仕事が忙しかったり、心に余裕がなかったりして、日々の食事が疎かになってしまうことはきっと、誰しもある。もっと栄養のあるものを……と頭ではわかっていても、からだにいい食事というのは手間暇をかけなければならない気がして、正直面倒くさい。かといって、完全食やサプリメントでよしとするのは、味気ない。今回伺った「cafe 月ノ農(つきのみのり)」は、そんな現代人にとってのまさに駆け込み寺的なお店かもしれない。都営三田線 志村坂上駅から徒歩2分。月ノ農は、オーガニック野菜の直売所を併設したカフェである。この店で食べられる「月ノ農ランチプレート」こそが、栄養を欲するからだにもってこいのヘルシーメニューなのだ。毎日20食限定。旬の有機野菜や玄米を中心に、ヘルシーなおかずがたっぷりのった、華やかなワンプレート。きのこやこんにゃくなど、食物繊維が豊富で腸活にも効果的な食材も使われている。「その時々でおいしい野菜で構成するので、プレートの内容はちょこちょこ変わりますね」そう話すのは、店主の大野喜久さん。使っているのは、茨城県阿見町の農家さんから直接仕入れた野菜たち。そのおいしさを最大限に引き出しているのが、低温スチーミングという調理方法らしい。50℃のぬるま湯で野菜を洗い、70℃〜90℃前後のやさしい温度で蒸す。そうすることで、生の食感を残しながら、野菜の甘みや旨みをぐっと増してくれるのだという。玄米は、ミルキークイーンとコシヒカリをブレンドしたものに小豆を混ぜて炊いている。驚くのは、おかずも玄米も、味付けは基本的に塩と味噌が中心。醤油も料理酒もほとんど使わないという、徹底したシンプルさだ。「このお塩があれば十分なんですよ」と見せてくれたのは、「クリスマス島の塩」。お店の直売所コーナーでも販売されている、大野さんイチオシの塩らしい。クリスマス島は、太平洋の赤道直下に位置する世界最大のサンゴ礁の島。サンタさんが描かれたパッケージが可愛らしいこの塩が、低温スチーミングで素材の良さを引き出した野菜を、さらにおいしくしてくれる“魔法の塩”なんだとか。「日本の塩は、一般的に海水を煮詰めて結晶化させますが、このお塩は太陽と風の力だけで、およそ3か月かけてじっくり自然結晶化させるんです。塩がとけるスピードが早く、角のとれたまろやかな塩味と甘みを感じられるのが特徴で、野菜はもちろん、肉や魚のおいしさも引き出してくれるんですよ」イタリアンシェフから寿司職人まで、世界的に活躍する料理人の方々もこぞって料理に使っているという。実際に少し味見させてもらうと、一般的な塩との違いが素人でもわかる。粒が大きめで、なんというか、やさしい。これだったら、塩むすびにしても絶対においしいだろうなと思う。そして、このクリスマス島の塩や味噌などで味付けされた蒸し野菜たちは、本当にびっくりするくらい味が濃くて、甘くて、おいしい。蒸したあとに軽くソテーした甘いにんじんに大根、しめじ、ほうれん草のおひたし、シークワーサーの果汁と食べる爽やかなゆでキャベツ、お酒にも合いそうなキクイモの味噌みりんきんぴら……。どれも、農家さんが丹精込めてつくった野菜。素材がいいというのは間違いないけれど、適した調理法と調味料で食べると、シンプルなのにこれだけおいしくなるのか、と小さな衝撃を受けた。一口食べるごとに、栄養がからだにしみわたっていくような気がする。ほかにも、甘酒トーストや黒糖フレンチトーストなどの軽食や、「板橋のいっぴん」にも選ばれたねっとりと濃厚な甘さの「寝かせ焼きいも」、こだわりのコーヒー、種類豊富なノンカフェインのお茶などが楽しめる。子どもの頃から食べることが好きで、自宅で料理のお手伝いをよくしていたという大野さん。大人になってからは、食や動物、演劇など、その時々で関心のあることを仕事にしてきたが、ある野菜直売所との出会いが大野さんの人生を変えることになる。「今は閉店してしまいましたが、すぐ近くに茨城の農家さんの野菜を販売する直売所があったんです。前日まで畑になっていたとれたての野菜が買えるんですが、それが信じられないくらいおいしくて。そこからよく通うようになりました」直売所の名前は、「つくばのやさい畑」。