まぐろのねぎま、お刺身、レバーの唐揚げ。そして、グラスから升、小鉢へと、3段に重なった器をなみなみと満たしていく日本酒。卓上にとびきりの「一人飲みセット」があれよあれよと完成したこのお店は、今年で創業55年を迎える「仲宿酒蔵」。15時半の早めのオープンから予約のお客さんでどっと活気づく、魚料理が自慢の居酒屋だ。暖簾をくぐって右側のカウンターには、立派なネタケースが鎮座しており、まぐろをはじめその日仕入れた新鮮な魚がふんだんに並ぶ。この魚へのこだわりは、店主・石井俊和さんがかつてお寿司屋さんで修行を積んでいたことに由来する。高校時代から、父親の自動車修理業を手伝っていた俊和さん。卒業後もしばらくの間働いていたが、ある日、おもむろに「居酒屋の物件を契約した」と父親から告げられ、未経験ながらその経営を任されることになった。「びっくりしたよね、急に居酒屋やれって言われて(笑)。でも、きっと修理業よりは金銭的にも安定するだろうって、俺のために考えてくれた部分もあったんだと思います」突然のことに驚きつつも、「契約が始まる前に早く技術を身につけなければ……!」と新聞広告に載っていたお店に電話をかけ、弟子入りを果たす。これが、俊和さんの料理人としてのスタートだった。「大変でしたよ、ほんとに。休みは月に2回だけで、朝8時から夜中までずーっと働いて」時には、深夜1時まで寿司を握り続けていたという修行期間のハードさをこう振り返りながらも、楽しい日々ではあったという。師匠も、仕入れやネタの配送、魚の扱い方について惜しみなく教えてくれた。「仕事はどんどんやらせてくれてありがたかったね。初めてのことばっかりだったけど、やる気は十分だったから。この期間に学んだことが、今の基盤になっていると思います」未経験の仕事にもまっすぐひたむきに取り組む俊和さんを見て、「短期間でもできる限りのことを伝えてあげよう」と指導にも熱が入ったに違いない。——と、当時の師匠の気持ちを勝手ながら想像する。約2年の修行期間を経て独立し、俊和さんはいよいよ自分の店を開く。しかし、チェーン店としての契約ゆえに提供できる料理が制限され、せっかく習得した魚に関する技術を活かせないという誤算があったそう。それでも少しずつメニューを拡げ、移転を経て、現在の場所で多くの人々に愛される居酒屋を築き上げた。現在、俊和さんとともにお店を切り盛りするのは、妻の洋子さんと息子の祥一さん。今では名物女将として軽やかにフロアを立ち回る洋子さんだが、手伝い始めた当初は飲食経験はおろか、お酒を飲んだこともなかったという。「日本酒がどういうお酒かも知らないし、居酒屋がどんな世界かなんてまるっきりわかりませんでした。でも、おいしいものを毎日食べられそうだなっていう軽い考えで飛び込んで(笑)。もちろん大変な時期もあったけど、お客さんと接するのは楽しいし、あっという間に数十年が経っていましたね」そんな、わからないことだらけの場所を持ち前の明るさで拓いていく姿は、どこか俊和さんとも重なる。お店をやっていてよかったと思う瞬間について、洋子さんは「やっぱりお客さんに『おいしかった!』と言ってもらえたとき」と答える。とてもシンプルで普遍的にも思えるが、その答えには、深い実感がこもっているように感じた。効率を求めてお客さんを“捌く”ようなことをせず、一人ひとりの顔を見て丁寧に接客をする洋子さん。だからこそ、「おいしかった」という言葉のかけがえなさをいつまでも忘れないでいられるのだろう。料理の土台となる仕入れは、2代目・祥一さんの役割。赤坂の日本料理店で10年ほど修行したという確かな目利きで、毎朝新鮮な魚を調達している。「修行時代から毎日市場に仕入れに行っていたこともあって、魚屋さんとの長年のつながりができていて。