「上板橋には魚屋がなかった」そう聞いて、たしかに......と記憶を巡らす。私が上板橋で暮らしていた7年ほど前には魚屋がなく、お刺身や焼き魚を食べたいときはスーパーで買っていた。(といっても、学生時代にわざわざグリルでお魚を焼いて食べる生活なんて、ほとんど送っていなかったのだけど)そんな上板橋に、とても魅力的な魚屋さんができたらしい。というか、すでにご近所さんからは知られた存在のようだ。2020年5月にオープンした「さかなや成吉」。上板南口商店街にある「肉のマルサン」と同じ建物でスタートし、2024年に建て替えのタイミングで今の場所に移ってきた。(2026年6月時点では再開発中でぐるっと回る必要があるが、本来は南口を出てすぐ。餃子の王将の奥側である)店内には鮮魚をはじめ、バラエティ豊かなお寿司、刺身、お惣菜などがずらっと並ぶ。言葉で説明するよりも、まずは見てほしい。このきらめきたるや......! 天然本マグロのお寿司が10貫入ったパックが、なんと1000円(税抜)である。思わず「え!?」と目を疑ってしまうお値段。何よりネタが大きい......!「うちは本マグロしか扱っていないですから」そう話すのは、お店を営む小倉秀仁さん。このマグロのお寿司はやはり堂々の一番人気らしいが、これだけではない。まさに宝石箱みたいな「極上にぎり寿司」に「炙りいなり寿司」、「うなぎ巻」、「とろ巻」、「ばくだん巻」といった多種多様な巻きものたち......。お寿司好き、お魚好きなら、これを見てテンションが上がらずにはいられないはず。もちろん、お寿司だけでなく丸のお魚や貝類、お刺身系もたくさん。全部豊洲市場から直接仕入れた新鮮なものたちだ。「兄貴が仕入れに行って、その日に売りたいもの、安く出せるものを選んでくるので、これっていうのを決めて買ってくるわけじゃないんですよ」「たとえば、今日はもう売れちゃいましたが、アワビとかね」と秀仁さん。お昼の時点でアワビがすでに売り切れているというのも驚きだけど、これだけお魚がずらりと並ぶ空間に何か珍しいものがあったら、ついつい買ってみたくなってしまう気持ちはわかる気がする。(ちなみに、魚類に混ざってベーコンやバームクーヘンが並ぶ日もあるらしい......)兄貴、という言葉があったように、さかなや成吉は秀仁さんとそのお兄さんが中心となって営むお店だ。“成吉”という屋号は、もともとおふたりのおじいさんが築地市場で仲買をやっていた頃のもの。仲買とはつまり、市場から仕入れたものをお魚屋さんなどに卸す側のお仕事。その影響もあって、兄弟もそれぞれ魚関係の職に就いてきた。▲ 弟の秀仁さんも以前は市場の仲買として働き、マグロを専門にしていたそう▲ お寿司屋さんで働いていた経験もあるお兄さん。取材中、いきなり「はい」とサーモンの寿司を食べさせてくれた「市場が豊洲に移転することになったタイミングでおじいさんの仕事はいったん閉じて、家族もそれぞれバラバラになったんです。でも、偶然にも兄貴とはまた同じ会社で働くことになって。しばらく勤めたあと、仲が良かった同僚と3人で独立して、魚屋を始められたらいいねという話になりました」物件を探してみて、いいところが見つかったら魚屋を始める。見つからなかったら解散。そのくらいの気持ちで、上板南口商店街の「ガスト」でコーヒーを飲みながら会話をしたあと、店を出てたまたま目に入ったのが、「肉のマルサン」が入った建物だったらしい。以前は八百屋さんだった場所が、運よく空いていたのだ。話はとんとん拍子に進み、すでに建て替えることは決まっていたものの、移転を前提に借りられることになった。そうして、2020年5月に期間限定でオープン。4年ほど営業したのち、これまた偶然の出会いで今の場所に移ってきた。「そもそも本当は、上板橋のまちにこだわっていたわけじゃないんですよ」と秀仁さん。昔からお世話になった方に挨拶に行ったあと、休憩場所として立ち寄ったのがたまたま上板橋のガストだった。そこで休憩していなければ、さかなや成吉は別のエリアでオープンしていたかもしれないし、上板橋には魚屋がないままだったのかもしれない。でもきっと、このまちで始めることはある意味運命だったのだ。今ではもう上板橋の住民のみならず、東上線沿線の埼玉の方からおいしい魚を求めてわざわざやってくる人も。いいものが安く買えるとあって、飲食店を営む人たちからも贔屓にされている。「他の店だったら倍くらいの値段はするクオリティの高いものを、独自のルートで市場から卸してもらって、安く提供できるのがうちの強み。それで自分たちが儲けようと考えるんじゃなくて、まちの人たちに安く提供して、おいしい魚を味わってもらいたいという思いでやっています」いわゆる昔ながらの魚屋さんと違うのは、丸のお魚や切り身だけでなく、お寿司や海鮮丼、お刺身、お惣菜とさまざまな形で提供しているところ。現代の食卓における、多様なニーズを汲み取ってのことだ。「魚を焼きたい、煮たいはもちろん、お寿司で手軽に食べたいとか、決まった種類のお刺身だけたくさん食べたいとか、柵を自分好みに分厚く切って食べたいとか、お客さんの希望に合わせて自由に選んでもらえるように心がけていますね」梅水晶などのおつまみ系のお惣菜や、干物などが並んでいるのもそうした思いから。とくべつな日だけじゃなくて、普段からとびきりおいしい魚を食べてほしい。そんな心意気が伝わってくる。もちろん、自分で捌くのが不安だったら希望に合わせたカットもしてくれるし、おいしい調理方法の相談にも丁寧に乗ってくれる。最近は、小さいお子さんのいるお母さんから、食育にまつわる相談も多いらしい。「お魚は栄養価が高いから離乳食に使いたいけれど、何を選んだらいいかわからないとかね。僕にも子どもが2人いるし、過去の記憶をものすごい辿って、月齢に合わせて『これだったら食べられるよ』と提案することもありますよ」ちなみに、秀仁さんの奥さんは看護師だったそうで、お店の壁にはお母さんたちに向けたお手製の離乳食にまつわるポップが貼られている。実際に赤ちゃんの頃からお魚をたくさん食べて育った秀仁さんの上の娘さんは今、高校生。たまにお店の手伝いをしてくれているらしい。なんと素敵な話......。「昔ながらの親しみやすい魚屋にしたい」という秀仁さん。ゆっくり買い物をしてほしいから、お客さんの立場に立った行動やコミュニケーションを心がけている。時には、お買い物中の両親に代わって、小さいお子さんの遊び相手になることも。無骨な雰囲気のお店とはうらはらに、さかなや成吉にはあたたかくて粋な心遣いが溢れている。一見ちょっとだけコワモテのご兄弟も、とっても優しくて親切だ。「魚を食べたいってなったときに、思い出して来てもらえるお店でありたいですよね。困ったことがあれば聞いてほしいし、納得して好きなものを選んでもらうためのサポートができたらなって。僕らにしかできない魚屋をやっていきたいと思います」「自分が上板橋に住んでいた頃にできてほしかった......!」という気持ちを押さえつつ、さんざん悩んだ末に「天然本鮪寿司(10貫)」と「ばくだん巻」を買わせてもらって帰路に着く。私のカバンには今、つやつやのマグロのお寿司が10貫。そう心の中でつぶやくと、なんだか無敵な気がしてきた。プライベートでも行きたいお店が、また増えてしまった。