「いってきまーす!」そう言って、お店を出ていく女性。「いってらっしゃい!」と返して、ひとみさんはキッチンに戻り、調理を始めた。どうやら女性は仕事終わりにお弁当をいくつか注文して、できあがりを待つ間、別の買い物に出かけたらしい。その一連の流れがあまりに自然で、きっとこれまでに何度も、何度も繰り返してきたおなじみのやりとりなんだろうな、と思う。「常連さんですか?」と尋ねると、夫の宇田川一行さんは目尻を下げて「そうそう」と笑いながらこう続けた。「もうずいぶん古くからね。今のお客さんの子どもが、うちの孫と同じ年で。よく一緒に遊んだり、うちでご飯食べたりしてるんですよ」ああ、これは絶対にいい店だ。このエピソードを聞いただけでもう、そう思わずにはいられなかった。上板橋駅南口を出て、上板南口銀座商店街を進んでいくと、右手に見えてくる赤い看板の小さなお店。「手づくり弁当・惣菜の店 おかずや」だ。「激安本舗」のちょうどお向かい。外には、お弁当のサンプルがたくさん並んでいる。2000年4月創業。妻のひとみさんが、ご近所さんでありママ友でもあったご友人とふたりで立ち上げたこのお店では、手づくりのお弁当とお惣菜を購入できる。調理を担当するのは、ひとみさんと創業時から一緒にやってきたママ友のスタッフさんに加え、いずれも自分の子どものお弁当づくりを終えたご近所のママさんたち。注文を受けてからつくるので、できたてのほかほかを持ち帰ることができる。お弁当の種類はなんと70種類......!壁に貼られた手書きのメニューの迫力たるや。お肉系、お魚系いろいろ。鶏肉だけでも、「チキン南蛮弁当」「スパイシーチキン弁当」「ささみチーズかつ弁当」「チキンザーサイ炒め弁当」などめちゃくちゃ種類がある。「数は多いけどさ、よく見たらメインの材料の数は決まっていて、調理の方法やタレをちょっとずつ変えているんだよね。お客さんにもよく『こんなにたくさんできるの?』って言われるけど、じつはそんな仕掛けになってるんですよ」いたずらっ子のように笑う宇田川さん。それでも、注文を受けてからつくるスタイルにも関わらず、これだけの種類をつくり分けるのはすごい。一番人気は、やっぱり王道の「鶏唐揚弁当4粒」。でも最近は、「鶏梅かつ弁当」や「鶏肉としめじのレモンペッパー炒め弁当」がじわじわときているらしい。時代は今、さっぱり系が求められているのかもしれない。さらに、おかずやのお弁当の大きな特徴は、味噌汁が無料でつくこと。そして、メインのおかずに加えて手づくり惣菜を1品、もしくは3品選べること。ケースの中に並ぶお惣菜のパックから、好きなものを選んで持ち帰ることができる。3品だったら、さまざまな組み合わせの中から自由に選べて、よりお得感がある。ポテトサラダやひじきのおひたしといった定番から、ナポリタン、ブロッコリーのペペロンチーノ、セロリ炒めなどのちょっと変わり種まで。これがまた、どの組み合わせも魅力的すぎてかなり迷ってしまう。「当初は、25種類のお惣菜をそれぞれお皿にのせて、自分でとってもらうスタイルだったんです。でも、コロナ禍からトングを使えなくなっちゃったから、どうしようかとみんなで考えて、全部3つずつ分けてそこから好きな組み合わせを選んでもらう今の形になりました」今ではもう、このスタイルがおなじみに。組み合わせが同じにならないように、3種類ずつ丁寧にパック詰めする手間を考えると、このちょっとずつ詰められたお惣菜たちが、なんだかより愛おしく見えてくる。ちなみに、おかずやには素朴な家庭料理以外に、ちょっと洋風なメニューもある。「ラタトゥイユ」は2022年の「板橋のいっぴん」にも選ばれた人気商品。数年前からは、「グリーンカレー」や「スープカレー」もやっている。どれも、ひとみさんが「自分でも食べたいからやってみよう」と試行錯誤してメニュー化したものらしい。この日もすでにグリーンカレーの注文が5個入っていたそうだ。研究熱心なひとみさんが、料理をつくる上で大事にしていること。それは“愛情”だと、コルクボードに貼られたハート形の折り紙を指して言う。「おいしいかどうかって好みだもんね。それよりも愛情がこもっているのが一番じゃないかなって。だから、私はこれ(ハート)が大事だと思ってるの」そもそも、ひとみさんがお弁当屋を始めるに至ったのには、こんな物語がある。