大人になってから、好きになった食べ物はいろいろあるけれど、そのなかでもとくに「好きになれてよかったな」と思うのがタイ料理だ。子どもの頃は苦手だったナンプラーの香りやパクチーの独特な味わい、ココナツミルクの甘さも、今となっては大好物。一時期はグリーンカレーを週3で食べていたし、今も自宅でカオマンガイやトムヤムクンをよくつくる。だから、タイ料理のお店は割とよく行く方なのだけど、今回取材でお邪魔した「セップ..! イリー」は、今まで食べたお店の中でも、かなり好きな味だった。都営三田線 志村坂上駅から徒歩2分。以前、いたPayさんぽでも取材した居酒屋「坂の上の福」の2階に、このお店はある。入口が少しわかりづらいが、看板に従って少し錆びた鉄階段をのぼっていく。かんかんかん、という音が、なんだか懐かしい。看板に書かれた店名「SAB..Eli!」は、カタカナ読みをすると「セップ..イリー!」。タイ語でセップは“おいしい”、イリーは“とても”という意味なんだそう。つまり、日本語にすると「とってもおいしい......!」。ちなみに、タイでは「おいしい=アローイ」が一般的だが、「セップ」は店主のクムレ・ナパポーンさんの故郷であるタイの東北部・イサーン地方での言い方。料理を食べたときに思わず出てしまう言葉を店名にするセンスが、なんともキュートだ。(!マークまでが正式名称)お昼の時間帯は、お得なランチセットが人気。ガパオライスやパッタイ、グリーンカレーなど、おなじみの一品料理のハーフサイズに、トムヤムヌードルもしくはナームヌードル(醤油味の米麺)がセットになっていて、2種類の料理が楽しめる。まずは、とくに人気の「ガパオライス」と「トムヤムヌードル」をつくってもらった。白い器に赤いスープとパクチーの緑が映え、見た目にも美しい「トムヤムヌードル」。がつんと“すっぱ辛い”のが特徴のトムヤムスープは好みが分かれるけれど、ここのは思ったよりもマイルドで食べやすい。コクがあってまろやかで、つるつるとしたセンレック(中太の米麺)との相性もばっちり。暑いときも寒いときも、ついつい食べたくなっちゃう味だ。ぷりぷりのエビと豚肉がトッピングされていて、ボリュームがしっかりあるのも嬉しい。おいしい、おいしいと言いながら食べていると、「辛くない?」とクムレさん。「ちょうどいいです」と答えるとほっとした表情で笑う。辛さは、お客さんのリクエストに応じて抑えたり、逆に少し上げたりすることもできるのだそう。そして、こちらが「ガパオライス」。見た目はシンプルで一般的なガパオライスだけど、まず提供された瞬間に食欲をそそる香りがぶわっと広がる。甘辛く炒めたお肉と、バジルのフレッシュな香り。「うちでは、生のガパオ(ホーリーバジル)の葉っぱを炒めています。お店によっては、冷凍のものを使ったり、イタリアンバジルで代用したりしているところも多いんですが、それはタイの人からしたら“なんちゃってガパオ”(笑)。やっぱり生のフレッシュなガパオをその場で炒めると、香りが全然違うし、味を引き立ててくれるんですよね」だからこんなにいい香りなのか。香りに誘われて一口食べると、びびっときた。なんだろう、シンプルなのにすごく凝った味がする。これは、まさに“セップイリー”!今やガパオライスは、お惣菜屋さんやスーパーでもお弁当として売られているくらい、メジャーな料理だし、自分でつくることもあるけれど、やっぱりお店で食べる味は違う。しかも、個人的には今まで食べてきたなかでも上位に入るくらい、ここのガパオライスは好みだった。本格的なのに、ほっこり懐かしい感じ。これは、クムレさんが試行錯誤しながら築き上げてきた絶妙なバランスなのだ。「家庭料理でつくってきた自分の味を、日本に合わせるとしたらどんな感じがいいのかなと思って、日本人の友達に味見してもらったりとか。辛すぎたり、酸っぱすぎたりして、皆さんが食べられなかったらよくないし。私はタイ料理をただ辛いだけのイメージにしたくないので、みんながおいしく幸せに食べられる味を目指して、ちょっとずつチャレンジしています」2016年にオープンしたセップイリー。