「だいすきな だいすきな おいしいぶどうのパンたべよう」幼いころ通っていたピアノ教室で、初めて習った曲。この曲を口ずさむと、なぜだか私はふわふわのロールパンよりも、“外国の、ちょっと硬めのぶどうぱん”が食べたくなる。そんなことを思い出しながら到着した、成増の「パン工房 Time Line」。外観を一目みて、「あの頃思い描いていたお店だ!」と思った。真っ白な外壁に大きな窓。シンプルな看板には、灯火のような2本の小麦があしらわれている。お店に入ると、香ばしいパンの匂いとともに、大きなショーケースにずらりと並んだ、大小さまざまなパンたちが目に飛び込んできた。お店に並ぶパンのラインナップは、夏は60種類、冬は80種類にも及ぶという。バゲットやブールなど、ハードめのパンを中心に、サンドウィッチやピザパンのようなお惣菜系から、デニッシュ、ベーグルといったスイーツ系まで幅広い。思わず目を奪われているそばから、「”本日のタルティーヌ”焼きあがりました~!」と威勢のいい声が。スタッフの墓越さんによって、次々に焼きたてのパンが並べられていく。2009年創業の「パン工房 Time Line」。16年目を迎えた現在は、店主・篠崎恵美子さんと4人のベテランスタッフで運営している。スタッフの中には、元々ここのパンが大好きで、子育てが落ち着いたタイミングで働き始めたという方もいるそうだ。「生地を作るのは私なんだけど、商品のアイデアはみんなが出してくれています。じつはそれぞれ、このお店以外にも軸があるんですよ。育児、ミニチュアドールの制作、ピアニスト、NPO法人の事務局長とか。みんな自分の人生を歩みながら、得意なことをお店でも活かしてくれています」ハキハキと語る篠崎さん。じつは彼女自身も、パンの道に進む前は、会社員としてバリバリ働いていたそう。「40歳まで、証券会社や外資系の企業に居ました。でも、いつかはものづくりがしたい、職人になりたいという気持ちがあって。思い切って会社を辞め、調理学校に通ったあと、下赤塚のパン屋で2年半ほど修行しました」40歳での大胆なキャリアチェンジ。周囲の反対を押し切ってまでパン職人を選んだのは、なぜだったのだろう。「作るものは何でもよかったんです。でも、現実的に食べていけるか考えたときに、陶芸やレストランなんかも考えたけど、パンなら“作った分を売ればいい”って思えて。20年も証券会社にいたから、つい逆算で考えちゃうんですよね(笑)。それでパンに決めました」やってみてダメだったら、また金融業界に戻ればいい。そんな気持ちで始めたパン作りだったが、実際に手を動かすと想像以上に楽しかったという。「パンって、自分で作るとめちゃくちゃ面白いんですよ。特にハード系はアレンジの幅が広くて、酵母と小麦粉の組み合わせで食感がまったく変わるの。一人だからこそ、色んな発想ができるんです。やってみたら意外とうまくいったから、『もう自分のお店を作っちゃおう!』ってことで、修行を途中で切り上げて独立しました」TimeLineのいちばんのこだわりは、自家製の天然酵母。一般的に天然酵母は果物やレーズンを原料に、1週間ほどかけて仕込むことが多いが、ここでは小麦粉をベースにした酵母を3か月以上かけてじっくり熟成させている。この天然酵母がパンを膨らませる元種となり、消化によく、香り豊かなパンが焼きあがるのだ。看板商品の「ブール」も、この天然酵母を使ったパンのひとつ。2日かけて丁寧に仕込む丸いパンで、皮目はパリッと香ばしく、中はしっとりもっちり。生地そのものの風味をしっかり感じることができる。「前に、あるお客さんが、『何を食べても美味しく感じられなくなっていたときに、ここのパンを食べたら考えが変わった』と言ってくれたんです。