当時、ひとみさんのお父さんが脳梗塞で倒れ、夫婦で共働きをしながら介護をするなかで、頼ったのは宅配弁当だった。しかし、それがお父さんの口に合わず、ひとみさんがつくると「おいしい」と食べてくれた。それから朝昼晩と食事の世話をするようになり、ひとみさんは一つの思いに辿り着く。「ゆくゆくは、普通の家庭でつくる、添加物の入っていない手づくりのお惣菜を売るお店をやりたい」。働きながら料理をつくる大変さを知っているからこそ、同じような地元の人たちの助けになりたい。そんなひとみさんの強い思いから、おかずやは生まれたのだった。今の店舗は、以前は大手チェーンのお弁当屋さんだったらしい。そこがたまたま空き、友人と一緒におかずやの看板を掲げて、お惣菜屋さんとしてスタートを切った。当時、スーパーの店長として働いていた一行さんは、ひとみさんの思いに賛同し、仕事を辞めて1年後におかずやに合流した。「はじめの頃は大変だった」と、ひとみさんは当時を振り返る。「味はおいしくてもお店に出すと見栄えがしなかったり、家でつくるのと同じ材料だと、高くなっちゃったりしてね。ただ家庭の料理をそのまま出せばいいわけじゃないから、最初のうちはいろいろな難しさがありました」自分で商売するのは、ひとみさんにとって初めての経験。どうすればやっていけるのか、一行さんとともに一つひとつ考え、試行錯誤を重ねる日々。お弁当を始めたのも、じつは途中からだった。「従業員の方々にお給料を払えなくなったら辞めよう」とふたりで話し、時には朝早くにアルバイトをしてお給料の足しにしたこともあったという。そんな日々を乗り越えて、おかずやは2025年に25周年を迎えた。「こんな小さな店で続けてこられたのは、ひとえに周りの人たちの支えがあったから」だと、示し合わせたようにふたりは同じことを言う。そして、一行さんはこう続けた。「それも彼女(ひとみさん)の人柄のおかげ。もう、本当にその一言に尽きるね」と。たしかになあ、と思う。明るくて、チャーミングで、ちょっと恥ずかしがり屋なひとみさん。ちょっとお話しただけでも、きっとやさしくて、懐が深い人なんだろうなと感じる。思わず頼りたくなってしまうような、あたたかさを持った人。「困ったことがあったら、彼女に会いにくる人もいるしね。そんな関係でやってるから、何かあればみんなが助けてくれる。ただいらっしゃい、ありがとうございました、だけだったら、そんなに長くもたなかっただろうなあ」優しい眼差しでこんなふうに妻のことを語る一行さんもまた、とってもあたたかくて素敵な人だなと思う。ふたりでの写真は残せていないが、チャーミングなおしどり夫婦である。そうやって、助けてくれるお客さんたちに少しでも報いるようにと、子どもたちの面倒を見たり、食事に誘ってご飯を食べたりしているのだという一行さん。また、ある程度の距離であれば、サービスでお客さんの自宅まで配達にも行く。自分で買いに来られなくなったお年寄りにお弁当を届けたり、忙しいお客さんのためにまとまった量の惣菜を週に一度持っていったりすることもある。ふたりにとっては、長年関係を築いているお客さんたちも大切な家族。助けてもらったぶん、こちらもできることで手を差し伸べる。そういう、昭和の下町のような昔ながらの人と人の営みが、ここにはある。そうこうしていると、冒頭の買い物に出かけた女性が戻ってきた。少しお話を聞かせてもらうと、お子さんが生まれた年からおかずやに通い始めて、もう13年になるという。このお店の好きなところを尋ねると、もはや当たり前というように「え!全部です!」と返ってきた。「だって、おいしいのはもちろんですけど、来たらおしゃべりできるし。すごく楽しいです。もう『ただいま〜!』って帰ってくる感じ」ああ、いいなあ。こんな家族みたいなつながりが近所のお店で築けたら、最高だなと思う。取材後、ひとみさんおすすめの「鶏肉としめじのレモンペッパー炒め弁当」を注文し、荷物をまとめて帰ろうとすると、すぐさまひとみさんは「荷物がいっぱいで電車で帰るのが大変でしょ!」と大きな紙袋をくれた。お母さんみたいなやさしさをもらって、胸がじーんとした。ほかほかできたてのこのお弁当をおいしく食べるために、なるべく早く帰ろうと、私は家路を急ぐ。