「牡蠣を“ぷりぷり”以外の表現であらわすと、何になる?」久しぶりに会った先輩とふたりでお酒を飲んだとき、そんな話になった。やわらかい乳白色のつやつや、つるつるとした身を見ると、つい“ぷりぷり”と言いたくなる。けれど、私はその音の大胆不敵な感じも含めて「ぶりんぶりん」が好きだ。貝の中でも、なんとなくちょっと特別感のある牡蠣。生でも、焼いても蒸しても揚げてもおいしい、栄養も満点。当たるのはちょっと怖いけれど、それでも毎年無性に食べたくなってしまうニクい存在。今回は、そんな牡蠣をお手頃に食べられるお店があると聞いて、行ってきた。「牡蠣酒場 すずきんち」は、東武東上線 ときわ台駅の南口から徒歩3分。「旬の生牡蠣そろってます」と書かれた看板が目印だ。取材に伺ったお昼時には、「牡蠣煮干しラーメン」ののぼりが出ていた。2015年1月にオープンしたこの居酒屋。もともとバーだった物件を居抜きにしたこぢんまりとした店内には、カウンターがそのまま残っている。ここでは、新鮮な牡蠣や牡蠣料理のほか、牛すじ煮込みや唐揚げなど居酒屋らしいメニューが楽しめる。オーナーの越智裕文さんが「自信を持って出せる」と話す自慢の牡蠣は、兵庫県や大分など全国の漁港直送。以前は大田市場で卸してもらっていたが、今は牡蠣猟師さんが全国から集まる食品展示場に足を運び、いいと思ったものを直接仕入れている。生牡蠣のメニューに並ぶ「大入島オイスター」や「サーディンビーチ」などは、今流行りのブランド牡蠣だ。「最近は全国各地でブランド牡蠣がどんどん出てきています。うちでは、毎年開催される『牡蠣-1グランプリ』の各部門で入賞した牡蠣も扱っていますね」あらゆる食材にグランプリを競うイベントが存在するのだなあ、と思いながらメニューを眺めていたら、見慣れない文字が目に入り、越智さんに尋ねた。「この“二倍体”ってなんですか?」よく見ると、「三倍体」という文字もある。頭の中では、数字が上がることにただの牡蠣がグン!グン!と進化するイメージが湧いてしまうが、そういうことではないらしい。「二倍体というのが、世間一般的によく見る真牡蠣で、夏になると卵を含みます。そうすると、卵に栄養が渡るぶん牡蠣自体のサイズが小さくなったり、味が落ちてしまったりするんですよね。そこで、一年中おいしく食べるために卵をつくらないように品種改良したのが、三倍体です」通常だと、初夏にはシーズンを終える牡蠣。それが、三倍体だと1年を通して出荷できる。字面だけ見ると、ふつうの牡蠣より大きいのかと思うけれど、じつは三倍体の方がサイズは小さめ。そのぶん実入りが良く、旨味がぎゅっと凝縮されていておいしいのだそう。二倍体に比べて貝柱が大きいのも特徴。小さくとも、まさにぶりんぶりんな牡蠣だ。「今のところは、板橋区内で三倍体牡蠣にこだわって置いているお店はなかなかないと思います」“牡蠣酒場”だけあって、牡蠣単体のメニューだけでもさまざまな種類がある。用意していただいたのは、生牡蠣、焼き牡蠣、蒸し牡蠣。そして、ガーリックチーズやトマトチーズといった変わり種も。それぞれの調理方法に合った牡蠣を選んでいる。食べ比べたらきっと楽しい。「何を食べてもおいしい」を目指すすずきんちには、牡蠣を使った一品料理もいろいろ。こだわりは基本的に“手作り”であること。料理に使うドレッシングやタルタルソース、タレをはじめ、ほとんどが全部手作りなんだそう。なかでも越智さんの一押しは店頭ののぼりにもあった「牡蠣煮干しラーメン」。濃厚な牡蠣エキスとたっぷりの煮干しでとったスープに、板橋でおなじみの舟渡ラーメンでも使用される豊華食品から仕入れた細麺を合わせた一品。