時計を見ると、取材開始まであと45分……。1件目の撮影を終え、とにかくおなかがぺこぺこだった私たちは、悩みながら次の取材先である「酒楽屋 ちろる」へと向かった。近くのカフェで時間をつぶす選択肢もあったけれど、表に出ている看板を見てたまらなくなり、そのまま暖簾をくぐって店の中へ。だって、メニューに並ぶ定食がどれもあまりに魅力的だったから。平日のランチどきで、にぎわう店内。近所で働く人たちだろうか。性別問わず、ひとりのお客さんも多い。カメラマンと迷った末に、「シャケ塩こうじ定食」と「広島県カキフライ&鶏からあげ定食」を注文した。定食には、メインのおかずにごはん、味噌汁、おしんこ、そして小鉢が2個ついてくる。この小鉢がまた、ずるいなと思う。煮物ともやしのナムル。ついてきて嫌な人、たぶんいない。しっとりとサクサクがいい塩梅のジューシーな唐揚げに、ぷりぷりのカキフライ。ちょっと分けてもらったシャケも、塩こうじの旨味がぎゅっと閉じ込められている。一つひとつがほっとするおいしさで、しっかりめのボリュームに抱いた最初の不安はどこへやら、はらぺこな私たちはきれいに平らげてしまった。「とってもおいしかったです……!」と伝えると、片付けをしていたお母さんが「よかった〜!」と太陽みたいな明るい笑顔を見せてくれた。この人が、松山礼子さん。調理をメインで担当する長男・佳樹さんとともに、ちろるを営んでいる。「これを見てください」見せてもらった写真には、グリーンと白のタイル柄に、オレンジ色で小さく書かれた「デリカショップ チロル」の文字。そして、順番を待つお客さんらしき人の姿。板橋宿不動通り商店街にかつてあった、このレトロで可愛らしいお弁当屋さんが、ちろるの前身である。この辺りに長く住んでいる人にとっては、懐かしい日常の風景かもしれない。松山さんファミリーがつくる、おいしくてボリュームたっぷりのお弁当、お惣菜、おにぎり、サンドイッチが自慢の「デリカショップ チロル」は、45年にわたってご近所さんや近隣で働く人たちの胃袋を満たしてきた。そんなお店が居酒屋へと生まれ変わったのは、2014年3月のこと。それからもう、10年以上が経つ。「一番最初は、じいちゃんとばあちゃんが四ツ谷の方で鞄屋さんをやっていたんです。親父が小学校6年生のときだったかな。区画整理が始まったのを機に板橋に引っ越してきて、そのまま鞄屋さんをやっていたんだけど、なかなか売れなくなって、弁当屋さんに転身したと聞いています」お店の歴史について、佳樹さんはそう話す。最初はお弁当チェーンのフランチャイズ店としてはじめ、その後「デリカショップ チロル」に。名づけの真意はわかっていないが、家族の名前から一字ずつ取った説が濃厚らしい。「親父の弟がチアキ、親父自身がヒロヤ、おじいちゃんがノボルなので、それぞれからとって“チロル”だったんじゃないかなと」結婚を機に母・礼子さんも一緒に働き始め、2世代でやってきた「デリカショップ チロル」。佳樹さんが生まれる頃にはすっかりまちのお弁当屋として地域に認知されていた。学校の先生や地域の消防団へのお弁当をはじめ、運動会などのイベントでの配達も多く、佳樹さんもお小遣いをもらってお手伝いしていたのだそう。お弁当屋から居酒屋に転身した大きなきっかけは、都市開発だった。ビルの建て壊しと新しいマンションの建設の話が決まり、佳樹さんの両親は同じ不動通り商店街の中でほんの少しだけずれた今の場所で「酒楽屋 ちろる」を始めた。お弁当屋時代から人気だったおかずは一部残しつつ、昼はボリュームたっぷりな定食ランチを。夜は、豊洲市場直送の新鮮な魚とおつまみをメニューに加え、楽しくお酒を飲める店に。迷った末に、長年地域に根付いた“ちろる”という名前は、そのまま引き継ぐことに決めた。再オープン当時は、もともと好きだったアパレルで働きながら、店の手伝いをしていたという佳樹さん。本格的に料理を始めたのは、父・ヒロヤさんがガンを患ったから。せっかく居酒屋として再出発した店を、ここで終わらせたくない。自分が店を支えられるようになりたい。