大ぶりでふっくらジューシーな炭火やきとり、ふかふかのだし巻き卵、新鮮な旬のお刺身に、日替わりの魅力的な一品料理……。居酒屋激戦区の大山で、「とにかく何を食べてもおいしい!」「間違いない」と評判の「泉」。だけど、店主の松尾貴幸さんはシブい声であっけらかんと言う。「料理に重きを置いていないんですよ。あはは」それはどういうことなのか。松尾さんの歩んできた人生やお店の成り立ち、日々大切にしていることを伺うなかで、泉の“核”の部分が見えてきた。お店自体の歴史は、そこそこ長い。もともと泉は、板橋で10店舗ほど飲食店を運営する会社が手がけていた店のひとつだった。今はなくなってしまったが、3店舗あった「温」という居酒屋の姉妹店として生まれた。温と泉。「泉」と書いて“セン”と読ませるのは、そういうワケらしい。姉妹店で働いていた松尾さんが、2018年に独立して暖簾分けという形でこの店を引き継ぎ、屋号もそのままに運営している。飲食店を営む人たちは、もともと料理をすることが好きだった人が多い印象があるけれど、松尾さんは違う。かなり異色なルートで、今の仕事に辿り着いた。「工業高校を出て、すぐに工場に就職しました。車のモーターショーってわかります? そこで展示されているような、自動車のデザインをクレイ(粘土)で立体的につくる、モデラーの仕事をしていたんです」いくつかの工場で働くなかで、今につながる出会いがあった。「あるところの工場長が家具職人もやっている人だったんです。『休みの日にアルバイトに来いよ』と言われて、家具づくりの手伝いをすることになって。それが、たまたま飲食店に卸している家具だったんですよね。その工場長が飲食店のオーナーをやるからと誘われて、いきなり飲食の道に入りました」「当時、25とか26歳だったかな」と松尾さん。聞けば、埼玉の熊谷にある2つの居酒屋の店長としてのオファーだったらしい。飲食未経験から、いきなり2店舗の店長……。ふつうだったら怖気づいてしまいそうだけど、「シンプルにどっちがお金をもらえるか、で動いた感じです」と松尾さんは笑う。料理も接客も未経験からのスタート。でも、工場勤務の頃にはない充実感があった。「工場だと、毎日だいたい一緒なんですよ。朝8時半から始まって、お昼休みがあって、また夜まで働く。でも飲食って、もう毎日全然違うから。飽きなくて済んだというのが、一番大きかったのかもしれません」熊谷の居酒屋で3年ほど働いたのち、上京。それからラーメン屋、お鍋料理屋、うどん屋と経験したが、やっぱり居酒屋に戻ってきた。「つまらなかったですね(笑)。ご飯屋さんだと、どうしても食べる時間が限られるじゃないですか。こちらが料理を出して、お客さんが食べたらもうおしまい。どうしても工場みたいなルーティン作業のように感じてしまって。コミュニケーションが生まれる隙間がないのが、個人的には楽しくなかったんですよね。それでまた、居酒屋に戻ってきました」この頃には、いつかは独立して自分の店をやりたいという思いが芽生え始めていた。そこで、スキルを身に着けたくて就職したのが、もともと泉を運営していた会社だったという。そして、38歳のときに独立し、松尾さんがオーナーを務める新しい泉の歴史が始まった。ゆったりと過ごせそうな落ち着いた内観。テーブル以外の棚や椅子、壁などは松尾さんが自らが手がけている。さすが、ものづくりの人だ。「どんなお店にしたいか、構想はあったんですか?」と尋ねると、「僕はもともと料理人ではないので……」と松尾さん。ここで、冒頭の「料理には重きを置いていない」発言につながってくる。「ラーメンにも醤油、塩、味噌、豚骨、さらに太麺、細麺があって好みは人それぞれだし、どんなに人気のお店もすべての人にどんぴしゃでハマるとは限らない。だから、味に関しては7割くらいでいいと個人的には思っていて。