小学生のころ、遠足のお弁当といえば、決まって母が握るおにぎりだった。具は梅と昆布の2個セット。巻かれた海苔は時間が経ってしんなりしていたけれど、私はそれが大好物で、お弁当のために遠足に行っていたような気がする。大人になり、ひとり暮らしを始めてから、パリパリの海苔の良さに気づいた。そして、その値段が想像以上にお高いことにも……。スーパーで海苔をカゴに入れるときは、つい気合いが入ってしまう。でも、袋を開けた瞬間の香りや、そっと取り出した一枚目のパリパリ感を味わうたびに、やっぱり買ってよかったと思うのだ。今回訪れたのは、都営三田線の板橋区役所前駅と東武東上線の大山駅のちょうど中間あたりに位置する、板橋区氷川町の「中島海苔店」。お店に着くと、「焼きたて焼きのり」と書かれたのぼりと、手作り感あふれる可愛らしい看板を発見した。道路に面した扉が入口かな……?と思ったが、そこには「入口は右奥です」と、これまた手書きの貼り紙が。建物をぐるっと回ると、また看板。まるで謎解きゲームのようだ。そうしてようやく見つけたのは、どう見ても普通のマンションのような扉。恐る恐る開くと、ぐわっと広がる香ばしい磯の香りと、響き渡る機械の音——!じつはここは、都内でも珍しい海苔の加工工場。そして、焼きたての海苔を誰でも買うことができる直売所でもある。「どうぞー!いらっしゃいませ!お待ちしてました」にこやかに出迎えてくれたのは、中島海苔店の二代目オーナー、中島信明(なかじま のぶあき)さんと、妻のやす子さん。海苔が次々と流れてくる大きなベルトコンベアにしばらく圧倒されていると、寒いからこっちにどうぞと、仕入れた海苔を保管しているという隣の部屋に案内してもらった。天井近くまで積まれた海苔の箱に、思わず「すごい...…」と声が漏れる。「うちは、簡単に言うと海苔の加工業者。問屋が買い付けた海苔を仕入れて、しっかり乾燥させて、焼いて、袋詰めをしたものを配達する。それが僕らの仕事です」と信明さん。私たちが普段、何気なく食べている焼き海苔。でも、その海苔が食卓に届くまでの流れを、ちゃんと知っている人は意外と少ないのではないだろうか。海苔は、まずカキ殻に胞子を植え付け、春から夏にかけて「糸状体」と呼ばれるタネを培養する。秋になると、そのタネを網に付着させ、海に広げて育てていく。静かな海に網が浮かんでいる光景を、見たことがある人も多いかもしれない。「同じ県でも、環境や育て方によって海苔の味が全然変わるんですよ。海の状態や風、それから日の当たり具合とか、いろいろな条件があるんです。潮の満ち引きが激しい海は、海苔にとっては好条件。海面の動きが大きいほど、柔らかく甘みのある海苔が育つんです」そうして海苔芽が育つと、いよいよ収穫の時期。信明さんによると、昔は手作業で収穫していたが、最近は技術の発展が進み生産性も大きく向上したそうだ。摘み取られた海苔は、まず「全型」と呼ばれる正方形に整えられ、大型の乾燥機で水分を飛ばす。100枚ごとに束ねられた「乾のり」は、まだしっとりとしていて、黒に近い深い紺色をしている。その後、等級ごとに分けられて出荷。全国の問屋が買い付けを行ったのち、中島海苔店のような加工工場に運ばれる。ここで「本乾燥」を施した後に、「火入れ」という焼き作業を行い、袋詰めしたものがようやくスーパーや小売店に並ぶのだ。改めて調べてみると、その工程の多さに驚かされる。養殖技術や機械の発展はもちろん、職人たちが長年かけて受け継いできた技術のバトンに、心を打たれた。信明さんのお父さんが昭和20年代に創業した中島海苔店。当時は表にお茶屋さん、裏に工場があり、海苔の加工製造を行いながらお茶と海苔の販売をしていたという。「時代とともに商売の形も変わってきました。私がお店に入ったのが、昭和46年くらいかな。父親の代では卸売がメインだったけど、私の代からは本格的に加工業へシフトしました」じつは、都内で海苔の加工を請け負っている業者はごくわずか。産地で加工まで行う業者は多いものの、最終工程である焼き作業まで済ませてしまうと、海苔が脆くなり、輸送中に欠けてしまう恐れがある。デリケートな商品だからこそ、中島海苔店のような卸先や消費者に近い加工業者の存在は問屋にとっても貴重だ。こうした強みを生かして、中島海苔店は思い切って加工業に専念する道を選択。この事業転換は成功し、平成2年にはお店を建て替えて工場を主とする現在のかたちに至った。以来、たくさんの取引先に新鮮な海苔を納め続けている。一方で、昔なじみのお客さんからは、中島海苔店が加工業に専念してからも「海苔を売ってほしい」という声が後を絶たなかったという。「お店をやっていたときのお客様が時々いらして、『まだ売ってもらえますか?』って聞かれるんですよ。はじめは頼まれたときだけお売りしていたんですが、数が増えてきたので『せっかくだから宣伝してみようか』とのぼりを立てたのが3年前。そしたらやっぱりここで買えるんだと知ってくださったようで、海苔をお求めになるお客様がかなり増えましたね。