「ボタン付け用の糸っていうのがあるの、知ってた?」そう聞かれて、しばらく悩む。ボタン付け用の糸……お裁縫セットに入っているあの糸とは違うのか?「木綿の糸は老けて(劣化して)、しばらくするとボタンが落っこちちゃうの。これだと、ワイシャツとかスーツのボタンも落っこちないんだよ。ボタン付けるのって面倒でしょ。ちゃんとした糸で付ければ二度手間にならないから」木綿の糸に比べ、専用の糸は適度なコシがあり、摩擦やひっぱりに強いのが特徴。強度と耐久性がアップするのだそう。ほかにも、店主の浅野さんはいろいろな糸を見せてくれた。着物を縫うためのつやのある絹の糸、ニット用の伸びる糸、ポリエステル製の糸や家庭科で使うおなじみの木綿糸……。糸は糸、じゃないんだ。いちいち驚いている私たちをよそに、晃弘さんは次々と店内の商品を紹介していく。「これも900箱あるの」と、指した先にはすごい数のボタン、ボタン、ボタン……!サイズの違うボタンが、色やデザインごとに小さな箱に納められている。すごい数だ。「うちはね、品物が多くて床下から天井まで、ぜんぶ商品。同じボタンや糸にも、それぞれ10色とかあるでしょ。お客さまによってご要望のものは違う。それをぜんぶ置いておかなきゃいけないから、いくら棚があっても足りないんですよ」「手芸店は品揃えが命だから」と、ちょっと困ったような表情で晃弘さんは笑う。1957年、上板橋の北口でオープンしたあさの手芸店。今も現役で働く晃弘さんの父・幸蔵さんが始めたお店だ。最初は手芸品よりも、生活雑貨や化粧品がメインだったらしい。「途中からこれ以上化粧品をやっていってもダメだからって、手芸品専門に変えちゃったの。それからしばらく卸を本業にして、周りのお店に商品を納めていたんです」昔は東京のみならず、神奈川や千葉など方々まで、自家用のワゴン車に商品を積んで卸しにいった。その数は、150〜200件近く。1日3回の食事のうち2回を車の中で済ませ、仕事を終えて帰ってくるのは、夜11時過ぎだった。そんな父の姿を見ていた晃弘さん。だからこそ、一度は商業デザインの仕事に就いたものの、時代の流れとともに取引先がどんどん廃業し、卸しの仕事を辞めることになったときは、自分がお店を継ごうと決めた。晃弘さんが入り、小売を主とする手芸店として再出発した。以来、裁縫にまつわる仕事をしている人、手芸を趣味にしている人、子どもの通園・通学グッズをつくる親御さんなど、幅広いお客さんが訪れる。そのぶんお店に並ぶ商品も、初心者をサポートするような裁縫グッズから、職人さん向けの道具や少し特殊な素材までさまざま。だから、おのずと数が増えてしまう。この店に置いているのは、品質がたしかな商品だけ。その中に、手頃なものから職人向けのちょっと高価なものまでグラデーションがあり、お客さんは予算と用途に応じて選んでいく。「いいものはそれなりに値段がする。しょうがないの。それにはちゃんと理由があるから」ゴムも糸もファスナーも、均一ショップで安く手に入れることはできる。でも、せっかくつくったのにすぐに伸びたり壊れたりしてしまっては、たしかにもったいない。一見同じに見えたとしても、ものが完成したあとにこそ、その違いがあらわれる。手間と時間をかけて、いいものを長く大切に使う。それは、きっと手芸を楽しむ人たちに共通する価値観。そういえばここ最近、手芸のアナログな魅力に惹かれてか、10~20代の若者のあいだでも編み物が流行っている。私の友人にも、自分で服やバッグ、小物をつくってSNSにあげている子が何人もいて、いいなあと思っていた。あさの手芸店では商品の説明はもちろん、お客さんからの要望があれば作り方まで教えてくれる。「最近は、教えながら売ることが多いね。『こういうのをつくりたい』と教えてもらえたら、それに合う材料もご提案できるし、作り方のアドバイスもします。うちは店頭に出ている商品がすべてじゃないし、気軽に聞いてもらえたらいくらでも教えますよ」なかには、裁縫が苦手だけど、何度も作り方を聞きにきてお子さんの入園グッズをつくりあげたお母さんもいたのだとか。