ランチや宅配サービスでも人気だそう。結構本格的なこのラーメン。牡蠣と同じくらいこだわっているのは、越智さんのルーツがラーメン屋にあるからだ。葛飾区の下町で生まれ、子どもの頃から料理が好きだったという越智さん。おじいさんがやっていて、現在は伯父さんが継いでいる鰻屋さんでアルバイトをしていた経験もあり、自分で飲食店をやれたら楽しそうだなという漠然とした思いを抱くように。「ラーメンが好きだった」というシンプルな理由から、大人になってからラーメン店や居酒屋で働き、店長を経験。居酒屋時代にもつくらせてもらっていたラーメンの評判に自信をつけて、2007年に独立してときわ台にラーメン屋を開いた。「本当はもっと都会でやりたかったんですが、たまたま知り合いに紹介してもらった物件が板橋にあったので、1年くらいのつもりで始めたんです。でも結局なかなかいい物件が見つからないし、お客さんもつきはじめていたので、そのままときわ台で続けることにしました」「つけ麺HERO」という名前のつけ麺屋さんをしばらく営業したのち、2店舗目としてオープンしたのがこのすずきんちだった。これまた「小さい頃から牡蠣が好きだった」というシンプルな理由と、居酒屋時代にお世話になった会社が牡蠣を扱っていた縁から始めた牡蠣居酒屋だ。しばらくは同じときわ台の中で2店舗を平行していたが、忙しさから2016年にすずきんちに絞って営業。以前は朝方5時まで営業していたこともあり、お酒を飲むのが好きな地元のお客さんが自然と集うようになった。「基本的には、常に新しいことをやっていきたいし、変えていきたい」という越智さん。変わることに対する恐れはないのかと尋ねると、「むしろ同じことをずっと繰り返していることの方が怖い」と答える。「当たり前のことを当たり前に続けていく、というのはもちろんだけど、いい方にいくなら変えられるところは変えていきたいし、面白い話があったら積極的に乗りたいんです」板橋区役所前の方で牡蠣酒場の2店舗目をオープンしたり、このまちでマルシェやお祭りに参加したりしていたことも。きっかけがあれば、とりあえず乗ってみる。結果、上手くいかなかったら仕方がない。そのくらいの心持ちで飲食店経営を続けている。仕事へのモチベーションもいたってシンプル。「お客さんにおいしいものを食べてほしい」。その一心だ。そんな越智さんが今目指しているのは、さらに幅広い人に気軽に来てもらえるような“大衆感”を打ち出していくこと。“安くてうまい”が勝つ板橋で戦っていくための、大事な生存戦略だ。牡蠣という食材を扱い、かつこぢんまりとした店舗でできることは限られているが、ゆくゆくはセンベロもやりたいと話す。牡蠣屋さんでセンベロ……! その響きだけで、若者からおじいちゃんおばあちゃんまで、みんなが喜ぶ顔が浮かぶ。そういえば、ずっと気になっていたことがあった。オーナーは越智さんなのになぜ「すずきんち」なのか。最後の最後に聞いてみると、こんな答えが返ってきた。「僕、もともと鈴木だったんですが、20歳のときに母親の旧姓の越智に変わったんです。でもそれまでずっと鈴木で生きてきたし、友達で越智なんて呼ぶ人ひとりもいないんですよ(笑)。ここのスタッフもみんな、『スーさん』って呼びますからね。いろいろ面倒なんで、お店は『すずきんち』にしました」名字が変わることは、どんな理由であれ、自身のアイデンティティがゆらゆらと揺らぐもの。でも“鈴木”としての人生がたしかにあったこと、そして決して失われるものではないこと。越智さん自身にそんなつもりはなかったかもしれないけれど、かつての名字を店名にすることはそれまでの人生を肯定しているみたいで、とても素敵だなと思った。