「アンパンマン、ありますか?」地下のキッチンに備え付けられたモニターから、声がした。店頭に立っている正子さんの声だ。レジの前には、お母さんに連れられた小さな男の子の姿。それを聞いた山田鉄美さんは「はいはーい!」と返事をし、冷蔵庫に保存していた“アンパンマン”を手に、スタタタ!と軽快に階段をのぼっていった。ジャムおじさんだ、と思った。ここは、板橋区役所前駅のブーランジェリー 「アンティーム」。山田鉄美さんと、妻の正子さんが営む、小さなまちのパン屋さんだ。最近は、独創的なおしゃれパンが並ぶお店が増えているけれど、アンティームのパンたちはとても素朴で懐かしい。コの字型の棚には食パンに塩パン、チョココロネ、ぶどうぱん、ウインナーロール、コロッケパン……。味も値段もやさしくて、人を選ばない、誰もが使いやすいパン屋さん。そういえば、小さい頃は絶対にウインナーロールを買ってもらっていたな、と思わず記憶を巡らせてしまうような、ノスタルジックさがある。鉄美さんにとって、パンたちはどれも等しく、パン。どのパンも温度と時間の管理には神経を使うし、そこに優劣もとくべつもない。だから、お客さんにおすすめを聞かれたときは、こう答えるという。「とりあえず、売れてる順に言います。まずは塩パンと、あとは食パンとカレーパン、自家製プリンも出ますよって。あとは、お客さんが好きそうなのを食べてみてもらえますか、と伝えますね」この日はすでに売り切れてしまっていたが、最近は国産小麦を使ったベーグルも人気らしい。アンティームはおよそ30年前、和光市からスタートした。和光市で3年、そのあと高島平で9年、蓮根で8年と場所を移し、2015年に今の板橋区役所前の店舗に辿り着いた。「オープン当時から、奥さんとふたりでやってきました。住まいが高島平だったので、そこから通える範囲で、その時々の状況に合わせて店舗を移ってきたという感じです。板橋区役所前はとくに縁もありませんでしたが、たまたま見つけた物件ではじめて、気づけば10年が経ちますね」今の物件は、もともと自営の酒屋さんだったそう。1階部分の貸し出しとして出ていたが、相談したところ倉庫だった地下スペースも一緒に貸してもらえることになった。材料がすべて揃っている地下でパンづくりを行い、階段を上がった1階の小さな厨房で焼き、店頭で売る。地下と1階をつなぐ階段というのが、地味に段数と勾配がある。それを、鉄美さんと正子さんは一日に何度も往復をするのだ。パン屋の仕事は、早朝4時半頃から始まる。デニッシュやクロワッサンを焼き始めて、その間に菓子パンの成形をする。それが終わり次第、フランスパンや食パンの仕込みを始める。それらを発酵させている間に、今度は成形したパンたちを焼く。自家製プリンの仕込みもある。「そんな感じで、朝から晩までとにかくずーっと動き続けています(笑)。昔だったら午後2〜3時には全部の作業が終わっていたんだけど、今は6時半〜7時くらいまでかかりますね。やっぱり年には勝てないなあって」パンの世界に入って40年以上になる鉄美さん。でも、もともとはトラックの運転手になりたくて、秋田から上京したと聞いて、驚いた。「運転する仕事がしたいなと思ったときに、たまたまパン屋さんの配達の仕事を見つけて、『これだ!』って。それで高校卒業後に上京して、伊藤製パンに入社することになったんです」伊藤製パンといえば、「SEIYU」をはじめ、さまざまなスーパーやコンビニ、カフェなどにも卸しているパンのメーカー。配達ドライバーも必要不可欠。そんななか、入社直前の研修で鉄美さんにまさかの転機が訪れる。「人事の人に呼ばれて、『山田くん、パンつくってみない?』『笑顔が素敵だからいいと思うよ』って言われて(笑)。正直、どうしようかと思ったんですが、これで田舎に帰れと言われたら困るし、18歳の少年には断る勇気がなかったんですよね」結局断り切れず、鉄美さんは高島平にある直営のベーカリーショップで働き始める。パンづくりはもちろん、料理もまったく経験がなかった。「はじめた頃は、パンの道はあまり向いていないなって感じでしたね」当時を振り返って、鉄美さんはあっけらかんと話す。