駅自体が、板橋区と北区にまたがる浮間舟渡。はじめて降り立つこのまちは、なんというか、「余白が多い」というのが第一印象だった。ひとつしかない出口を出るとそこそこ広いロータリーがあるが、平日の駅前は人通りも多くない。そして、すぐ先に大きな公園らしきものがどーんと見える。風車がトレードマークの「浮間公園」というらしい。建物もお店も少ない。でも、穏やかで時間がゆっくりと流れている感じがする。今回ご紹介するのは、そんな浮間舟渡において貴重なご飯処のひとつ。「さかなやのごはん」という名前の通り、老舗の魚屋さんが始めた飲食店だ。駅から徒歩5分。魚屋さんの目利きをもって仕入れる、豊洲市場直送の“本当においしい”旬のお魚を使った定食や丼が手軽に楽しめるとあって、ランチタイムを中心にたくさんの人で賑わう。海鮮丼や焼き魚を使ったお弁当はテイクアウトもできるので、たとえば在宅ワークの合間にサクッと買って、おうちでゆっくりおいしいお魚ランチを楽しむ、なんてこともできるのが嬉しい。運営するのは、南常盤台にお店を構える「山忠水産」。さかなやのごはんの店長・山本恭士さんのおじいさんが始めた会社だ。「じいちゃんはもともと静岡の人で、漁師だったんですよ。16歳からマグロ漁船に乗って働いていたらしくて。それで結婚して子どもが生まれるタイミングで東京に来て、なんとなく板橋に辿り着いたんだと思います」1956年に創業し、自転車での商売からスタート。そこから地道に規模を広げ、飲食店卸専門の魚屋として銀座や新宿などの四季料理のお店に、新鮮な魚介類を卸してきた。2021年からは、不定期で魚の移動販売もしている。そんな山忠水産が飲食店を始めることになったきっかけは、コロナ禍だった。飲食店が休業となれば、おのずと山忠水産は卸先を失い、売上はおよそ95%減に。一方市場では、商品がたくさん余ってしまって困っていた。ならばそれを使って自分たちでお店をやろう、と始めたのが、さかなやのごはんだ。ちなみに、店長である恭士さんはその当時、まだサラリーマンをしていたらしい。「魚とはまったく関係ない、運送系のサラリーマンをしていたんです。コロナ禍前に親父が倒れたときは、弟に引き継いでもらいつつ、僕は兼業しながら手伝っていたんですが、そのままコロナ禍に入ってしまって。弟に全部押し付けたままではさすがに申し訳ないと思い、飲食店の方は僕がメインでやることにしました」「コロナ禍がなかったら、家業に入らなかったと思う」という恭士さん。実際、さかなやのごはんを始めることが決まってからも、「できれば辞めたくない」とサラリーマンをしながら調理の修行に励んだ。「半年くらいはダブルワークしていましたね。毎日2時間睡眠、ほぼ休みなしで(笑)。一生で一番働いたかもしれないですね」しかし、さすがに体力的にも難しく、会社を辞めてさかなやのごはんに専念することに。もちろん葛藤や不安はあったが、最終的には「なんとかなるだろう」と腹を決めた。「もともと飲み歩くのが好きで、板橋区内に飲食店をやっている知り合いや友達がたくさんいたんですよね。だから、もしこの店が上手くいかなくても、最悪友達が誰か拾ってくれるだろうなって」あはは、と笑う恭士さん。そのあっけらかんとした軽やかさが眩しい。じつは今、さかなやのごはんで一緒に働いているのは、恭士さんの母・真琴さんと妻の絵利香さん。そう、山忠水産と同じくこの店も完全なる家族経営なのだ。反対されていた時期もあったというが、今では3人で力を合わせてお店を運営している。ちなみに、恭士さんの家族は魚にルーツのある人が多い。山忠水産を始めた父方はもちろんだが、母の真琴さんも千葉にある割烹料理屋の娘さん。伯父さんは、水天宮のお寿司屋さんで、その息子であるいとこは豊洲市場で働いている。「逆に言うと魚しかないんですけど」と恭士さんは笑うが、なんと心強い布陣……!調理未経験の恭士さんの修行をしてくれたのも、寿司屋を営む伯父さんだったそう。基本的な魚の捌き方から酢飯のつくり方まで、伯父さん仕込みの技術が活きている。「でも、うちでは手のかかるような料理はやっていないんですよ。