最初はいちユーザーだった大野さんだが、その当時の運営者の引退が決まったことを受け、なんと次の店舗運営メンバーに名乗り出る。当時勤めていた劇場を辞めてまで、なぜ野菜の直売所に関わろうと考えたのか。すると、とてもシンプルな答えが返ってきた。「自分が本当に食べたいと思うものを扱っている空間にいられるのって、すごく魅力的じゃないですか」肉や魚も、もちろん食べる。でも、なかでも「とれたての野菜のおいしさは何にも替えられない」という大野さん。だからこそ、その素晴らしさを教えてくれた直売所で働くことを決めたのだった。その後、独立して月ノ農を立ち上げたのは、自分の裁量でお店をやりたいと思うようになったから。ビルのオーナーは、じつは直売所時代のお客さん。ご夫婦で営んでいた喫茶店に、大野さんもお客さんとして通っていたらしい。そこの閉店が決まったタイミングで、ちょうど物件を探していた大野さんに建物を貸してくれたのだという。たしかに、店内は元喫茶店らしいレトロで落ち着いた趣きだ。ほとんど手を加えず、味のある椅子や照明もそのまま。古さは感じるけれど清潔で、妙に居心地が良い。「本当は、もっとこぢんまりしたところで、産地直送の野菜を売りながら焼きいも屋さんをやろうと思っていたんです。でも、せっかくこんなに大きなキッチンが付いてきたので、それならお食事を出してみようかなって」「そもそも物件が見つからなくて、全部がとん挫していた可能性もあるんですよ」と大野さん。直売所でのご縁がつないでくれた物件。そこに、たまたま広いキッチンがあったから生まれたプレートが、今ではお店を象徴する名物メニューに。本当に、何がどう実を結ぶかわからないから面白い。野菜への情熱は人一倍。だからこそ大野さんは、「おいしくつくること・食べること」にこだわりを持っている。「おいしいのが大前提です。有機栽培とか、無農薬・減農薬、生産者の顔が見えるというのはもちろん魅力のひとつではあるけれど、からだに良くてもおいしくないのは嫌なんです。だから、おいしくつくる。素材の良さを活かす調理法だから、勝手においしくなっちゃうんですけどね」じつは、お店では料理教室も行っている。最終的には、自宅でもつくって楽しんでもらうことを目標に、玄米の炊き方から低温蒸しの方法まで教えるのだそう。ただ、ズボラ代表としてどうしても頭によぎるのは、「蒸し料理って手間がかかって面倒そうだな……」ということ。時間や温度管理も難しそうだし、意識の高いきちんとしている人しかできないのでは?と思ってしまう。すると、大野さんは見透かしたように言う。「僕は、あんまりがちがちにレシピやルールを教えることはしません。この調理方法が面白いのって、一応それぞれの野菜に合わせた蒸し時間があるけれど、うっかり時間を過ぎてしまっても、それが意外とおいしかったりすることなんですよ。間違いが、間違いじゃない。そういう発見も含めて楽しんでもらいたいんですよね」「許容範囲がすごく広い調理方法なんです」という言葉を聞いて、なんだか自分にもやれる気がしてきた。ハードルが高いと思い込んでいたけれど、案外ゆるく楽しめるのかもしれない。直売所を併設しているからこそ、食べて気に入った野菜を買って帰ったり、大野さんにおいしい調理方法を直接相談したりできる。もっと深く知りたければ、料理教室で教わることもできる。これが一般的なカフェにはない、月ノ農ならではの楽しみ方なのだ。からだに優しいものを食べたい。野菜を生活に取り入れたい。家族に栄養のあるものを食べさせたい。いろいろな思いを抱いた人たちが、月ノ農を訪れる。今では、常連さんが立ち上げた施設ファンクラブ「月ノ農応援団」も存在しているらしい。知識もいらないし、きっかけはなんでもいいのだ。「おいしい野菜を食べたい!」と思ったときに立ち寄れば、いつだって大野さんがにこにこの笑顔で出迎えてくれる。「やっぱり、人と人との関わりがお店を育ててくれていることを実感しています。だから、僕の目標は“商店街の優しいおじちゃん”。大切に思うこの場所で、少しでも多くの方に食の楽しみを知ってもらえるように、頑張っていきたいですね」