旧中山道仲宿の交差点。きっと、板橋で暮らす人の多くは知っているであろう「鳥新」は、まさに“板橋らしさ”を象徴するかのような、親しみやすくてほっとする鶏肉専門店だ。向かい側で信号待ちをするたびに、ふらりとお店に吸い込まれていく人を何人も見かけてきた。信号を渡ると、納得する。この香ばしくて甘いやきとりの匂いに鼻をくすぐられ、わんぱくに盛られた唐揚げや、つやつやの照り焼きを目にしてしまったら、まあ勝てないよな、と。かくいう私も、別の取材で通りかかった際、たまらずにやきとりを5本ほどテイクアウトしてしまったことがある。(まだその後に取材が残っていたのに……!)可愛らしいカップに入れてもらって、晩ご飯に食べたやきとりは、レンジで温めただけなのにジューシーでとってもおいしかった。近所や帰り道に鳥新があったら、毎日1本ごほうびに買って帰ってしまうだろうなと思う。このお店の歴史は長い。もしかしたら、「いたPayさんぽ」でお邪魔したお店の中でも、トップクラスで長いかもしれない。なんたって、創業は“明治”28年。初代・磯田新助さんが、名前の“新”の字をとって、「諸鳥鶏卵問屋鳥新商店」として創業した。1950年(昭和25年)に、もともと本社のあったこの場所に小売部をつくり、鶏肉や卵の販売をするように。しばらくしたのち、新鮮な鶏肉を使った手づくりのお惣菜の提供も始まった。店頭にはさまざまな部位の鶏肉と、鶏を使ったお惣菜がショーケースいっぱいに並ぶ。もも焼き、照り焼き、唐揚げ……。定番商品をはじめ、手羽餃子や鶏のハンバーグなどちょっと珍しい商品も。並べたそばから、飛ぶように売れていく。人気のお惣菜は、夕方にはほとんど売り切れてしまう。この小売部を取り仕切っているのが、店長の徳弘秀樹さんだ。15年ほど前に鳥新に入社し、当時課題だらけだった小売部を立て直した人物である。そんな秀樹さんの経歴は、なかなか変わっている。東京の品川で生まれ、高校のときに進路を迫られて就職したのは、某大手の自動車会社だった。「就職指導の先生にとにかく面接に行けと言われて、目をつむったままぱっと手にとった資料がその会社だったんです。そこに合格できて、静岡に行くことになりました」若い担任の先生が乗っていたハーレーに憧れ、17歳のときにオートバイの免許を取得していた秀樹さん。会社でもオートバイの部門を希望していたが叶わず、5年ほど自動車部門で働いたものの、田舎に馴染めずに辞めることに。そして、日本橋のやきとり屋さんに転職したのだという。……なぜ、やきとり?自動車会社に勤めていた当時、秀樹さんは憧れのオートバイを購入していた。そのときお世話になったオートバイ屋さんが、日本橋のやきとり屋さんを紹介してくれたのだ。「鶏肉はあんまり好きじゃなかったんだけど、可愛がってくれた方の紹介もあって働くことにしたんです。だから、正直どこまで自分で決めた道かというと、よくわからない(笑)。それが運命っつったら、簡単なんだけど」秀樹さんが勤めることになったやきとり屋は、企業のお偉いさんが来るような、路地裏にある隠れ家的な高級店。社長はやきとり屋を経営しながらも、山岳画界隈の有名人で、世界中の山を旅する芸術家だった。もともと、やきとり屋で働くことに強い思い入れがあるわけではなかった秀樹さんは、入社当初は遅刻三昧。根気強く付き合ってくれた社長には、「今思うと本当に頭が上がらない」という。それでも15年働き続けたのは、少し意外な理由だった。「小さい頃は運転手になるのが夢だったくらい、鉄道が好きだったんですが、じつは社長も鉄道が好きで。2週間の休みをもらえたときに、社長に背中を押されてヨーロッパの列車に乗りにいったらドはまりしちゃって(笑)。しかも、その店に来るお客さんはみんな、海外を渡り歩いている人ばかりだったから、話すのがとにかく楽しい。本当にそれだけで15年働いたというのが、正直なところなんです」鶏肉や調理すること自体が好きだったわけではなく、ただただ店に来るお客さんとの会話が楽しかった。それだけの理由で、秀樹さんはやきとり屋で働き続けた。しかし、諸事情でやむなくお店は閉店することに。当時、38歳。せっかくだからと海外と日本を行き来しながら、旅行に関する仕事を探そうとしていた秀樹さんだが、やきとり店で長く働いた経歴からハローワークで強く勧められたのが、鳥新だった。「当時常務だった今の社長と面接をしたら、鶏業界の現状についての話がほとんどで(笑)。『どうしていったらいいと思いますか?』という相談がメインだったんですよ。できれば今すぐうちに来てほしいと言われたんだけど、もうしばらく海外での滞在も続けたかったから断って。