やわらかい日差しが差し込む、午前11時。「お菓子 マツザワ」がオープンする。列をつくっていたお客さんたちが、「待ってました!」とばかりに、お菓子を買っていく。プリン、ロールケーキ、シュークリーム、フィナンシェ……。小さなショーケースの中にちょこんと並ぶお菓子たちは、自然と頬がゆるんでしまうくらい、可愛らしい。シンプルで、正統派。派手さはないけれど、やさしい空気をたっぷりと纏った、上品で繊細なお菓子。それらが入った箱を、みんな一様に大事に、そして嬉しそうに抱えて帰っていく。自転車の人は、かごにそっと置いて。「ケーキを運ぶときは、皆等しく天使になる」ということを詠んだ、大好きな短歌を思い出した。その光景には、平凡だけどやさしい幸せが詰まっている。板橋区東新町。この静かな住宅街の中に、マツザワはある。しいて言えば、東武東上線のときわ台と、有楽町線の小竹向原が最寄り駅だが、それぞれから歩いて20分弱かかる。なぜこんな住宅街で?……というのも、じつはマツザワの建物は、オーナー・髙橋理永さんの住居。パートナー、そして義理のご両親と一緒に住むおうちの一室を工房にし、小さなスペースで日々お菓子をつくって販売している。製造は、基本的に理永さんひとりで。朝7時頃から作業を始め、シュークリームやタルトを焼いたり、前日に仕込んだプリンやロールケーキなどの仕上げをしたりする。焼きたてのサクサク食感が楽しいフィナンシェは、毎朝オープン前に焼いているのだそう。「最高級の素材にこだわるというよりも、つながりのある方がつくっているものを使わせてもらったりとか、ご縁を大切にしたお菓子づくりが好きですね」「迷ったら最初はぜひこれを」と理永さんがすすめてくれたのが、「特製プリン」。するんとなめらか、だけどとろとろではない。やわらかさと固さがいい塩梅のプリンは、素朴で懐かしい味わい。バニラのやさしい甘みとカラメルの苦みがゆるやかに絡み合う。子どもから大人までみんなが好きなプリンだ。おやつタイムにこのプリンが待っていると思ったら、一日頑張れる気がする。夜のデザートとしても、罪悪感を抱かずに楽しめそうなのもいい。こちらは、「いちごのロールケーキ」。とにかくビジュアルが正統派で可愛らしい。ぽんわり、まるい見た目に癒される。そして、スポンジも見たままにふわふわしっとり。ロールケーキは、フォークを入れたときに思ったより軽いと残念な気持ちになるけれど、マツザワのそれはちゃんと重厚感があって、嬉しくなる。クリームもさっぱりとした甘さで、いちごの酸味と相まって飽きの来ないおいしさだ。これは、手土産人気も高そう……。プレーンや、旬のフルーツを使ったロールケーキもあるので、いろいろ食べ比べてみたい。じつは、理永さんのお菓子づくりはぜんぶ独学。もともとは、趣味で始めたことだった。「基本的に向こう見ずで、あんまりちゃんと先のことを考えていないんです。やってみたいなと思ったら、その気持ちだけで行動しちゃうので」2025年10月にこのお店をオープンするまでの理永さんの道のりを聞いていると、その言葉通り、好奇心の赴くままに行動してきたことが伺える。学生時代から、食や農業に関心があったという理永さん。米農家の手伝いをしたり、農業のコンサル会社でインターンをしたりしたのち、食品スーパーに就職。オーガニックや高級食材ばかりを扱うわけではなく、いいものを無理のない範囲で日常的に取り入れることを大切にするスタンスに惹かれ、約1年働いた。その後の転職先はなんと、神楽坂の和食料理屋さん。そこで理永さんは、板前見習いとして働き始める。「スーパーでパンをつくったり、カフェをやったりといろいろ経験させてもらいましたが、やっぱりつくるのが楽しいなと思って。仕事として使えるように、お料理をちゃんと勉強したいと思って和食屋さんに転職しました。もともと、おばんざいとか小鉢で家庭料理が出てくるお店が大好きだったんですよね」食材の使い方、飲食店を運営する知識、人と働く上での心得。社会人2年目の理永さんにとって、現場にはたくさんの学びがあったが、想像以上に過酷でもあった。