どこもかしこもラーメン屋。大きなまちを歩けば、すぐにラーメン屋さんにあたる。じつは板橋も、区内におけるすべての飲食店の中でラーメン屋さんの率がそこそこ高く、“隠れラーメン激戦区”と呼ばれることもあるらしい。「ラーメン=男性たちが黙々と食べて帰っていく食べ物」みたいなイメージが定着してしまったのは、なぜなのだろう。もちろん、女性の一人客も珍しくはない。でも、やはり圧倒的に20〜40代くらいの男性客が多いから、食べ慣れていないと店に入るのに、どうしても躊躇してしまったりする。がっつり&こってり系はとくに。昔の記憶を辿ってみれば、地元のラーメン屋の客層はじつに幅広かった。どちらかというと一人客よりも、ファミリーがメイン。子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、各々が好きなラーメンをすすっていた。そういうラーメン専門店というのは、東京ではあまり多くないような気がする。(町中華でもなく、チェーン店でもないとなると、よけいに)今回お邪魔した「麺屋 はちどり」は、そんな老若男女をまるごと受け入れる、やさしくて懐の深いラーメン専門店だ。板橋区役所前駅から徒歩5分ほど。板橋宿不動通り商店街に、お店はある。2015年4月に、市川博之さんと妻・薫さんが夫婦ふたりでオープンした。化学調味料を一切使わない、からだにやさしいラーメンがはちどりの特徴。素材本来の味を十分に引き出し、子どもからお年寄りまで毎日安心して食べられるものを目指して、一杯一杯丁寧につくられている。煮干しの旨味たっぷりの「にぼしラーメン(醤油/塩)」と、丸鶏を使ったコクのある「丸鶏ラーメン(醤油/ハーフ)」の2つが看板メニュー。この日は、定番の「にぼしラーメン(醤油)」をつくってもらった。複数の煮干しをブレンドし、昆布や鰹、醤油ダレなどを合わせたスープは、水出しの煮干し、そして直前に追い煮干しをして香りづけ。さらに、仕上げの香油にも煮干しを使うことで、濃厚な旨味をあじわえる。お子さんやお年寄りでもつるっと食べられるようにと、麺は三河屋製麺のしなやかな細麺を。気づいたら、まな板の上にはどーんと存在感のある立派なチャーシューが。思わず歓声をあげると、「チャーシュー!って感じですよね」と市川さんは笑う。まさに、ザ・チャーシュー。こちらももちろん、自家製である。豚バラを醤油で煮込んだあとに冷まし、味をじっくり染み込ませる。二膳の菜箸を器用に使って、麺をきれいに折り畳み……運ばれてきたのは、とても上品なビジュアルのラーメン。とにかく美しい。透き通った端麗なスープにうっとり。でも一口飲むと、煮干しの香りがぶわわっと広がる。すごい、めっちゃ煮干しだ。でも、すっきりと爽やかで飽きが来ない。お手製チャーシューも、肉々しくて最高。噛みしめるたびに旨味がやってくる。ガツンとこってりラーメンもたまのご褒美にはいいけれど、結局こういうのがいいよね、としみじみ思う。店主の市川さんはもともと、住宅設備関係の会社に勤めるサラリーマンだった。20代後半に差し掛かった頃、将来について悩み、仕事を辞めて自分の好きなことをやってみたいという思いからラーメン屋の世界に飛び込んだ。「同期や先輩たちの中にも、違う仕事を始めたり、起業をしたりする人が結構いたので、自分でもやってみたいな、と。好きなことと言えば食べること、その中でもラーメンは好きだったので、入口として入りやすいかなと思ったんです」そこで市川さんは、ラーメン激戦区のひとつである高田馬場の有名店「麺屋 宗」に、文字通り“飛び込み”で社員として雇ってもらえないかと直談判した。募集していないタイミングかつ未経験だったものの、二度目の訪問で採用が決まった。ここで4年間腕を磨いた市川さん。その後、ともに働いていた先輩が静岡で独立することになり、そのお店「ラーメンABE’s」で一緒に修行をさせてもらうことに。「先輩が化学調味料を使わないラーメン屋をつくると聞いて、興味があったんです。何が正解というのはないのですが、つくり方が違うので勉強してみたいなと思い、1年ほど住み込みで働かせてもらいました。