「ちょっと何言ってるかわかんないです」「ドーナツは穴が空いているからカロリーゼロ」などのフレーズでおなじみの人気芸人さんが、上京後に板橋区のアパートで10年間、ふたりで暮らしていたというエピソードは、知っている人も多いかもしれない。そんな彼らの下積み時代を支えた、思い入れのあるローカルフードとして、今まで数々のメディアで紹介されてきたお店が、ハッピーロード大山商店街にある。東武東上線 大山駅から徒歩5分。北口の改札を出て、ハッピーロードをずんずん進んでいくと、パンチのある黄色い看板が見えてくる。ここが、「新井精肉店」だ。昭和11年創業。88年という長い歴史を持つお肉屋さんは、初代・章三さんがこの地で始めた。現在は、その孫である新井真之さんが、3代目の店主としてお店を営んでいる。「戦争で亡くなった祖父に代わって祖母が継ぎ、両親と一緒にやっていたそうです。でも、僕が2歳半のときに父が病気で亡くなり、その後はずっとおばあちゃんと母と職人さんで運営していました。苦労する母の姿を小さい頃から見てきたので、学校を出たら自分がお店を継いで頑張らなきゃと思っていましたね」調理師の専門学校を卒業後、スーパーの生鮮センターで3年間お肉の修行をし、23歳のときにお店に戻ってきた新井さん。今は数名のスタッフさんと一緒に、お店を切り盛りしている。店頭には、種類豊富なお肉がずらりと並ぶ。牛、豚、鶏。おなじみのロースや小間切れ、ひき肉をはじめ、シチュー用やしゃぶしゃぶ用、酢豚・カレー用など、用途別のお肉も。「ある程度パーツに切り分けられたお肉の塊が届いて、そこから脂をひいたり筋をとったりしながら捌いていきます。お肉屋さんは仕入れたものをすべて加工をしないと、商品として店頭に並べられないので、手間がかかるんです」お肉はすべて国内産。新鮮で上質なお肉たちが、手頃な価格で買えるのがこのお店の魅力のひとつ。たとえば、「SPF豚肉」というのはあまり聞き馴染みがないが、SPF=Specific Pathogen Freeの略。つまり、衛生的に一定以上のレベルで飼育し、特定の病気があらわれないように維持している農場から出荷された、健康で高品質なお肉を指す。この店では、茨城県の農場から仕入れているのだそう。「輸入品は使わず、国内産にこだわっています。牛も豚も鶏も、長いお付き合いのある問屋さんから仕入れてきましたが、ご高齢で廃業されるケースもありますし、価格の変動も激しくなっていて。仕入れ自体がすごく難しくなっているんですよね。最近はスーパーさんでもかなりお肉の価格が上がっていると思いますが、うちではなるべくお求めやすい価格を維持しようと頑張っています」たしかに、最近も近所のスーパーに行ったとき、100gあたりの価格がしれっと10円あがっていて、「また上がってる……!」と驚いたところだった。きちんと目利きされた品質のいいお肉を、手頃な価格で売ってくれるまちのお肉屋さんの存在は、この時代とてもありがたい。お肉は100gから購入可能。とはいえ、種類が豊富で何を買えばいいのか迷ってしまうかもしれない。個人的にも、対面に慣れていないのでまごまごしてしまいそうだな……と、お肉屋さんに足を運ぶのを躊躇してしまう気持ちがあった。それを伝えると、新井さんは「そんなに構えずにいらしてください」と笑った。「こういう料理に使いたいと言っていただければ、この部位がいいですよとお伝えすることもできますし、おいしい食べ方についても多少でしたらアドバイスできるかなと思います。僕にお話できることがあれば、時間が許す限りお話しますので、ぜひ気軽に聞いてください」そうか、わからなければ素直に聞いてしまえばいいのだ。それが、対面販売の良さなのだから。最近は昔からの常連さんやご近所さんだけでなく、若いカップルなどの利用も増えてきたらしい。「今はもうこういう量り売りが珍しいから、面白がってくださる若い世代の方もいるんですよね。100gと言われて測ったら105gだったりして、『ちょっと多いけれどいいですか?』『大丈夫です』みたいなコミュニケーションが生まれるのも、新鮮みたいで。老若男女問わず来ていただけるのは、うれしいですね」そして、この新井精肉店のもうひとつの魅力は、なんといってもお惣菜だ。ショーケースには、例の芸人さんたちのお墨付きだというコロッケやメンチカツ、ハムカツ、とんかつなどが。