1年半ほど働いたのち、身体の健康を取り戻すためにと、自動車の取扱説明書をつくる企業で会社員に。理由は、「学生時代にガソリンスタンドでアルバイトしていて、車が好きだったから」。ノープランだったというが、興味が持てることがあれば迷わず行動する理永さんのスタンスはブレない。そのなかで、理永さんはふたたびお菓子づくりを始める。会社員と並行しながら、西池袋にある複合施設「ニシイケバレイ」のシェアキッチンで月2回、お菓子の製造・販売をすることにしたのだ。「会社員として頑張っていこうと真面目に働いていましたが、やっぱりつくることは何かしらの形で続けたかったんですよね。『ニシイケバレイ』では、ただお菓子をつくるだけでなく、いろいろな人と関わりながら、地域やコミュニティを盛り上げていくことに携われるのが面白そうだなと思って」こうして、シェアキッチンからスタートした「お菓子 マツザワ」。間借り出店を経て、自分で店を持つという話はよく聞くけれど、理永さん自身はそのつもりだったわけではない。飲食店の厳しさを知っているからこそ、楽しいと思える距離感で続けた方がいい。そう思っていたにも関わらずお店を持つことにしたのは、諸々の状況が整ったことも大きかった。6年以上勤めた会社で、「ここまでできるようになった」と気持ちに区切りがついたこと。板橋で生まれ育ったパートナーと結婚し、義両親と暮らす家を建てる話が持ちあがったこと。その一部で「お店をやってみたら?」と、家族が背中を押してくれたこと。「いい機会だし、やってみようかな」そうとなれば、心に従って行動するのが理永さん。会社員を辞め、本格的にお菓子屋さんとしての人生をスタートさせた。ちなみに、“マツザワ”というのは理永さんの旧姓。シェアキッチン時代からそのまま引き継いでいる。「おしゃれな名前にすると、由来を聞かれるのが恥ずかしくて(笑)。正直そこまで深い意味はないんですが、自分の名前でやっているところはいいお店が多いというイメージがあったので、ここもそうなれたらいいなって」オープン以来、予想以上にたくさんのお客さんがマツザワに足を運んでくれている。店頭で地域の人たちと交わす何気ない会話が、理永さんの楽しみのひとつ。「この静かな住宅街にも、こんなお店が欲しいとか、生活をもっと楽しみたいとか、そういう思いを持っている方がたくさんいることを感じました」夕方になると、お菓子がほとんど売り切れてしまうことも少なくない。でも、無理に商品数を大きく増やすことはせず、ひとりでつくれる数と品質のバランスを大切にしている。お客様にとっても、自分にとっても楽しいお店であることが大事だから。売り切れた後は、コーヒーやカフェラテなどのドリンクを販売しながら、翌日の仕込みをする。お菓子づくりにおいて、大切にしていること。それは、「ありきたりですが、愛情を込めることでしょうか」と理永さんは言う。「毎日同じものをつくっていると、生み出すことに必死で、マシンのようになってしまいがちだなと感じていて。でも、一つひとつが誰かの口に入るもので、これを楽しみに今日仕事を頑張っている人がいるかもしれないですよね。そういうお菓子の向こう側にある生活をなるべく想像して、一つひとつ丁寧につくることを大事にしています」そして理永さんは、こう続けた。「マツザワのお菓子が、お客さまにとって“いい思い出”のひとつになれたらなあ、と思うんです」と。「たとえば、寄り道をしてお友達とマツザワでデザートを買ったとか、おうちでお母さんと一緒にプリンを食べたとか。マツザワを通して、そういう些細だけど楽しい思い出が皆さんの中で増えていったら嬉しいなって。だから、コンビニに寄るくらいの気楽な気持ちで、立ち寄っていただけたらと思うんです」お菓子屋さんに立ち寄るのって、それくらい気軽でもいいんだ。そう思うだけで、なんだかちょっと心も足取りも軽くなる気がする。理永さんの思いが詰まった、やさしくて丁寧なマツザワのお菓子。日常にちょっとした楽しみや、ささやかな幸せをくれる毎日のおやつ。それを抱えておうちや駅まで歩く時間も、きっと楽しい思い出になる。