東武東上線 成増駅の線路の向こうに、どどんと大きく書かれた「九州酒場」の文字。かつて老夫婦が営むテイクアウト専門の海鮮丼屋さんだった場所が店を閉め、九州料理を出すおしゃれな居酒屋さんになったのは2024年春のこと。「本当は“さんてん”なので、3月10日に始めたかったんですが、間に合わなくて(笑)。3月31日にオープンしました」店主の“まーくん”こと、船戸政之さんは長崎県・島原生まれの九州男児。東京に出てきてもう20年以上になるらしいが、その言葉には九州のなまりがまだ色濃く残っている。どことなく海の風を感じさせるワイルドな風貌とは裏腹に、のんびりと物腰柔らかな人だ。日本各地にはおいしいものがたくさんあるけれど、そのなかでもとりわけグルメのイメージが強いのが九州。「九州料理といえば?」と問われれば、もつ鍋や博多ラーメン、馬刺し、ちゃんぽん、胡麻サバなど、いくらでも出てくる。そういえば、私の友人は九州で思う存分食い倒れ旅行をするために8kgダイエットして、5kg戻って帰ってきたと言っていた。もちろん現地の風を感じながらたらふく食べる楽しみもあるが、実際に行かずとも、船戸さんが厳選した食材でつくるおいしい九州料理を食べることができるのが、ここ「さんてん」である。国内生産量第1位の熊本から仕入れているという新鮮な「馬刺し」は、つやつやと輝いている。「うちの馬刺しは本当においしいので、ほかのお店ではあまり食べないですね」子どもの頃から、朝ごはんに馬刺しを食べていたという船戸さんお墨付きの味。実際に食べてみると、弾力がありつつも柔らかく、ほんのり甘みがある。そして、臭みがまったくない。添えられているたれは、少し甘めの九州醤油。これも、船戸さんの地元から仕入れている。店内で販売するミニサイズの醤油ボトルは、一瞬で売れてしまうのだそう。こんもりとキャベツとニラ、にんにくが盛られた「もつ鍋」は、テッパンの一品。2人前から注文できるので、複数人で行ったときは絶対に頼みたい。中には新鮮なもつがたっぷり。こくのある醤油ベースのスープ、にんにくの効いた味噌ベースのスープ、出汁のあっさり系塩スープの3つから選べる。シメのちゃんぽん麺もしくは、雑炊セットもはずせない。そして、ラーメン専門店顔負けの本格的な「とんこつラーメン」。ちゅるちゅるの細麺に、濃厚なのにさっぱりとしたスープ。もたれるような重さがないので、お酒を飲んだあとの締めにもうれしい。お好みで紅しょうがや辛子高菜を入れるのもおすすめなんだとか。「このラーメンだけ食べに来る方もいると思って、お通しはやってないんですよ」と船戸さん。ありがたい。実際、お酒を飲まずにラーメンだけ食べて帰るお客さんも多いらしい。じつは、この麺は船戸さんのご実家の製麺所でつくっている。そして、スープや自家製チャーシューなど、ラーメンづくりのベースはおじさんのもとで学んだ。ここに、船戸さんがさんてんを始めるまでのルーツがある。長崎で生まれ、高校卒業後に18歳で上京した船戸さん。そこで就職したのが、おじさんが経営するラーメン屋さんだった。おじさんは、関東でとんこつラーメンや九州料理屋、メロンパン屋さんなど、飲食店をいくつも展開する敏腕経営者。「本当は大学に行きたかったんですけど、先生に『遊んで暮らすくらいなら、おじさんのところで働け』って言われて(笑)。ただ、料理も何もしたことがなかったし、飲食の道に進みたいと思ってそうしたわけではなかったんです」神奈川のラーメン屋さんで10年働いた船戸さん。さんてんの本格的なとんこつラーメンの基礎は、ここで学んだ。「火傷をしてしまったら、その日は仕事を終わりにしていいのかなと思っていた」というほど、もともと調理とは無縁だった船戸さんだが、がむしゃらに働くなかで、「いつか自分の店を持ちたい」という思いが、少しずつ芽生えることになる。