矢崎書店に伺った日は、潮出出版社の久保田さんが2週間の書店研修に来ている期間だった。出版社によっては、書籍の流通の仕組みを理解するため、入社後に短期間書店で研修を受けることがある。「ここには、聖地巡礼のような気持ちで通っているんです」そう言って久保田さんは一冊の本を見せてくれた。宮本輝『灯台からの響き』(集英社文庫)。この小説の舞台となっているのが、矢崎商店もある中宿商店街なのだ。主人公である康平は、2年前に妻が急逝して以来、休業し続けている中華そば屋「まきの」の店主。作中で「日本一賑わっている商店街」と称される中宿商店街。そんな商店街のなかで傷を癒すようにひっそりと息を潜め続ける店と、康平の心は、とある出来事をきっかけに動きはじめる━━。「矢崎書店さんに研修に行くなら、『灯台からの響き』を読んでみると一層楽しめると思いますよ」出版社の上司にそう勧められた久保田さんは、さっそく購入して読みはじめた。間もなく、手に汗握る展開や、生き生きとした登場人物の魅力にすっかり引き込まれてしまった。書店研修のために中宿商店街に通う今、主人公・康平の営む中華そば屋や、同級生のお惣菜屋、友人と一緒に飲みに行く居酒屋などが匂いや手触りを伴って立ち上がってくる感覚を抱いている。まさに聖地巡礼のように、ここに通っている。確かに、矢崎書店までの道のりを歩いている途中、商店街は活気に満ち溢れていた。けれど、行き交っていたのは、呼び込みの掛け声とも、お客さんの注文の声とも区別がつかない、たくさんの「挨拶」たちだったように思う。「おはよう」「こんにちは」「〇〇ちゃんじゃない!」「久しぶり! 調子はどう?」「また今度ね!」「『活気』の種類が、他の街とはぜんぜん違う気がするんです。たくさんのお店が軒を連ねていているんですが、商売っ気があるようでないんですよね。人と人との関係の温かさを感じます」昔ながらの風情あるやり取りのなか、小さい子どもの元気な声も聞こえてくる。この往来のなかでは、心が落ち込んで孤独を感じる暇もなさそうだ。そんな賑やかな商店街のなかに、矢崎書店はある。店内に戻ってみると、店主の矢崎謙三さんがちょうどお客さんと雑談を終えるところだった。「ありがとうございます。またお待ちしています!」気持ちのいい挨拶が街のいたるところに響いていた。矢崎書店は、都営地下鉄三田線の板橋区役所前駅から徒歩約6分の位置にある昭和20年創業の書店。矢崎さんが昨年2024年の6月にご両親から引き継いだのだという。「だから僕、まだ書店員としては一年生なんですよね」矢崎さんは、長年、出版社の営業職に勤めていた。激務には慣れていたが、書店を継いだ直後の休みのない日々には体調を崩し、倒れてしまったこともあったそうだ。一年と少し経った現在は、生活にもだいぶ慣れた。もともと本を読むのが好きだという矢崎さん。読書が楽しいと感じた原体験は、小学生の時に読んだ『ドリトル先生』シリーズ。忙しいなかでも、短くても読書の時間をつくるようにしている。読書チャンスは、唐突な集中豪雨の最中。商店街から人がいなくなり、雨音と反して店内は静かになる。そんなちょっとした時間に、本を読み進めるのが好きだ。雨宿りのために入ってきたお客さんが、じっくり棚を眺めた後に本をレジに持ってきてくれて、空に晴れ間がのぞくと共に帰っていくのもうれしい。最近おもしろかった本を聞いてみると、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(アンディ ・ウィアー著/早川書房)と返ってきた。「めちゃくちゃおもしろい。読んでないともったいないくらい!」取材に伺ったのは夏の最中だったので、お店の入口近くのコーナーにはホラー関連の本やマンガのコーナーが。季節ごとに入れ替えを行い、お客さんが飽きない売り場づくりを意識している。矢崎さんが店主になって初めて行った大改革は、今まで出版社順に並んでいた文芸書を、著者順に並べ替えたこと。お客さんがなかなか目当ての本を探せないでいたのを見ていた矢崎さんは、閉店後、すぐに棚のすべてを著者のあいうえお順に並べ替えはじめた。「やばい、これはかなりの時間がかかるぞ」と気づいたのは作業をはじめて間もなくのこと。だけど途中でやめるわけにもいかず、結局、徹夜で並べ替えた。常連のお客さんがよく買っていくクロスワードパズルなどの雑誌は、選びやすいように面出し陳列に変えた。そんな地道な工夫を、今も絶えず繰り返している。取材の途中、一時、小学生のお客さんでレジが行列になった。みんな、常連さんの風情で、学習まんがのコーナーにさっと駆けより目当てのものを買っていった。「子どものお客さんも多いんですよ。このあたりは、うちみたいな、いわゆる『まちの本屋さん』がほぼないんです。高校生以上になると池袋などの大型書店に行って買えるんですけど、なかなかそれができない低年齢層やファミリー層、高齢のお客さんがうちを利用してくれているんですよね」これまでお話を聞いていて頭に浮かんだ質問を、勇気を出して口に出してみる。今は、書店を利用しなくても、インターネットで簡単に本が買える時代。数々の書店が暖簾を下ろすなかで、矢崎さんはなぜ書店を続けるのだろうか。「出版社に長年勤めてましたから、書店という形態が決して楽じゃないことは理解しています。でも、さっきもお話したうちのお客さんたちって、近くに本屋さんがなくなったら『本を買う選択肢自体がなくなってしまう』かもしれないんです。インターネットで本を買う習慣がない人も多いと思いますし、あとは、本を買う以外の目的で来店されている方もいると思うんですよ。人と会話を楽しむとかね」常連のお客さんのなかには、毎日のように訪れ、本の乱れを丁寧に直し、レジで矢崎さんとの会話を楽しんで帰っていく方もいる。時には道を聞くためだけにお店に入ってくる人もいる。だけどそれでいいのだと矢崎さんは言う。「下町の書店ですからね。それに、やっぱり自分も、お客さんとの他愛もないお喋りがなにより楽しいんです」そう言って笑う矢崎さんの振る舞いが、「風通しのよいまちの本屋さん」をつくっているんだなと感じた。書店が身近にあると、日々はきっと豊かになる。なんとなくそんな風に感じていたけれど、老若男女が出入りする矢崎書店を見てその思いは強くなった。どんな方法で買っても本の内容は変わらないけれど、「本に出会って、実際に手に取る」という体験は、書店でしかできない。あたりまえのことだけれど。