「うちはバーみたいな居酒屋だから、みんなフラットですよ。お客さん同士は年齢も性別も年収も関係なく、横一線。ただ、よく通ってくれる常連さんには、ちゃんとわかるように贔屓(ひいき)します。いつもありがとうって気持ちでね」 そう話すのは、「Dining&Bar 邑武(むらたけ)」のマスター・村田賢治さん。成増駅から徒歩10分ほどの場所にあるこのお店は、深夜まで常連さんで賑わうカウンターのみの小さな居酒屋だ。たまたま通り過ぎたときに、「お?何だか賑わっているぞ」とついつい気になって覗きたくなってしまうような、そんなお店。2000年創業。店名の「邑武」は、マスターの村田さんが以前、雑誌へのレシピ寄稿をした際に名乗っていたペンネームからとったのだそう。ちょっと無骨な印象のトタン屋根の看板が渋くて目を惹く。こぢんまりとした店内にはカウンターが7席。ウイスキーをメインにしたバーのような様相もありつつ、居酒屋らしく食事やおつまみも楽しめる。「いくつかこっちで適当に準備してもいい?」その声に「お願いします!」と頷くと、村田さんはこぢんまりとしたキッチンでパパっとおつまみを用意してくれた。玉子サラダや冷奴、ゆでブロッコリー、白身魚フライ、赤ワインで漬けたらっきょうなどなど。どこか素朴でほっこりするおかずが続々とカウンターに並べられていく。これらは「選べる3点セット」のおかずたち。およそ30種類の中から好きなものを自由に選べる。3点で450円(税別)。ほかにも気になるものがあれば、1品150円で追加できる。この手軽さは、ちょっとつまみたいときに嬉しい。ひとりでお酒を飲みに来るお客さんたちから小さいおつまみをつくってほしいという要望があり、「そんなに頑張らないメニューでいいなら」と、2~3年前から始めたそう。そのほとんどが、お客さんのリクエストからレギュラー入りしたものらしい。「カレーのルーがすさまじい人気ですね。人によってはカレーのルー、小ライス、コロッケの3つを選んで小さいコロッケカレーとして食べる人もいますし。ポテトフライ2つにカレーのルーを頼んでディップして食べる人もいたりね」なるほど。自分好みにいろいろ組み合わせてみるのも楽しいかもしれない。韓国のりとチーズとキムチなんかも鉄板の組み合わせになりそうだ。もちろん、がっつりおなかを満たしたい人もウェルカム。ピザやパスタ、丼などのごはんものが種類豊富に揃っているので、ご安心を。お酒は生ビール、日本酒、ワイン、カクテルなど一通りあるが、ウイスキーをメインにしているのは、シンプルに村田さん自身が若い頃からのウイスキー好きだから。近くの酒屋さんで扱っている手頃なものから、なかなか手に入らないレアものまでさまざま。「趣味のオートバイでよく行く秩父の酒や、プレミアが付くような厚岸(あっけし)のウイスキーなんかもあります。貴重なお酒は簡単に売りたくないから、時価にしておいてお客さんから聞かれたら答えるんですよ(笑)」ははは、と笑う村田さん。ふとカウンターのテーブルに視線を落とすと、手書きの小さなメニューを発見した。まさかのうな丼をはじめ、味噌チキンカツやホタテホイルバターなど、先ほどのスピードメニューとはまたちょっと趣の違う料理、おつまみが並ぶ。しかも、このラインアップは毎日変わるらしい。日によっては、握り寿司や刺身、焼き鳥、旬の焼き魚なども出していると聞いて驚いた。こうした多様なメニューには、村田さんのこれまでの経歴が深く関わっている。じつは村田さんの生まれは、板橋区大谷口の寿司屋。20歳まではミュージシャンとしてデビューを目指していたものの、同じく寿司職人の息子として知り合った某著名なコメディアンの助言を受け、飲食の道へと進んだ。「その方に『メジャーデビューして有名になったらどうしたいの?』