物(素材である魚)がうまければ、うまいでしょ!って。だから、こだわっているのは魚の仕入れくらいです」シンプルな丼や定食で勝負できるのも、素材に圧倒的な自信があるからこそ。その一番の要である仕入れをしているのが、山忠水産を引き継いでいる弟さんだ。あらためて、家族のパワーが大集結している感じがいい。おいしそうなメニューばかりで迷ってしまうが、丼ならまずはこちらの「さかなやどん」を。いろいろな種類のお刺身、しらす、卵焼きがバランスよく乗った、よくばりメニューだ。見た目も華やか。イートインだと、味噌汁と小鉢がつく。(このあら汁と、素朴な小鉢がまた最高……)2種類の酢を使ったまろやかな味わいの酢飯に、鮮度抜群のお刺身。銀座の割烹料理屋さんに卸すお魚と同じものだから、それはもう、おいしいに決まっている。このクオリティのお刺身を、ランチ時にお手頃に食べられるなんて。この店の自慢は、マグロはすべて生の本マグロを使っていること。素人目にもわかるくらい、身の色も味も濃くてやっぱりおいしい。「値段は高いけれど、本マグロの方が絶対おいしいから。ファミリーで来てくれる子どもたちに、本マグロの味を覚えさせたいなと。『ほかのマグロが食べられない!』ってなったら僕の勝ちだと思って(笑)」たしかに、一度食べたら「やっぱり本マグロが食べたい……」となってしまうなあ。子どもだけでなく、気づいたらここの本マグロに引き寄せられてしまっている大人も、たくさんいそうだ。「今日は定食の気分だな」と思ったときにおすすめしたいのは、生アジを使った「アジフライ定食」。どでかいアジフライを頬張ることでしか、得られない幸せもある。ソースをかけたら、ここはあえて箸で切り分けずに、そのままかぶりつきたい。肉厚で大きいアジフライは、サックサク&ふわふわでジューシー。素材も工程もシンプルな料理であるアジフライは基本的においしいけれど、ここのアジフライはやっぱり素材が違うんだろうなあと感じる。おいしいものはこの世にたくさんあるけれど、こういうごはんが結局一番ほっとする。なかには、「メカジキバーガー」というちょっと変わったメニューも。別メニューにある「メカジキのフライ」をバーガーにしたものだ。「うちのじいちゃんがつくってくれて、僕自身めっちゃ好きなんですけど、バーガーにしたらおいしそうだなと思って。ためしに友達のやっているやきとん屋さんで出してみてもらったら、『評判良かったよ』って言うから、うちでも出すようになったんです」数量限定。売り切れてしまっていたり、バンズやポテトがなかったりすると販売していないこともあるので、メニューにあったらラッキー。メカジキバーガーだけでなく、さかなやのごはんのメニューは、いつでもすべて揃っているとは限らない。あるときはあるし、ないときはない。それは、自然相手の商売だから仕方のないこと。たとえば鮭が不漁となれば、ふつうの鮭の切り身は出せても、よりとれる部分が少ないハラスは出せないこともある。気候変動で、旬そのものにもズレが起きている。おいしい魚介類を、一番おいしいときに出す。それが山忠水産のポリシーだからこそ、今ここにないものを無理に提供することはしないのだ。今日は何があるかな? そういう“一期一会”な感じも含めて楽しめるといい。そして、夜には夜の楽しみ方があるさかなのごはん。定食も食べられるし、おいしいお酒に合う魚介類を使ったおつまみメニューが揃うので、のんべえもウェルカム。ビール、ワイン、焼酎、日本酒となんでもあるけれど、恭士さんのおすすめはお寿司屋さんと同じガリを使った「ガリ酎ハイ」。甘酢の入った甘めの酎ハイとぴりりと辛いガリの相性が抜群で、「無限の飲み物」らしい。ついつい長居してしまいそうだ。浮間舟渡にはなじみがなかったという方も、このお店をひとつの目的地にして降り立ってみるのはどうだろう。晴れた日には、海鮮丼をテイクアウトして浮間公園でランチピクニックしてみてもいいし、反対に公園でのんびり過ごしてから、夜に一杯飲みに行ってもいい。派手さはないけれど、穏やかでささやかな幸せを感じられる一日に、きっとなる。