その代わり、『来てよかった』と思ってもらえるように、丁寧な接客は大事にしています」今でこそ調理がメインの松尾さんだが、料理の腕を磨きたくて入った前の会社でも、ホールを任されることが多かったのだそう。そういえば、居酒屋に戻ってきたのもお客さんとのコミュニケーションが、働く上で大事なものだったから。松尾さんにとって、何より大事なのは人。人とのコミュニケーションを疎かにしないことが、“いい店”づくりにつながっていくと信じている。だから、泉の接客はとてもきめ細やかだ。呼び出しのベルは置かず、できるだけお客さんから「すみません」と呼ばれる前に、注文をとりにいく。お会計のタイミングを察知して、スムーズに済ませる。それも押しつけがましくなく、スマートに。お客さんの何気ない行動から何を求めているのか想像し、先回りして動く癖を付けるのは、スタッフ教育において大事にしていることだという。そして、もうひとつは笑顔。「8社ほど経験しましたが、好かれる人の共通点はやっぱりニコニコしていることだなと感じます。笑っておけば大丈夫。僕らのような接客業は、どうしても瞬間瞬間の印象や振る舞いが大事になってくるので、忙しくても笑顔でいようね、と伝えています」「僕の持論ですが、人に好かれていたらお店はつぶれないんじゃないかと思ってるので」と松尾さん。泉のアルバイトさんたちは、20歳前後の高校生、大学生で構成されるかなり若いチームだが、明るく、てきぱきしていて気持ちがいい。スポンジのように吸収し、どんどん成長していく彼らを見ているのも、松尾さんは楽しいのだという。料理に重きを置いていないとは言うが、ちゃんとしっかりおいしいのがかっこいいところ。最後に、この日食べさせてもらった3品を紹介したい。まずは、炭火をつかったやきとり。1本から注文OKで、おまかせの盛り合わせも5本からある。この日の「厳選おまかせ5本」は、レアささみ(わさび)、ねぎま、ぼんじり、砂肝、とろレバー。ぶりんと大きくて、焼き加減もバツグンで、最高においしい。やきとりの技術は、「お客さんに教えてもらった」という松尾さん。焼いたものを実際に食べてもらいつつ、「もっとこうした方がいい」とフィードバックをもらいながら技術を磨いていったらしい。「そうすると、お客さん側もずっと来てくれるんですよね(笑)」。こちらは、泉名物の「生つくね」。生の挽肉からじっくり焼き上げ、鶏の肉汁をたっぷり閉じ込めることでふわふわの食感に仕上げた、新感覚のつくねである。大きくてまるっこい見た目が可愛らしいが、お酒のアテにぴったりなおいしさ。塩・タレ以外に、おろしポン酢や黄身添え、チーズINチーズという罪なメニューもあるので、一種類といわず、おなかに余裕のある方はぜひ全種類制覇してほしい。そしてこの、枕のようにふかふかなだし巻き卵(プレーン)。ぽわんとしたフォルムがたまらなく可愛い……。卵をたっぷり4〜5個使い、空気を含ませながらつくるので、中はほわっほわ。もう、間違いのないおいしさなので、卵がお好きな方は絶対に頼んでほしい。ほかのお店ではあまり見かけない、珍しい日本酒が揃っているのも泉の魅力。熟成酒などクセの強いものもあり、コアな日本酒好きも訪れるのだとか。一方で松尾さんは、「僕自身は日本酒は好んで飲まないんですけどね」と、これまたあっさり。もちろん日本酒好きな人と話せる程度の知識はあるが、じつはハイボールやお茶割派らしい。「種類が多い方が、ちょっとこだわってるっぽいから。あはは」と笑う松尾さんは、ある意味ブレなくて清々しい。料理もお酒も、きっとあくまで心地良い空間をつくるためのひとつのツールのようなもの。スタッフとお客さん、お客さん同士、そしてスタッフの間でのコミュニケーションがゆるやかに生まれ、日々小さな新鮮さを感じられる場所こそが、松尾さんがつくりたいものなんだろうなと思う。そんな松尾さんとスタッフの皆さんがつくりだす、泉ならではの空気感をぜひ味わってほしい。