ただし、規格外品を取り扱うスペースには限りがあるため、毎日並べられるわけではない。それでも、市場で良いものが出回っている時は仕入れ、お客さんにお届けできるよう心がけているという。お店には、開店時から次々とお客さんが訪れる。朝は常連さんが多く、毎日のように足を運んでくれる人も少なくない。たとえば、毎日来店するお子さん連れの女性は、一袋280円のみかんを購入し、家族で楽しんでいるのだとか。手頃な価格で提供しながらも、美味しさを追求した松野さんの仕入れは、地域の人々の暮らしにしっかりと寄り添っているのだ。そんな中、80代くらいの常連さんがお店を訪れた。松野さんが「最近どうしてたの?」と声をかけると、「この間転んで腰を足をやっちゃってね。2週間くらい歩けなかったんだよ。」と返答があった。その方は久しぶりにお店を訪れたようで、みかんを購入し、うれしそうに帰路についた。その後、松野さんはこう言った。「いつも一万歩以上歩く人が、うちの前を通らない期間があったからさ。で、今聞いたら、やっぱり転んで歩けなくなっちゃってたって。知ってる人が元気でいてくれると、こっちもうれしいよね。」何気ない会話からも、松野さんがお客さん一人ひとりの変化に常に気を配りながらお店を営んでいることが伝わってくる。こうした温かな気遣いが、多くのお客さんが何度も足を運ぶ理由の一つになっているのだろう。また、営業中の店内ではお客さんとの会話が弾む様子も印象的だった。手土産用のシャインマスカットのベストな食べ方を尋ねる人や、世間話をしに立ち寄る人——多くの人が松野さんとの会話を楽しみにしているようだった。店主とお客さんという枠を超えた信頼関係が、この店の心地よい空気を作り出している。店内では、心温まる場面にも出くわした。ある常連さんが1円足りずに困っていると、松野さんは「いいよ、また今度で」と笑顔で対応していたのだ。後でその理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。「いつも来てくれる人には、少しくらい融通を利かせることもあるんだよね。それに、不思議とみんなちゃんと後日『この間はありがとう』って持ってきてくれるの。それがすごいなと思って。長年の付き合いがあってこそ成り立つことだよね。」この話を聞いて、胸が熱くなった。ここ板橋には、松野さんと地域の人々との確かな信頼関係がある。それは、松野さんが積み重ねてきた日々の努力と、お客さんとの絆そのものだ。そんな松野さんに、「お店をやっていてよかったと感じる瞬間は?と尋ねてみた。すると、少し照れた様子で笑いながらこう答えてくれた。「やっぱり『美味しかった』って言われる時が一番うれしいね。手土産に持って行ったら喜ばれたとか、怒られるかと思ったら『この前の、すごく美味しかったわ!』なんて言われて驚くこともある。そういう声が、やっぱり励みになるんだよね。」田中屋果実店では、贈り物として果物を求めるお客さんも多い。手土産はもちろんのこと、特別な場面での注文も少なくなく、時には葬儀用の果物籠の注文も受け付けている。「果物だったら、葬儀の後にみんなで分けて持ち帰れるからね。それが喜ばれるんだ。」そう語る松野さんの言葉には、細やかな気遣いと、人を思うやさしさがにじみ出ていた。「お客さんに美味しいって思ってもらいたい。それがあるから、自分が食べて美味しいと思うものだけを置いてるんでね。喜んでもらえることが一番だからね。」松野さんが何より大切にしているのは、品質へのこだわりと、お客さんに正直でいること。果物の鮮度や美味しさについて、時には「今日はもう少し熟したものの方が甘いよ」などと率直な意見を伝えることもある。その一言が信頼に繋がり、長年通い続けるお客さんも多い。その真摯な姿勢こそが、80年もの間、田中屋果実店が地域に愛され続けている理由なのかもしれない。「もう年だけど、続けられるところまではやりたいね。」そう言いながら、お客さん一人ひとりの笑顔を思い浮かべるように目を細める松野さん。田中屋果実店には、果物を通して育まれてきた、人と人との温かなつながりが息づいている。果物の甘さが日々の疲れを癒し、ささやかな贈り物が大切な誰かの笑顔を生む。そんな営みを支える松野さんの手のひらには、時代が変わっても決して失われることのない、「人と人との絆」がしっかりと握られているように思えた。お店を訪れるたび、そこには変わらない「確かな味」と「温もり」がある。次は、自分へのちょっとしたご褒美に、大切な人への贈り物を選びに、またここへ来よう。