「普段撮られることがないから、緊張しちゃうな」小さく笑いながら、佐藤学さんは狭めのキッチンでひとつひとつ丁寧に具材に串を打つ。魚、野菜、肉、エビ。17時のオープンに向けて、13時頃から仕込みを始める。2014年創業の串揚げと創作割烹の店「穂卓(ほだか)」。板橋本町駅から徒歩7分。静かな住宅街の中にひっそりと佇むこの小さなお店は、お客さんから「何を食べてもおいしい」「地元の方々にとって宝物のようなお店」と言われる隠れた名店だ。旬の食材を使ったこだわりの串揚げと、「信州十四豚」の肉料理、そして釜めしをメインに、店主の佐藤さんのセンスが光る創作料理が楽しめる。串揚げというと、まずは“二度漬け禁止”でおなじみの大阪の気軽な串カツを思い浮かべるけれど、穂卓の串揚げはちょっと違う。「どうぞ!」とテーブルに届けられた串揚げ8種盛りは、なんだか想像していたよりずっとおしゃれな雰囲気だった。ぷんとやさしい、揚げたての油の香りがして、おなかが小さく鳴る。このために、お昼ご飯を食べずに来たのだ。何の具材を使っているのか、素人にはぱっと見ではわからない。でも、確実においしいであろうことはわかる。この日のラインアップは、「豚ヒレ燻製チーズとズッキーニ」、「エビの大葉巻き」、「アスパラ豚肉巻き」、「メヒカリとウルイ(山菜)」、「椎茸の肉詰めとフキ味噌」、「マッシュルームの牛肉巻き」、「いちごクリームチーズ生ハム巻き」、「もちチーズ明太」の8つ。これはどんな味がするんだろう。1本ずつ手に取るたびに、そんなワクワクがこみ上げてくる。添えられたソースや食材同士の組み合わせも含めて新しい。なのにまとまっていて、1本でひとつの料理を味わったような感覚になるから、楽しい。「そういう完成した表現に、もともと憧れがあったんですよね。ただ具材を串に刺して揚げるだけでなく、トッピングも含めて1本1本料理として仕上げるというのが、自分の性に合っていたんだと思います」文字通り“サクッ”と軽い食感の秘密は、油切れのいい国産米油と極細パン粉。おかげで、揚げ物なのに罪悪感も胃もたれも少ない。すごく正直に言うと、板橋区の住宅街のど真ん中で、こんなにおいしい串揚げが食べられるとは思っていなかった。ご近所さん、地元の方々だけでなく、もっといろいろな人に知ってほしい!と素直に感じた。「とてもおいしいです!」と力を込めて伝えると、「ああ、よかった。そう言ってもらえて嬉しいです」と、佐藤さんは目尻を下げて、本当に嬉しそうに笑った。この串揚げを看板メニューに掲げ、身ひとつでお店を始めるまでに、佐藤さんはさまざまな経験をしてきた。青森県出身。高校時代は、若者たちのデートスポットになるような、ちょっとおしゃれな洋食店でアルバイトをしていた。珍しく、高校生でもキッチンスタッフをやらせてくれる店だったそう。高校卒業後は地元を出ることを決め、学校の先生に勧められて東京・板橋区を中心に展開するスーパー「よしや」の精肉部門に就職。2年勤めたのちに辞め、近所の居酒屋でのアルバイトを始めた。「当時は本当に未熟この上なくて、何も考えていなかったんです。14時くらいに起きて、夕方17時頃から0時まで働いて、飲んで深夜に帰ってくるみたいな。それでも生きていけたから、いい時代でしたよね」しかし、その日暮らしのアルバイト生活にも2年で見切りをつけ、新宿のイタリアンに就職。同世代の若手が多く、活気のあるお店で初めて本格的に調理を学んだ。22歳から、トータルで10年。そこでできた知人に誘われて転職した居酒屋チェーンで、佐藤さんは転機を迎える。「一緒に働いていた仲間の提案がすごく面白くて、それに刺激を受けて自分でもこういうのをやってみたい、という思いが芽生えるようになりました。そこで、自分にしては珍しく真剣に考えて、新しい業態を会社に提案してみたのですが、全然話にならなくて(笑)。その瞬間、『じゃあ、自分自身でやるために本気を出そう』とスイッチが入ったんです」そこからがすごかった。本人曰く、それまでは「だらしなかった」という佐藤さん。働いたぶん、お酒を飲むような生活をすっぱりと止め、開業資金を貯めるためにお金を徹底的に管理しはじめた。細かく計画を立て、休みの日は開業情報をチェックするのが日課に。その期間は、飲酒も友人と会うことも意図的に断(た)った。「生活はがらりと変わりましたね。