昔懐かしい素朴な佇まいに、思わず「おいしそう……」と声が漏れてしまう。お肉屋さんのこのショーケースの前で、「これは絶対買うでしょ」「いやでも、あっちも捨てがたいんだよなあ……」と迷っている時間って、人生における幸せランキングの結構上位に入る気がする。もう大人だから好き勝手に買ってもいいのだけど、いったん迷うのが楽しいのだ。厨房では、今まさに一枚一枚ていねいにメンチカツを揚げているスタッフさんの姿が。「基本的に、創業当時からのつくり方を引き継いでやっています。ふつうはサラダ油を使うことが多いですが、うちではラードを使っているので動物性のしっかりした旨味があります。いわゆる、昭和の味ですね。とくにメンチカツは、うちオリジナルの味かな」詳しいつくり方は企業秘密とのことだが、せっかくなので実際に食べさせてもらった。あげたてアツアツだ。小判型の素朴な見た目。一口食べると、サクサクっといい音とともにじゅわっと肉汁が。噛めば噛むほど、玉ねぎとお肉の甘みを感じる。お、おいしい。じつは、個人的にメンチカツは重たくてちょっと苦手意識があったのだけど、ここのはしっかりした旨味がありつつも軽さがあるような気がする。油がいいのだろうか。これだったら、おやつ感覚でサクッと食べられそうだ。1日の販売数が最高600枚(!)という人気ぶりも、うなずける。ちなみに、食パンにメンチカツとスライスチーズを乗せてトースターで焼くのが、新井さんおすすめのアレンジレシピだそう。ベーシックなラインアップに加えて、数年前に新しく始めた商品も。たとえば、こちらの「チーズ“サンド”ハムカツ」。いまだにプライベートで手土産を持って買いにきてくれたり、メディアやライブで名前を出してくれたりと、大山を離れてからも贔屓にしてくれている芸人さんたちへの感謝を込めて、「おふたりのコンビ名を入れた商品をつくりたい!」という思いから生まれた新商品だ。ご本人たちも公認。テレビ番組のハムカツ特集でも取り上げられ、すっかり人気メニューになったそう。ダブルのハムにチーズをサンドイッチしていて、温めるとチーズがとろけてさらにおいしい。夕飯の一品にもぴったり。新井さんが、おばあさんやお母さんから大切に受け継いできたこの店の味は、今やメディアやクチコミを通して全国に広がり、ファンを増やしつづけている。お店のSNSでの発信を見て、北海道や九州からもお店に足を運んでくれる人がいるのだそう。ちなみに、音楽好きな新井さん。日本盤が出る前から推していたアメリカの超人気メタル・バンドとも縁あって直接話したことがあり、ご本人たちから熱烈なファンとしてお墨付きをもらっているのだ。それによって、このお店がファンの聖地的な場所にもなっているらしい。(お肉屋さんらしからぬ、パンクなロゴにも納得がいく)国やジャンルを超えて認知されている新井精肉店(通称:ミートアライ)、恐るべしである……。きっと、新井さんの人柄もあってのことなのだろう。そんな人気をもってしても、あらゆるものの価格高騰が止まらないこの時代に、お店の経営を続けていくのは簡単なことではない。取材の中でも、新井さんの言葉からは苦しい現状が何度も垣間見えた。それでも、これまでの縁や築いてきた関係性を大切にし、さらに未来につないでいくために、新井さんは日々奮闘している。からだが資本だからこそ、週に一度の整体も大切な時間だ。「うちは小さいお子さんからご年配の方まで来てくださいますが、やっぱりお話できることがうれしくて。なかには、ヘルパーさんと一緒に車いすでいらっしゃる101歳のおばあちゃんもいて、必ず僕と握手して帰るんですよ。老若男女問わず、せっかく来てくださった方とは僕としてもなるべくお話したいですし、自分にできることをしたくて。ずっと応援してくださる方たちのためにも、頑張って続けていかなきゃなと思っています」取材している合間にも、続々とまちゆくお客さんたちが自転車を止めて、お肉やお惣菜を買っていく。きっと、今日のお昼か夜のおかずになるのだろう。なかには午前授業を終えたのか、学生服を着た少年たちの姿も。コロッケやメンチをひとつずつ買って、ほくほくした顔で帰っていく。この風景はずっとなくなってほしくないから、私も時折お店に寄ってハムカツ1枚でも、お肉100gでも買って応援したいと思った。