ちなみに今、販売用の海苔を保管しているお茶箱は、お茶屋さん時代の名残なんです」中島海苔店では、焼きたての海苔をすぐに袋詰めするから、味も香りも格別。さらに、工場直売だからお値段も手頃。こんなお店が近所にあったら、きっと通いたくなるに違いない。販売している海苔は2種類。鮮やかな青色が目を引くパッケージの「青」と、白地に紺色の波模様が印象的な高級感のある「波紺」だ。妻のやす子さんが、それぞれの違いについて教えてくれた。「まず『青』はね、どんな料理にも合うクセのない味わいが特徴です。ごはんに乗せたり、おにぎりに巻くと美味しいの。それから『波紺』は、そのままでも主役になるくらい密度が濃いのが特徴で、風味や甘味がしっかりしています。この『波紺』をチーズに巻くと、ワインにとっても合うんですよ」よかったら食べ比べてみて、と特別に2種類の海苔をおすそ分けしていただいた。なるほど、風味、とはよく使う表現だけど、口に入れた瞬間、本当に磯の香りが風のように鼻に抜けるのを感じる。「青」のパリパリ感と甘味の強さは、お米との相性バツグンだ。そして「波紺」は、その色の濃さと、手触りの滑らかさに驚いた。香ばしくて、塩気が絶妙で、ついつい手が伸びてしまう。「一度ここの海苔を食べたら、もう他には戻れない」というクチコミを見かけたが、本当にその通りだ。私もすっかりファンになってしまった。「海苔にはそれぞれ等級がありますが、結局は食べる人の好みが大事だと思います。実際、特級のものより三等級くらいの海苔が美味しいという方もいらっしゃいますし、海苔によってその風味はさまざまですからね。まずはいろいろ食べ比べてみてほしいです」海苔への愛と、お客さんを大切にする姿勢が印象的な信明さん。しかし、工場を継ぐことには迷いがあったという。決意するきっかけとなったのは、幼いころおばあさんからかけられたある言葉だった。「小学生のとき、千葉県の木更津で海苔屋をやっていた祖父母がうちに遊びに来たんですよ。その時、『信明、大きくなったらお父ちゃんを手伝ってくれるね?』と言われて。幼心になんだか使命感みたいなものを感じてしまったんですよね。それを大人になってからふと思い出して、やっぱりこの店を無くしちゃいけないなと。それで自分なりに気持ちに区切りをつけて、でも前向きに、お店を継ぐことを決めたんです」「信明さんがお店を選んでくれて、お父さんも内心嬉しかったでしょうね」と思わずつぶやくと、「どうだかねえ」と照れ笑いの信明さん。決意をしたあとは、海苔の名産地・広島で2年間みっちり海苔づくりを学んだ。「とにかく死に物狂いで勉強しました。それと同時に、どこか『新しいことを始めよう』という気持ちも大きくて。継ぐことを決めて肩の荷がおりたのか、人がやっていないことをやってみよう、新しい知識を摂取しようという好奇心が増していましたね」そうして無事に修行を終え、お店に戻ったのちにやす子さんと結婚。「新しいことを始めたかった」という言葉のとおり、小売から加工に専念して、海苔そのものと向き合ってきた。やがて3人の娘さんが生まれ、現在は長女の純子さんとその旦那さんも一緒に、4人でお店を営んでいる。大きなベルトコンベアから流れる海苔をチェックする信明さんのまなざしからは、職人らしい熟練の目利きを感じる。「結果的にはね、やっぱり家業を継ぐことに決めてよかったかな、と私は思います。だって、この工場も建てられたし、こうして家族にもついてきてもらって今までやって来られましたから。一緒に仕事をしている長女とは喧嘩ばっかりだけど、小さい頃から私たちの仕事を見て、体で覚えてくれているというのは、頼もしいです。座学で勉強しただけでは、どうにもならない世界でもあるからね。地球温暖化で海苔を取り巻く状況はどんどん厳しくなっているけれど、私たちの海苔を待っていてくれるお客さんがいる限り、力を合わせて精一杯やっていこうと思います」ちなみに「仕事でもプライベートでもご家族と顔を合わせるのは、大変じゃないですか?」と聞くと、「全然そんなことないよ」と信明さん。休みと言えば山、というほど山登りが好きで、娘さんたちが幼いころはよく一緒にキャンプに行っていたらしい。「仕事は仕事、それからレジャーはレジャーで割り切って、家族みんなで楽しく暮らせたらいいかなと思っていて。そうそう、毎年孫たちも連れて、埼玉県の最勝寺に行くんだけど、そこで梅もぎができるんですよ。それで梅干しを作っておにぎりにすると、うちの海苔とよく合うんです」「そうそう、実が大きくて、美味しいのよね」とやす子さんも笑う。プライベートのエピソードも、気づけば海苔の話に繋がっていて、お二人は本当にお店を愛しているんだなあ、とほほえましく眺めていた。取材を終え、別れ際にもらった「開けたらもったいぶらないで早く食べてね」「冷蔵庫にしまってね」という言葉が温かい。手渡された海苔から、お二人のやさしさが伝わってくる。中島海苔店の海苔は、贈答用に全国発送にも対応しているらしい。取材からの帰り道、あの頃のお弁当のおにぎりを思い出しながら、今は離れて暮らす実家の両親に、ここの海苔を贈ろうと思った。