その後、表参道の居酒屋さん2店舗で10年ほど働き、独立することを決めた。「独立のタイミングはどうやって決めたんですか?」と聞くと、「奥さんから、『そろそろやったら?』って言われて」と船戸さん。その一言がなかったら、もしかしたらさんてんは生まれていなかったのかもしれないと笑う。船戸さんの妻である女将さんは、さんてんを裏で支える“会長”なんだそうだ。住んでいるエリアの近くで探し、たまたま見つけた成増のこの物件。店内は2階建てで、上には座敷の席もつくった。店名は、幼少期に母と一緒に島原の夜を散歩をしていたという、船戸さんの思い出から。広い夜空に埋もれている星座・オリオン座を探すときの真ん中の3つの星のように、成増の“目印”や“シンボル”のような存在になりたい。「あらためて自分で説明するのは恥ずかしい」と笑う船戸さんだが、「さんてん」にはそんなまっすぐでピュアな思いが込められている。お店のモットーは、シンプルに「おいしいものを出す」こと。素材選びにこだわり、現地・九州から仕入れつつ、前職からお付き合いのある信頼できる取引先から仕入れることも。そして、お酒のラインアップも豊富。九州の焼酎はもちろんのこと、ラベルもおしゃれなクラフト系のお酒も並ぶ。「買うのが趣味みたいなもの」という船戸さんは、休みの日に都内の酒屋さんにリサーチに行って、買い付けることも多いという。「線路の向こうに新しいお店ができた」と聞きつけて、オープン後は自然とお客さんが来てくれるようになった。船戸さん曰く、「成増の人はとりあえず新しいお店ができたら行くみたい」。“九州酒場”と大きな看板をつけたことが功を奏して、電車の中から見て気になっていたという人が来てくれることもあるという。「オープンするまでの方がいろいろ決めなければならないことが多くて大変でした。いざ始まってしまえば、意外と大丈夫(笑)。もうこの日々がすっかり日常になりましたね」「『あなたはイージーモードだよ』って奥さんに言われるんです」とニコニコ笑う船戸さん。船戸さんのこのゆる〜い感じもまた、きっとお店が愛される理由のひとつ。「そうだ、これ1周年記念でつくったんですよ」と船戸さんはおもむろに着ていたTシャツを指さした。全然気づかなかったが、よく見ると「SANTEN 310」と書いてある!しかも、脳みその部分は……もつ鍋? そして、下にいるのはもしや、“会長”である女将さん……?「僕の頭の中を、うちの奥さんが操っている、というイラストです(笑)。ピンクの部分は、東上線。お客さんがデザインしてくれました」古着屋さんで売っていそうな、おしゃれTシャツ。グッズ展開してもいいくらい、シンプルに可愛い。ここから周年を重ねていくたびに、もしかしたらまた新しいデザインのTシャツが増えていくかもしれない。オープンしてからの日々を振り返って、船戸さんはこう語る。「お店をはじめてから、まちに知り合いが増えたことが嬉しいですね。ここがなかったら、出会わなかった人がたくさんいると思う。仕事が終わってからお客さんと一緒に飲みに行くこともありますよ。雇われていたときも居心地は良かったけれど、自分でやるのはまた違う楽しさがありますね」最後に、これからどんなお店に育てていきたいか、尋ねてみた。「ここは、成増の北口のスタートラインだから。こっちにも人を呼べるお店になりたいですね」のんびりと穏やかな船戸さんの中にある強い気持ちが、ほんの少し垣間見えた気がした。一日の終わりに、線路の向こう側に明るい賑わいと、おいしい料理があると想像しただけで、なんだかほっとする。「ラーメン1杯だけでも、気軽に寄ってください」と言ってくれる懐の深いさんてんに、何も考えずにまたふらりと訪れたい。