と聞かれたときに、僕は『稼いで自分の店とか持ちたいですね』と言ったんですよ。そうしたら、『最終的にそこを目指すなら、もう今からやったら?歌って踊れる飲食店のオーナーかっこいいじゃん』って。その言葉で音楽を辞めて、飲食経営をしている会社に就職しました」当時はバブル期。居酒屋、カラオケスナック、焼肉、寿司、キャバクラなどさまざまな業態の飲食店を運営している会社で、店長として複数の店舗を渡り歩いていたという村田さん。その後、息子さんの誕生を機に本格的に自分の店を持つことを考え、31歳のときに会社を退職した。「明美ちゃん(村田さんのパートナー)には申し訳なくてね。会社を辞めて帰ってきた日のことを、今も覚えていますよ。まだ赤ちゃんの長男を抱えている明美ちゃんに、『会社辞めてきちゃった』って言ったら、『どうする?』『とりあえず旅行行く?』って(笑)」せっかく少し時間ができるから、ということらしいが、そこで「旅行に行く?」と言えちゃう明美さんもすごいし、ふたりの人柄や関係性がよく表れているなあと感じる。そうこうして、村田さんは経営を学ぶために大手居酒屋チェーンに転職。3年後には自分の店を持つと心に決めて働き始めた。ここでのとある経験が、今の邑武の土台になっているという。「ある日、ホールでお客さんに呼ばれていったら、女の子が『すみません、甘エビのお刺身とカルーアミルクください』って言ったんですよ。僕は最初『合わないんじゃない?』と思っちゃったんだけど、冷静に考えればお金を払うのはお客さんだし、お店側があれこれ言うのって野暮じゃないですか。それに気づかされたから、自分の店では何でもありにしようと思って。だからこの店の基本のコンセプトは、“甘エビのお刺身とカルーアミルク”なの」うな丼を食べながらスコッチウイスキーを飲んでもいいし、お寿司と甘いカクテルを合わせてもいい。お客さんが自由に選べるように、ジャンル関係なしに幅広い選択肢を用意する。そう聞くと、その店のジャンルレスな料理のラインアップにも納得がいく。外食をすると、つい「この組み合わせは変かな」「無粋だと思われるかな」と気になって、本当に自分の食べたいもの、飲みたいものをひっこめてしまうことがある。でもここでは、そんな遠慮は一切必要ない。自分の“好き”に正直になっていいのだ。念願叶ってオープンしたこのお店も、2025年でちょうど25周年。コロナ禍以降は赤字が続き、苦しい時期を過ごしたが、昨年ようやく黒字になったという。年月を重ねた今、村田さんが大切にしているのは「自分が楽しくなければお客さんも楽しくない」というマインドだ。邑武にやってくるのは、少なからず村田さんの感性にシンパシーを感じている人たち。もちろん新規のお客さんは大歓迎だが、村田さん自身が大切にしたいものに反するような、フラットなコミュニケーションを築けない人は来店をお断りすることもある。新規のお客さんも常連さんも、そして村田さん自身も、みんなが居心地のいい空間をつくるために、しっかり締めるところは締めるのが、邑武流。結局のところ、それこそが店を長く続ける秘訣なのかもしれない。「若いときはそれこそ、お客さんの無理な要求にも応えなきゃという気持ちはあったけれど、25年やってるとだんだん力の抜き方や自分自身の在り方がわかってきたというか。余裕ができてきたってことかな。ここを家みたいに思ってくれているお客さんも多いし、みんなのわがままに答えるのも楽しいですよ」オートバイとゴルフ、そして地質学(!)好きの陽気なマスターと、やさしいお客さんたちがフラットに語らうバーのような居酒屋。村田さん自慢の料理を味わうもよし、隣のお客さんと会話を楽しむもよし。ほんの少しだけ勇気を出して、その扉を開けてみたら、新しい世界に出会えるかもしれない。