当時は、毎朝掃除機をかけて仕事に出掛けていたくらい(笑)。おかげで、部屋がだいぶきれいでした」アドレナリン全開。「あの頃は自分で振り返ってみても、すごかった」と話す佐藤さんだが、いったい何がそこまで彼を駆り立てていたのか。その理由を聞いてみても、佐藤さん自身なぜそこまで頑張れたのか、よくわからないらしい。ただ、「今ここで全力でやるべきだ」という気持ちだけがあった。そんな生活を2年ほど続けたのち、なんとか開業資金が貯まり、身ひとつでこの店を始めた。安く借りられたという物件は、元とんかつ屋さん。一目見たときから、「ここがいい」と心惹かれたという。老若男女がおいしいご飯で、ゆったりといい時間を過ごせるお店にしたい。「穂卓」と書いて「ほだか」と読ませる店名は、じつはネットで公募したのだそう。こうして公に情報を出すのは初めて。「最初の頃はお客さんにも本当のことは言わず、それっぽい理由を話していたんですけどね(笑)。コンセプトを伝えてアイデアを募集したところ、すごくいい名前を提案してもらえたので、これでよかったなと」念願叶っての自分のお店。なんなら、名前をつける部分こそ一番楽しいのでは……⁉と思ってしまうが、佐藤さんは「まったく考えられなかった」のだそう。きっと佐藤さんにとっては、料理が最大の自己表現の場。だからこそ、ほかはあえて外に開くというのが、なんだかさっぱりしていていいなと思う。静かな住宅街で始めた小さなお店は、走り出しこそ苦戦したものの、慣れないながらスタートしたSNSの発信を通して足を運んでくれるお客さんが増えていった。当初の狙い通り老若男女、ひとりから家族連れまで幅広い人に利用されている。お店を代表する串揚げ、豚肉料理、釜めしの3つは、もともと佐藤さんが前職で会社に「やりたい」と提案したものたち。そのなかでも佐藤さんの一押しかつ、お客さんの間でも定番メニューとして定着したのが、こちらの「究極の玉子かけ御飯」だ。釜で炊かれたご飯の上にのっているのは、黒トリュフ……! 蓋を開けると、炊きたてのご飯と、トリュフの芳醇な香りがぶわっと混ざり合う。これだけでお酒が飲めそうだ。お米は、新潟県の名酒・八海山酒造の契約農家さんから特別に仕入れた、南魚沼産コシヒカリを使用。粘り、つや、甘みが強く、お米単体でもめちゃくちゃおいしい。まずは一口そのまま食べたら、そこにホイップされたふわふわの卵と、出汁醤油をかけていただく。「展示会で見つけた卵専門会社さんの卵を使っています。卵白が少ないので、卵黄のコクを強く感じられるのが特徴ですね」別皿でもらえるパルメザンチーズと燻製した出汁醤油で、味変もできる。まさに、究極の玉子かけご飯。上品で、でも個性があって、とてもおいしい。シェアしたカメラマンとも、「高級なコース料理の一品みたい!」と盛り上がった。ご飯があっという間になくなってしまうので、ペース配分にはご注意を。穂卓には、ほかにも魅力的な創作料理がたくさん。パスタやピザ、デザートなど、イタリアン時代の名残りもある。佐藤さん自身の「やってみたい!」という気持ちのままにメニューは増え続け、最近はアルバイトスタッフもキッチンに入ってもらう体制を組んでいるのだそう。「小さな店なので、アルバイトをひとり増やすだけでも本当はぎりぎりの判断なんですが、ここはちょっと勝負をかけようかなと。そのぶん、ちゃんとお客さんに来ていただけるように設計しよう、とここ1年やってきました。おかげさまで、忙しくさせてもらっています」働いて2〜3年になる学生スタッフも多く、なかには料理人を目指している方もいるのだそう。いつも一生懸命な彼らの成長が、佐藤さん自身の励みにもなっている。2024年に10周年を迎えた穂卓。「一念発起したあの頃の佐藤さん、ナイスでしたね」と伝えると、「本当ですね」と笑った。「当時の自分に、この景色を見せてあげたいなって思います。今でこそこんなに喋っていますけど、それもいろいろなお客様と接して、勉強させていただいたおかげです。元気やハッピーな気持ちをたくさんいただきますし、本当にいい仕事だなって」本当に楽しそうに話す姿を見て、きっと佐藤さんは、いずれこうして店を持つ運命だったのだろうなと思う。でも、その運命を手繰り寄せられるかどうかも、結局は自分次第。覚悟を決めて、切り開いたからこそ見えた景色を守るために、佐藤さんは自分らしくて新しい創作料理を極め続けるのだ。