その頃には僕自身も独立することを見据えていたので、並行して東京で物件探しもしていましたね」以前は、大家さんが営む老舗のお蕎麦屋さんだったこの物件。ご高齢による引退後、貸店舗として出すものの、入るお店がなかなか定着しないことに悩んでいた。そんなタイミングでたまたまこの物件に巡り合った市川さんは覚悟を決め、ここに根を張ることにした。「向かいの八百屋の『八百梅』さん、お隣の眼鏡の『タキモト』さん、酒屋の『新井屋酒店』さん、みんな優しい方たちで。板橋にはそこまで縁はなかったんですが、昔ながらのお店も残るこの場所で頑張ってみようかなと思ったんです」コンセプトは、「小さいお子さんから年配の方まで食べられる、やさしいラーメン」。幸せを運ぶ鳥「ハチドリ」のように、提供するラーメンで幸せを感じてもらいたいという思いを込めて、「麺屋 はちどり」と名づけた。「静岡で修行をさせてもらったときに、小さいお子さん連れのファミリーが多かったんですよね。それを見て、家族で入れるラーメン屋さんっていいなって。もちろん一人で楽しむラーメンもいいんだけど、私は老若男女がフラットに来て、『おいしかったね』『また来よう』っていう気持ちになれるお店にしたいなって」ちなみに、妻・薫さんは、ときわ台のケーキ屋さんで働いていた元パティシエ。はちどりの立ち上げのためにパティシエを辞め、一緒に働くことを選んでくれたのだそう。机に置かれているメニューや、壁に貼られたポップたちも薫さんによるもの。美術系の学校を出ているそうで、手描きのイラストが可愛らしい。今はお休み中だが、以前は薫さんがつくるスイーツもメニューに入れていて、デザートとして人気だったそうだ。(ゆくゆく復活する可能性もあるそうで、乞うご期待)「お店を始めてみてとくに大変だったことは?」と聞いてみると、「家内(薫さん)と喧嘩したときです」と市川さん。なんでも、「コロナ禍より大変だった」のだとか。「よく夕方6時くらいのニュースで、喧嘩しながらやってる町中華の夫婦が映っていたりするじゃないですか。こんなことあるのかなと思っていたのに、いざ自分が飲食店をやってみたら本当にあるんだなと(笑)。お互いにプロとしてやってきて、譲れない部分があるからぶつかることも結構あるんです」運営方針や細かいサービス、限定ラーメンの味に至るまで、意見を戦わせたことも。ただ、自分にはない薫さんのお客さん目線の意見には、感謝しているという市川さん。たしかに、コアなラーメンファンだけでなく、幅広い人をターゲットにしたお店だからこそ、きっと薫さんの視点は貴重なのだ。喧嘩することはあっても、ふたりだけのバランスで力を合わせて乗り越えてきたんだろうなと思う。そうして、今では人気のラーメン屋さんとしてこのまちに根付いたはちどり。“すぐにコロコロ変わってしまう”と言われてきた物件で、無事10周年を迎えた。狙いどおり、お客さんは子どもからお年寄りまで幅広い。たくさんあるキッズ用の椅子が足りなくなることもあるという。期間限定メニューのラーメンには、八百屋さんの野菜や酒屋さんの酒粕など、ご近所さんから仕入れた食材を使うこともあるそうで、その関係性もなんだかいい。すっかり地域密着型のラーメン屋さんである。ちなみに取材のタイミングでは「秋刀魚ラーメン」が限定メニューとして出ていて、市川さんのご厚意で味見をさせてもらったが、あまりにおいしくて目を見開いてしまった。こちらは灰色がかったどろっとしたスープで、秋刀魚の旨味がぎゅっと詰まっている。水筒に入れて持ち歩きたいくらいだった。来年もはたして食べられるのか……。それを楽しみに、また1年を生き延びたい。私たちがおいしい、おいしいとしきりに呟いていると、市川さんはとても嬉しそうに笑った。「一人でお店に行ったときに『ごちそうさま』は言うけれど、『おいしかったよ』と言うのは簡単なようで難しいじゃないですか。だからこそ、言ってもらえるとすごく嬉しい。さらに、言わなそうな方が言ってくれたりすると、そのギャップにやられますね(笑)。お客さまに支えられてきたな、とあらためて思います」たしかに、わざわざ言葉にするのはちょっとだけ恥ずかしい気持ちもある。でも、そんなささいなことが、働く人の支えになるのならば。言って減るものじゃないのだから、どんどん言っていきたいなと思った。