入園式の日に、夫婦そろってお礼に来てくれたことを、とても嬉しそうに教えてくれた。また、あさの手芸店ではお直しやリフォームもやっている。これも晃弘さんがお店に入ってから始めたことだ。「もともと私は手先が器用だったんです。学校で図画工作は“5”以下とったことないくらい(笑)。母に教わったり、自己流で学んだりして、いろいろお直しができるようになったので、依頼を受けるようになりました」ちなみに、晃弘さんの母・君江さんは、文化服装学院の卒業生。昔から縫い物が得意で、御年91歳になる今も現役。店内には、君江さんが手掛けた作品もたくさん飾られている。「うちはね、みんな手がこんななの」見せてもらった君江さんの手は、親指の関節がぽこっと出ている。縫い物や編み物をするたびに手に力が入り、変形してしまうのだという。かっこいい職人の手だ、と思った。そんな家族のもとで育ち、手芸の知識や技術を身につけた晃弘さんは、これまでにお客さんからのさまざまなオーダーに応えてきた。晃弘さんの妻・靖子さんも、一緒にやっている。「ほら、これ見て」晃弘さんが見せてくれたのは、過去にお直しをしたニットの写真。ニットの穴が、なんにもなかったようにきれいに直っていた。こういうほつれ、恥ずかしながら直し方がいまいちわからない。調べてやってみたとしても、きれいに仕上げる自信がない。だから、お店で直してもらえたら正直かなりありがたい。ほかにも、過去にはこんなリクエストがあったらしい。昔から大事にしてきた犬のぬいぐるみのしっぽを直してほしい。学校創立70周年を迎えるから、校旗の刺繍をきれいに直してほしい。亡くなったお母さんがつくってくれた形見をまた使えるようにしてほしい。子どものお遊戯会の劇の衣装をつくってほしい。大きなものから小さなものまで。さまざまな人の思いがこもったものたちを、一つひとつ丁寧に直していく。晃弘さんは、最近建築現場で働くお客さんが持ってきたという、作業用のベストを見せてくれた。ちょうどお直しが終わったところらしい。「ベストのポケットに手帳を入れたいんだけど、深さが足りないと。だから入るサイズにポケットをつくりかえてほしいというオーダーだったんですよね。それに加えて、破けたところを直したり、要望でもうひとつポケットをつけたりしたの」それを聞いていた妻・靖子さん曰く、「いちから新しくつくる方がよっぽど易しい」のだそう。作り替えるとなると、一回ばらしてから、新しくつくったものを再び縫い付けていく。そのぶん手間もかかるし、お客さんの大切な持ち物だからこそ、なるべくもとの形を損なわないように神経もつかう。それは、小さな穴をふさぐだけのお直しも含め、すべてに言えること。「どれだけボロボロで古いものでも、その方にとっては大事なものなんですよね。それを直して、これからもずっと使っていきたいという気持ちでうちを頼ってくれたなら、なるべく応えたいじゃない」洋服もカバンも安く手に入る時代だし、新しいものに買い替えればいいじゃないか、と言われたらそうなのかもしれない。でも、ものに対する思い入れは人それぞれ。どうしたって替えのきかないものは、たしかにある。こういう気持ちを汲んだ上で、直してくれるのってなんてありがたいんだろう。これは、小さなまちのお店ならではのあたたかさだなと思う。取材が終わる頃には、すっかり“手芸欲”が高まっていた。カギ編みのちっちゃなバッグとかつくってみたいな。いや、でもやっぱり壊滅的に不器用だしな……と逡巡していると、靖子さんは言った。「最初はね、みんな上手じゃないのよ。でも、つくっていくたびにどんどん上手になるから大丈夫。手をかけて自分でつくったものに愛情が湧く感覚を、もっと体験してほしいなって思うんです」「もしかしたら一生の趣味になるかもしれないしね」という言葉を聞いて、俄然ワクワクしてきた。やってみたいと思う気持ちに正直になってみて、結果ハマったら儲けもの。そのくらいの気持ちで始めてみればいいのだ。あさの手芸店はきっと、その一歩をやさしく親切にサポートしてくれる。