だから、最新の情報をもとに良質なものを手に入れられるんです。もちろん、今も早朝から市場に通って、自分の目でもちゃんと見るようにはしてますけどね」お店を訪れた際は、ぜひ壁に貼られた短冊のような色とりどりのメニューに注目してほしい。洋子さんの達筆で書かれた料理は、その日の仕入れに応じたおすすめたち。定番メニューも豊富なため、どうしても一品目を選ぶのに時間がかかってしまうが、ひとまずこの短冊から選べば幸先の良いスタートを切れること間違いなしだ。こちらは、いつも一番に売り切れてしまうという大人気の「ねぎまぐろ串焼き」。やきとりではなく、まぐろの“ねぎま”。持ち上げるのに指がぷるぷる震えてしまうほどの大きさで、かなりボリューミーな逸品だ。まぐろは絶妙な火入れで、しっとりやわらか。塩とタレ、どちらもいただきたいところ。お皿の端に添えられているのは、味噌やコチュジャン、しょうが、山椒、ごま油などが絶妙な配分で混ぜられた特製の調味料。ピリッとした辛さがいい塩梅で、とにかくまぐろに合う。これだけで日本酒が進んでしまいそう。もちろんお刺身も外せない。単品メニューの種類も豊富だが、いろいろ食べたい気分だったら、人数に合わせて2〜5点まで選べる盛り合わせがおすすめ。そしてありがたいのが、「お一人様用」の存在。当日のイチオシが約10種類も大集合して、なんと1,000円というからびっくり。まぐろやかつおといった定番から、一人飲みの限られた胃袋ではつい見送ってしまいがちな、しらすやほたてまで入っているのがうれしいポイントだ。箸で持ち上げ、つい「分厚っ!」と声に出してしまったほど、ひと切れの厚みも申し分ない。甘めの濃口醤油をつけて食べる方が多いのだとか。「レバーの唐揚げ」も、リピーターの多い定番メニュー。ひとくちサイズの唐揚げをぽんと口に入れると、凝縮されたレバーの旨みがじゅわっと広がる。まずはシンプルにそのままで、次はたっぷりのねぎとポン酢でさっぱりと。さらに添えられたニンニクを効かせれば、食べるほどに食欲がそそられ手が止まらない。ずっと側に置いておきたいのに、気づけばお皿は空っぽに。そんな中毒性を持った、お酒のあてにもぴったりの料理だ。コロナ禍を経て、現在は15時半オープンというすこし早めの営業スタイルに。フードのラストオーダーは21時半だが、天井が高く広々とした店内は居心地が良く、閉店ぎりぎりまで美酒を堪能するお客さんでにぎわう。「技術より話術」。俊和さんが修業時代に師匠から学んだ言葉だ。お寿司屋さんは、お客さんと対面するカウンターがメイン。だからこそ、会話や、そこから生まれるお店の雰囲気を大切にする必要がある。俊和さんはこの教えを胸に、ただ料理を作るだけでなく、お客さんと向き合う時間を重ね、お店の空気をじっくりと育ててきた。「またここに来たい」と思わせる仲宿酒蔵の居心地のよさは、ボトルキープされた大量の一升瓶たちが物語っている。偶然ともいえるきっかけで歩み始めた飲食の道を、半世紀以上もの間続けてこられた理由を尋ねると、俊和さんは「健康だから」と一言。大事には至らなかったものの、一度大きな病気を経験したことで、あらためて健康の重要性を実感し、食事にも気をつけるようになったという。今も仕込みから閉店まで立ちっぱなしで働く俊和さんの背中からは、重ねてきた歳月からなるしなやかさ、たくましさが伝わってきた。開店前のお忙しい時間にも関わらず、笑顔で取材に応じてくださり、我々の健康まで気にかけてくれた石井さんご家族。長年の経験に裏打ちされたおいしい料理はもちろん、ふっと緊張を解いてくれるような朗らかなあたたかさこそが、この場所をいつまでも離れがたい空間にしている。