新入社員は鉄美さんを含めて3人。そのうちの1人が、妻の正子さんだった。その頃のパン業界にしては珍しく、女性が活躍する職場だったそう。「そのなかでも、僕は一番手が遅かったんです。一生懸命やっていても、全然みんなに仕事が追いつかなくて、これは向いていないなって。でも、辞めて田舎に帰るわけにもいかないし、ただただ続けていました」向いていないと思いながら働く日々は、当然きつかった。「ただ、パンをつくることは嫌いじゃなかった」と鉄美さん。「パンをきれいにつくると、上司やお客さんから褒めてもらえるんですよね。キャラクターパンを見て、『可愛いね』って言ってくれたり。手は遅いけれど、きれいにはつくれる。それが救いであり、自分の道なのかもしれないなと、光が少し見えたんだと思います」伊藤製パンでは、18歳から32歳まで働いた。もともとパンを仕事にする気はなかったけれど、自分でパン屋をやるイメージはなんとなくあったと、鉄美さんは言う。「入社式の日、スーツを着た状態で店長さんにお店の近くの喫茶店に連れていってもらいました。そのとき、『山田は将来、自分でパン屋をやりたい?それともずっと会社にいたい?』って聞かれて、そう聞かれるということは独立する選択肢もありなんだなって。それがずっと頭の中にあったんですよね。店長の言葉がなければたぶん、ずっとサラリーマンだったと思います」働きながらだんだん独立への思いが強くなってきた頃、最初の和光市の物件が見つかり、鉄美さんは正子さんとアンティームをつくることに決めた。パン職人夫婦の挑戦の始まりである。アンティームには、鉄美さんと正子さんがお店で働いて学んできたことがぎゅっと詰まっている。「とくべつ、こういうパン屋にしたいというのはなかったんです。お店でやってきたことを一生懸命やっていれば、なんとかなるだろうってね」オープン以来、パンのラインナップは大きくは変えていない。しいて言えば、季節ごとに旬の食材を使った商品を少し出すくらい。一時期は世の中の流行りも踏まえて、新しい素材を使ってみたり、種類を増やしたりしたそうだが、なかなか続かなかったという。「結局、昔ながらの素朴なパンが好きだから、ずっとつくりつづけているんだろうなと思います」向いていないと思いながらも、歩き続けることで自分らしいパン屋の道を見つけた鉄美さん。大変なことも、しんどいこともたくさんあったけれど、辞めようとは一度も考えなかった。「得な性格だったみたい。大変だから辞めたいと思ったことはないですね」すごいなあ、と思わずこぼすと、「ただそういう時代に生きてきただけですよ」と鉄美さんは笑った。働けるうちはがむしゃらに働く。それがごく当たり前の時代に育ったから、そんなにたいそうなことじゃないのだと。「だからちょっとくらい労働時間が長くても、自分の決めたことだからやろうって、思いきれているんじゃないかな」鉄美さんの支えになっているのは、日々のお客さんとの会話。パン屋をやっていてよかったと思う瞬間は、むしろそれくらいしかないと言う。お客さんの「あれがおいしかったよ」と喜ぶ姿が、手や足を動かす力になっている。最後に、パンづくりにおいて、鉄美さんの中で譲れないことを聞いてみた。すると、「そうだね、何だろう……。あはは、これといってないね」と、鉄美さんらしい答えが返ってきた。「たとえば、毎日一定以上のクオリティのパンをつくるとかも当たり前すぎるし、極端に言えばご飯を食べるのと同じじゃないですか。だから、強くこうしなきゃというのはないです。ただ、長く続けたいとは思うんですよ。自分にはパン屋しかないから、今となってはね。働けるうちは健康に気を付けながら、ずっとパンをつくっていけたらいいなと思います」「足腰がたたなくなるまでね」と、鉄美さんは笑いながら言った。生涯、パン屋として生きていく。そんな宣言を、なんてことのないようにさらっと言うところが、とてもかっこいいなと思う。「すみません、行ってきます」鉄美さんはそう断って、また軽快に階段を駆け上がっていった。今度はプリンができあがったらしい。そのうしろ姿に、なんだか元気をもらうのだった。