その一心で料理を学んだ。「『ちろる』としてオープンしてから、2年後くらいのことでした。昼間は調理師学校に通いながら、夜はここで働いて。1年で調理師免許をとって、そこから店でも本格的に調理を担当するようになりました」佳樹さんが入ってから、メニューはどんどん増えていった。それは、ドラマ化もした某人気グルメ漫画に出てくるマスターの影響で、お客さんから食べたいといわれたものを全部つくってしまうから。王道の居酒屋メニューであるだし巻き卵は、濃厚かつおだしを使っていて、ふわふわでやさしい味わい。迷ったら、とりあえずこれを頼んでおけば間違いない。お酒を飲みながらつまむのにちょうどいい、串焼きもいろいろ。可愛いお皿にのせられた「トマトのベーコン巻き」と「豚しそ巻き」は、ちょっと特別感があってテンションが上がる。豊洲市場直送の新鮮なお魚を使ったメニューも、要チェック。旬の焼き魚やお刺身がいろいろ揃っている。この日は、秋の間大人気だったというサンマの塩焼きを用意してもらった。これは、日本酒がほしくなる……。時には、釣りが趣味だという佳樹さん自身が釣ってきた魚を調理することもあるのだとか。ちなみに、ちろるは居酒屋でありながら、夜にも定食が食べられるのが嬉しいポイント。「お酒だけじゃなくてごはんもしっかり食べたい日」とか、「コンビニやファストフードじゃ、なんとなく物足りない」みたいなこともあるから、こういうお店があると本当にありがたい。「もちろん、お酒を楽しんでいただけるのも嬉しいですが、お酒を飲まなくても楽しい場所をつくりたくて。この辺りは一人暮らししている人も多いし、ひとりでご飯を食べるのが寂しいときは、うちに来て手づくりの料理を食べてもらえたらなって。夜にもランチと同じ定食メニューを出しているのには、そういう思いもあるんですよね」昼に定食で食べた鶏のからあげは、「デリカショップ チロル」時代から変わらないこの店の味。からあげ単品でも注文できる。(お皿に7個くらいのってくるらしい) シンプルなのに、ついつい箸が伸びてしまう魅惑的なおいしさ。ファンが多いというのも納得。母・礼子さんと役割分担しながら、何品も並行しながら手際よく調理していく佳樹さん。はじめは必要に迫られて始めた料理だったけれど、それから10年以上経つ今、佳樹さんの中で何か変化はあったのか。「自分のためにつくるのは、今も別に好きじゃないです。やっぱりお客さんにおいしいって言ってもらうのが一番嬉しい。だから、人のためにつくる料理が好きなんだと思います」佳樹さんのそのマインドは、自身の子ども時代の経験も影響しているのかもしれない。「実家が弁当屋だから、友達を連れてくればいくらでもご飯を出してくれましたし、近所のお店に遊びにいけばみんな家族みたいに可愛がってくれて。自分がそういうところで育ったから、今の子どもたちにもできるだけ同じようなことをしてあげたくて。親御さんさえよければ、甥っ子が友達を連れてきたときにポテトを揚げたりとか、よくしていますね」「ゆくゆくは子ども食堂をやりたい」という佳樹さん。形を変えながらも、このまちでおじいちゃん、お父さんが懸命につないできた店。生まれ育ったこの店のことも、地域も大好きだからこそ、目先の利益以上に未来につながっていくものを大事にしたい。その強い思いが、今の佳樹さんを支えているのだと、ひしひしと伝わってきた。取材中、小学生の男の子がひとりでふらっとお店にやってきた。「今日は遠足だった」と話すその子は、佳樹さんの甥っ子さん。しばらくすると、お母さん(佳樹さんの妹)とともにさらに小さな甥っ子くんがやってきた。まるで自宅にいるようにお店の中で遊ぶ彼らは、きっとかつての佳樹さんの姿。7人いる姪っ子・甥っ子の中には、「料理をしたい!」という子もいるのだとか。こうやって、また未来につながっていくんだろうなと、勝手に想像してしまう。板橋らしさを存分に感じたくなったら、ちろるのご飯を食べにいこう。礼子さんが古着の着物をリメイクしたという暖簾をくぐれば、ふたりがあたたかく迎えてくれるはず。