うちのパンは基本的にとてもシンプルだから、自然のままのワイルドな味がするというのかな、生きる活力が湧いてくるような、そんなパンを目指しています」ワイルドな味......?半信半疑でブールをかじってみると、バリッ!っと気持ちの良い音とともに、香ばしい小麦の香りがふわりと鼻に抜けた。美味しい。噛むほどに甘みが広がり、バターやジャムもいらない。気づけば一切れ、あっという間に消えていた。たしかに、シンプルなのに力強い。ただただ感動していると、篠崎さんがその秘訣を教えてくれた。「パン作りの決め手は、小麦粉なんです。うちでは12種類ほどの小麦粉を使っていて、配合を変えるだけで風味がまったく違うパンになるんですよ。国産のものやカナダ産のもの、たんぱく質量の違いなどを見ながら、実験のようにベストな組み合わせを探していくんです。面白いでしょ」16年前、篠崎さんがゼロから立ち上げた「Time Line」。今では、成増のまちで暮らす人々の暮らしを支える、日常の原動力のような存在になっている。ふと気になって、「どうしてTime Lineと名付けたんですか?」と尋ねてみた。「いろいろ悩んでいたときに、車の中で“タイムライン”っていうアルバムを聴いていたんです。隣にいた母に『この曲、タイムラインっていうんだよ』と言ったら、いつもなら聞き返す人なのに、そのときは『タイムラインね』ってすっと返してきて。その瞬間、“ああ、響きが自然に入ってくる、いい言葉だな”と思って。それで決めました。後付けだけど、“時間が続いていくように”“日常に溶け込むように”って意味も込めています(笑)」Time Line、タイムライン、たいむらいん。たしかに、柔らかくて優しい響きだ。とはいえ、篠崎さん自身の”タイムライン”はなかなかハードである。朝は毎日2時に起き、赤塚の自宅から自転車でお店へ。前日に仕込んだ15種類の生地を、60〜80種類のパンへと成形していく。食パンはその日の朝に生地から仕込み、発酵・焼き上げまでを一気に行う。平日は基本的に篠崎さんとスタッフの2人体制。午前中はひたすらパンを焼き、午後は翌日の仕込み。夕方、パンがすべて売り切れたら、その日の営業は終了だ。体力勝負の毎日に目が回りそうになるが、篠崎さんは「楽しいですよ、全然苦じゃないんです」と明るく笑う。「やっぱり、この道を選んで良かったなって思います。会社員の頃は、すっぴんで出勤するなんて一切なかったけど、今はもう当たり前にすっぴんですし。でもね、全然いいの。生きてる実感があるんだから」20代のころは想像もしていなかった未来。この店には、パンを買うだけでなく、篠崎さんに人生相談をしに訪れる若いお客さんも多いのだとか。「自分の道を決めるのは、遅くてもいい。色んな世界を見た方が、絶対に良いからね」そう、篠崎さんは語る。改めて、このお店のポリシーを訊いてみた。「ま、嘘が無いことかな。スタッフ同士もそうですけど、商品も、私自身も、シンプルであること。そういう向き合い方で、仕事をしていきたいですよね」篠崎さん自身、このお店を誰かに継ぐことは考えていないそう。自分一人の一代で「閉めるときは閉める!」と宣言している。さっぱりした表情で、「それが一人の良さだからね」と、あくまで自分の好奇心を第一にする姿勢が、きっとスタッフの皆さんにも愛される理由なんだと思う。最近、ヨガにはまっているという篠崎さん。仕込みの合間をぬってお店を抜け出して、リフレッシュにも全力だ。訊けば、ある”野望”があるらしい。「80歳でテレビに出たいんです。修行先が全国区でもかなり有名な店だったので、師匠が度々取材を受けたりしていて。あんな風に、パワフルでいたい。スーパーおばあちゃんになりたいなって、それが今の目標ですね」店を出ると、一日中降っていた雨が上がり、綺麗な夕焼けが広がっていた。駅に向かう坂道を、ちょっとだけ駆け上がる。