でも、根気強く誘ってもらったので入社することにしたんです」いざ入ってみると、さまざまな問題が見えてきた。「やっぱり創業が古い会社だからか、他社に比べてアップデートされていない部分が多くて。卸売の配送部門に行ってみたら、鶏の専門商社と名乗っているのに、働く人たちに鶏に関する知識が全然なかったんです。営業にしても、鶏も捌けないのに、自信を持って売り込むこともできないじゃないですか。それを、今の社長はなんとかしたかったみたい」生まれた鶏を出荷するまでの工程には、長年のノウハウを持つ鳥新。しかし、そのあとの捌いて調理する部分に関しては弱く、やきとり屋で長く働いた秀樹さんの知識と経験が求められていたのだ。そうして、社長から「小売部でお店をやってほしい」と打診された秀樹さん。その頃、店舗の売上や評判はあまり芳しくなく、さまざま手を打ったものの改善には至らず。新しいスタッフが入っても、古くから勤めるスタッフとの関係が上手くいかずに、辞めてしまう。そんな状況で、どうしてもと頼み込まれ、秀樹さんは時限付きで引き受けたのだという。「最初は大変でしたよ。“時限付きで”という約束で受けたものの、気づいたらもう15年くらいやってるけど(笑)」その間、秀樹さんは組織の立て直しをおこない、さらに商品ラインアップのうち、売れ筋だけは残し、残り半分は新しいものに変えた。一番下の段は、もも焼き、照り焼き、唐揚げなど50年変わらない売れ筋商品をメインに置いている。唐揚げの味付けは企業秘密だが、先代から受け継いだレシピに少し変化を加えているという。「50年以上働いていた先代の店長が、味見で毎回唐揚げを食べるんですよ。それである日、新しいレシピでつくったものを置いておいたら、1個食べて、また戻ってきて1個食べて。『ん?』って。『今日はおいしいね』って言って戻っていったのを見て、これはいけるぞと。そこから、新しい味付けで提供するようになりました」丸鶏を真っ二つに割ってじっくりと焼いた「鳥新の半身焼き」は、「板橋のいっぴん」にも選ばれた商品。もともと半身“揚げ”だったものを、もっとさっぱり、やわらかく食べられないかと、若いスタッフと試行錯誤をしてできたメニューだ。低温調理で身を柔らかくする方法を編み出し、「板橋のいっぴん」の審査員だったフレンチのシェフから「技術的にすごい」と太鼓判をもらったのだそう。そしてショーケースの上段には、秀樹さんやスタッフの皆さんが考えた新しいメニューが並んでいる。味付け卵、鶏レバー煮、チーズささみカツ、鶏のチンジャオロース、鶏の麻婆豆腐。和洋中問わず、鶏を使ったありとあらゆるお惣菜があってワクワクする。この日は置いていなかったが、不定期で登場するチキンカレーも鳥新の新しい名物。「10年くらい前だったかな。まだ社食があったとき、おばさんがつくるカレーがすっごいおいしかったの。それを見様見真似で、捨てられている骨とかスジを煮込んでつくってみたら結構おいしくて。そこから使う部位を変えたり、ダッチオーブンを使ったりして、今のカレーが完成しました」カップにルーが入った状態で販売され、すぐに売り切れてしまうのだとか。高い頻度で新メニューを考案し、提供しつづけているのには、秀樹さんのこんな思いがある。「いくらおいしくていいもんつくっても、お客さんが来てくれなきゃ何にもならないでしょ。だから、とにかく毎日見に来てくれるような、面白い商品を出そうと思って。『今日はあるかな?』って。もしなくても、『明日は買えるかもしれない』という期待を持ってもらえるようにしたくて」秀樹さんの仕事におけるモットーもまた、“楽しくて面白い”こと。「スタッフにいつも言うんですけど、失敗は誰にでもあるし、俺にだってある。それはしょうがないのは前提で、面白かったらある程度許してやるよ、と(笑)。俺たちが戦々恐々として、楽しくやってなかったら、お客さんだって嫌でしょ。反対に面白がってやってたら、きっとお客さんも『何だろう?』と寄ってくれるだろうし。さいわい、今のスタッフたちはお客さんに可愛がってもらっているので、まあまあ上手くいってるんじゃないかな」日本有数の歴史ある専門卸会社でありながら、庶民的で親しみやすいまちの鶏肉屋さんとして愛されているのは、店長である秀樹さんの人柄が生み出す雰囲気もきっとある。ちなみに、今年はスタッフみんなで、技術が進む台湾に鶏の勉強をしに行く予定らしい。それによってまた、ワクワクするような新しいメニューが鳥新に並ぶかもしれない。それもまた、楽しみである。行ったとき、気になる商品が買えるかどうかは、運次第。そのドキドキも楽しみながら、「今日は何があるかな?」と鳥新を覗いてみてほしい。