「『成増の北口は無理だよ』『失敗するよ』って、みんなに言われました。でも、自分の直感を信じたいと思ったんですよね」「瓦焼き ひとたらし」のオーナー・中村健生さんはそう話す。成増というまちは、東武東上線の駅をはさんだ南と北で雰囲気ががらっと変わる。商店街にチェーン店がひしめく賑やかな南側に対し、“閑静な住宅街”という言葉が似合う北側。駅の両側で、これだけテンションに差があるのも珍しい気がする。ひとたらしは、その閑静な北側、さらに駅から徒歩10分ほどの商店街の中にある、創作料理がおいしいと評判の居酒屋だ。周りにお店も少なく、とても静か。南側&駅近の飲食店に比べると、立地的にはどう考えても不利であるにも関わらず、ひとたらしは連日たくさんのお客さんで賑わっている。わいわいがやがやとした大衆酒場というよりも、会話と食事を楽しみながらのんびりと過ごす、大人のための酒場という趣である。人気の理由は、なんといっても料理。中村さんが手がける創作料理は、素材自体はシンプルなのに組み合わせが面白く、「これもありなのか......!」と発見がある。ちゃんと手が込んでいるのに手頃な価格で楽しめるとあって、お酒と一緒においしいものを食べたい人たちが、こぞってやってくる。店名に入っている「瓦焼き」は、看板メニュー。岩盤焼きや藁焼きに比べるとなじみがないが、同じ要領で、アツアツの瓦でお肉や野菜をじゅうじゅうと焼く料理だ。でもそれにかぎらず、この店には和洋折衷、なんでもある。お刺身もあればパスタもあるし、チーズリゾットにエビチリマヨ、ジンギスカン、山口県の郷土料理の瓦そばまで。日替わりメニューだけでもたくさんある。「ほかの店でやっていない、インパクトのあることをやりたくて始めたのが瓦焼きですが、これはとっかかりにすぎないんです。創作居酒屋らしく、なんでも食べられる店にしちゃおうかなと思ってやっていたら、メニューがどんどん増え続けて減らせなくなっちゃいましたね」たとえば、最初の前菜としておすすめの「おばんざいの盛り合わせ」。ちょっとずつ盛られたおばんざいって、なんでこんなにときめくのだろう。この日は真ん中からのの字に「ガリトマト」、「燻製おかき」、「長芋のだし醤油漬け」、「ピリ辛ささみメンマ」、「アンチョビとオリーブのチーズ豆腐」、「いぶりがっこクリームチーズ」。一つひとつの素材にはなじみがあるのに、組み合わせるとなぜかちょっとトクベツな味わいに感じる。それぞれの味付けが絶妙で、お酒のおつまみとして優秀すぎる。「うちの刺身はうまいですよ」と中村さん自慢の「刺身盛り」は、豊洲から仕入れた新鮮なお刺身を日替わりで提供。1人前から注文できるので、お魚の気分だったら迷わず注文したい。(写真は3人前)テーブルに届いた瞬間、お刺身の分厚さに驚かされる。1枚1枚ぶりんとしていて、すごい存在感だ。マグロ、サーモン、炙りシメサバ、ブリ、サワラの柚子塩、カツオのたたき。いろいろな種類を楽しめて嬉しい。大事に味わいながら、日本酒をきゅっとやりたいところ。看板メニューの「瓦焼き」も、せっかく来たなら一度は押さえておきたい。鶏(もも焼き)、豚(三元豚のトンテキ)、牛(赤身レアステーキ)、野菜(旬のおまかせ焼き)の4種類から選べる。遠赤外線効果でジューシーに仕上がった鶏もも肉は旨味たっぷり。わさびや柚子胡椒をつけるとまた最高で、食べ始めたら箸が止まらない。しかも、すぐに冷めてしまわずに最後までアツアツなのが嬉しい。「ほかにもメニューがたくさんあるので、常連さんで注文する人はあまりいませんけど(笑)。それでも看板メニューなので、これを目当てに来てくださるお客さんもたくさんいます」中村さんは、鹿児島県指宿(いぶすき)市出身。以前は、インテリアデザインの会社で働いていたが、家庭の事情で地元にUターン。しばらくして落ち着いたタイミングで、再度上京している。もともといたインテリアの世界ではなく、今度は飲食の世界に足を踏み入れるのだ。「もともと食べることが好きでしたし、自分の理想のデザインでお店をつくれたらいいなという思いが漠然とあったんです。当時28歳。年齢的にも最後のチャンスだと思って、覚悟を持って飲食の世界に入りました」就職したのは、都内で人気の居酒屋を複数経営する企業。それまで自ら料理をすることも、飲食店での勤務経験もほとんどなかったという中村さんは、5年後には絶対に自分のお店を持つと決め、とにかくがむしゃらに働いた。「大変でしたよ。飲食を始めるのにはかなり遅かったですし、周りは高校生や大学生ばかり。覚えることもかなり多かった。ほかにも中途採用で入った人はいましたが、残ったのは僕だけでしたね」中村さんが踏みとどまれたのは、二度目の上京で諦めるわけにはいかないという覚悟と、5年後に店を持つという明確な目標があったから。ひたむきな努力が認められて一番忙しい渋谷の店舗の店長を任されるまでに。3年みっちり働き、残り2年はより自分の理想に近い個人店で修行をしようと、夫婦で通っていた氷川台のお気に入りの居酒屋に転職をした。そうして計画通り、33歳のときに修行先で出会った仲間と3人で、このひとたらしをオープンするのだ。まさに有言実行。(すごい......)前職の社長に勧められ、成増で物件を探したものの、駅近では難航。そのなかでたまたま見つけたのが、北口から徒歩10分以上の場所で3年以上空いていたこの物件だった。そこで、周りから言われたのが冒頭の言葉である。「建物自体はいい。でも北口のこの立地では無理だ」と。「みんなに反対されて、最初は突っ走る度胸がなかった」という中村さんは、一度はこの物件を諦めている。しかし、心の中ではわずかな可能性を感じていたという。「見に来た日は天気がよくて、中に入ったときに不思議と、自分がここで働いている姿とかお客さんが帰っていく様子が想像できたんです。そんなとき、仲のいい先輩から『自分の直感を信じた方がいいんじゃない?』と言われて。たしかに他人の意見も大事だけど、直感を信じて上手く行ったことの方が多いし、そうするべきだなと」直感を信じ、2018年7月にオープンしたひとたらし。事前の積極的な情報発信や、リピーターになってもらうための施策が功を奏し、想像を遥かに超える手応えをもって地元の人たちに浸透していった。2022年には、すぐ近くに姉妹店の「成増笑店」もオープン。現在は妻・あかねさんがメインで切り盛りしていて、どちらもすこぶる好調だ。この状況を「自分でも奇跡に近いと思う」と笑う中村さんに、秘訣を聞いてみた。「それはシンプルに、当たり前のことを当たり前にやってきたからだと思います。当たり前においしいものを出して、当たり前に気持ちのいい接客をする。なるべく手づくりで、味の要になるものは素材選びから妥協しない。僕自身が譲れない部分は、アルバイトに対しても厳しく伝えます。こういう姿勢が、お客さんに受け入れてもらえている一つの理由なんじゃないかなと思いますね」少し歩いてでも、あの店に行きたい。そう思わせるのは、中村さんをはじめ、スタッフのみなさんがこのお店と料理、そしてお客さんと真摯に向き合ってきた証なのだろう。ひとたらしをその日の最後の目的地にしつつ、成増の北側をぷらぷらと散歩をしながら開拓してみるのもいいかもしれない。