夫の竹之内宗昭さんがオーナー、クムレさんがお店の運営・調理全般を担当しているが、もともとクムレさんがお店をやる予定ではなかったのだそう。タイで大学を卒業し、2001年に留学生として日本にやってきたクムレさん。日本語学校に通いながら、タイ料理レストランでアルバイトをしていた。そこにお客さんとして来た竹之内さんと知り合い、卒業後の進路を相談したのがきっかけでお付き合いが始まった。「せっかく日本語を勉強したし、もうしばらく日本で働いてもいいかなと思ったんです」その後、ふたりは結婚。2人のお子さんが生まれ、お姉ちゃんが中学生、弟さんが小学生のときにこのセップイリーがオープンした。(ちなみに、それ以前からやっているムエタイのショップは今も営業中)「本当は、彼女のお兄さんと一緒にやる予定だったんですよ」と竹之内さんは話す。「お兄さんはもともとタイで料理人をしていて、日本でコックとしてタイ料理の文化を広めたいということで最初は始めたんだけど、いざやってみるとなかなか難しくて。お兄さんはタイに帰国することになり、代わりに彼女とふたりでやることになったんです」ランチメニューにあるような馴染み深いタイ料理はもちろん、クムレさんがつくるイサーン料理もこの店の自慢だ。タイ料理屋さんとひとくちにいっても、じつはバンコクの料理を出す店の方が多いのだとか。「イサーンは田舎だから、市場がすぐ近くにあるバンコクと違って食べるものがないんですよ。だから自分たちで鶏とか豚も育てるし、生野菜やハーブもつくって食べる。青パパイヤのサラダの『ソムタム』とか、ひき肉をハーブや炒った米で和えた肉サラダの『ラープ』は、代表的なイサーン料理ですね。昔はイサーン料理を出すお店があんまりなかったので、せっかく自分でやるなら故郷の料理を出したいなと思って」イサーン料理の一番の特徴は辛さ。唐辛子をはじめ、スパイスをたっぷり使ったメニューが多い。そして、お米はジャスミンライスではなく、もち米を食べるのだそう。窓際に置かれたこの筒状のものは「カティップ」と呼ばれ、日本でいうおひつ。ここに炊いたもち米をそのまま入れ、生野菜やおかず、ナムプリック(辛みのあるペースト状の調味料)と一緒に手で食べる。イサーンで暮らす人たちの生活必需品だ。店内にいるだけでも、ほんのりとイサーンの文化を感じられるのが楽しい。夜のメニューには、ほかのお店では見かけない料理もたくさんあるので、ぜひいろいろ試してみてほしい。クムレさんのおすすめは、やっぱり「ソムタム」。常備菜のようなもので、お子さんたちも大好きだという家庭の味だ。もちろん、夜のメニューも辛さのレベルはリクエスト可能なので、辛党もそうではない人もご安心を。「うちはね、普通だったら小さい赤唐辛子を1本叩いて入れるんですよ。でも、辛いのが好きな人は4~5本入れてくれって人もいて。私も昔だったら10本、20本当たり前だったけれど、日本に来てだいぶ経つからもうマックスで5本だけ。どんどん辛いのが無理になってるの(笑)」クチコミでじわじわと評判を呼び、今では老若男女、国籍問わずさまざまなお客さんが訪れる店になった。週に何度も食べに来る人もいる。「お客さんのいい顔、嬉しそうな顔を見るのが私、大好き」とクムレさんは、まるで小さな女の子みたいに無邪気に笑う。「おいしい、おいしいって食べきってくれるのが一番嬉しいです。ただ食べてすぐ帰らなきゃいけない雰囲気じゃなくて、ゆっくりおいしい料理を食べられる、あたたかいお店がいいじゃないですか。お客さんと家族みたいになれるのが好きなので」竹之内さんも、これまでのお客さんとのエピソードを、一つひとつ大事そうに話してくれた。最近は、よく来るフィリピン人の男性がお会計のときに声を掛けてくれたらしい。「『いろいろなアジア料理の店に行ったけれど、ここのガパオライスが一番おいしい』なんて言われちゃったら、そりゃ嬉しくなりますよ。頑張って続けようと思うよね」。ふたりとも、心から嬉しそうに話すのを見て、本当にチャーミングな夫婦だなと思った。話していると、なんだか元気が湧いてくる。しっかり本格派なのに、親しみやすい味。そして、ひとりでもみんなとでもほっと落ち着けるあたたかい空間。こんなお店が近所にある人がうらやましい。