「鍋を振りながら、話も振ってます。カウンター越しに『どう最近?』って(笑)」上板橋駅から歩いて数分、駅チカながらも商店街のにぎやかさからはすっと外れた場所にある、「小籠包bar HASHIYA」。その店内には、元お笑い芸人の店主・鈴木弘治さんを中心としたテンポの良い会話と、笑い声がさわやかに響く。「日々の丁寧なコミュニケーションをなによりも大事にしている」と話す鈴木さんと、常連さんたちとの息はぴったりで、忙しそうなときは静かに見守り、手が空いたタイミングを見計らって声をかけてくれるのだそう。そんなあたたかな思いやりが循環するこのお店は、地域になくてはならない存在として深く親しまれている。お店のオープンは2015年。当時、30歳という年齢を目前にした鈴木さんの心には、芸人としての活動にそろそろ見切りをつけようかという思いが芽生えていた。「兄がここの運営会社の社長なんですが、もともと台湾で仕事をしていた縁で、現地の有名企業からお店の立ち上げに関する話をいただいたんです。ただ、立場的に兄自身が店長を務めるのは難しく、ちょうどフラフラしていた僕のところに話が舞い込んできた感じですね(笑)。最初のころは台湾の食品を販売する、アンテナショップ兼屋台のようなお店でした」その後、コンビの解散をきっかけに芸人をやめ、お店の経営に全力投球しはじめたという鈴木さん。「食を通じて台湾と日本の文化交流をする」という根底のコンセプトはそのままに、「KAVALAN」や「OMER」といった台湾の有名ウイスキーを仕入れるなど、お酒やおつまみを充実させ、現在のバル形態にリニューアルした。新たに設けられたテラス席は、居酒屋としては珍しく、ペット連れもウェルカムな空間。冷暖房も完備されているため、台湾屋台のようなローカルな熱気を感じながらも、気候を気にせずゆったりとくつろぐことができる。”台湾料理”と一口に言っても、地域によって使う食材や調味料などさまざまな違いがある。HASHIYAの料理のベースとなっているのは「台南」や「高雄」という、台湾のなかでも比較的マイナーな地域の味。これを象徴するのが、お店の看板メニューである「陽春麺(ヤンツンメン)」だ。(ちなみに、ここから魅力的すぎる料理の写真が続くので、すぐに上板橋に出かけられる準備をしておくのがおすすめ。)「陽春麺は、台湾に旅行したことがある人にもあまり知られていない屋台の料理なんです。日本と台湾の架け橋としてこういったローカルフードも積極的に紹介したくて、創業当初からずっと作り続けています」具材は、これまた台湾のソウルフード、甘辛い豚肉かけご飯の「肉燥飯(ローザオファン)」風に味付けされたひき肉と、もやし、ねぎのみ。器の底から全体をよくかき混ぜて口に頬張ると、もちもちした麺が、タレと肉のコクのあるうまみを連れてくる。辛くはないので、子どもから大人まで安心して楽しめるのもうれしいポイント。シンプルで優しいのにくせになる、ここでしか食べられない味だ。▲陽春麺は汁ありと汁なし(写真のもの)の2種類展開。汁ありはシメにもぴったりの一杯だ。本場さながらのクオリティは、かつて台湾に住んでいた人が「これこれ、この味!」と懐かしんだり、県外からこの一杯をめあてにわざわざ食べに来る人がいたりするほど。また、過去にはお客さんから「この陽春麺を結婚披露宴で提供してほしい」とお願いされたこともあるのだとか。式場の規定で残念ながら実現はしなかったものの、人生の特別な日に、大切な人に食べさせたいと思うほど心に深く刻まれる味なんて、そうそう出会えるものではないだろう。“小籠包bar”に来たからには絶対に食べてほしい、特製の小籠包ももちろん台湾式。上海式に比べて、薄皮でスープがあっさりしているのが特徴なのだという。「ひとりで何個も食べてくださる方が多いですね。以前、60個の注文が入ったときはさすがにびっくりして、間違いないか確認しにいったんですけど、そのままお願いしますって(笑)。お子さんにも大人気です」スープ感覚でするっと食べられる上品な味わいで、一口ごとに満足感がありながらも、ふしぎと次のひとつへと手を伸ばしてしまう。「もっと食べたい、でもほかのメニューも気になる……」という贅沢な悩みに葛藤する自分の姿が、ありありと想像できるからおそろしい。カリッと香ばしい焼き小籠包もあるそうなので、そちらも試してみたいところだ。そして、本場の味と食感を再現するのにかなり苦労したという、「台湾風エビチャーハン」も人気のメニュー。大きなエビがどどんと盛られたそのビジュアルは、いつまでも見続けていたくなるような美しさ。食べるのがすこしもったいない……なんて思いつつも、たちのぼる香りに抗えるはずもなく、一瞬で食欲が勝ってしまう。パラパラなのにパサつかず、絶妙なしっとり感がたまらない逸品だ。鈴木さんの台湾料理研究は現在進行形で、今も新しいローカルフードを見つけた際には、積極的に試作しているらしい。そんななか、本格的な台湾料理に加えて大人気だというのが、なんと「ハンバーグ」。「僕が個人的にハマって作ってみただけの料理だったんですが、“本日のおすすめ”としてお出ししたところ、とても好評だったんです。仕込みに時間がかかるので、2ヶ月に1回くらいのペースでしか作らないのに、開口一番『ハンバーグある?』って聞いてくる常連さんも多くて。『いや、うちのメイン台湾料理なんだけど!』ってツッコミを入れています」そんな食べた人の舌を虜にするハンバーグは、お肉のジューシーさを内に秘めた、素朴で力強い佇まい。箸を入れると、閉じ込められていた肉汁がじゅわっと溢れ出す。「『人生で食べたハンバーグ史上トップ3に入る』って言ってくれた方もいますね。1位じゃないのか!って感じですが、ほめてもらえるのは素直にうれしいです」頻繁にはお目にかかれないレアメニューなので、見かけた際には迷わず注文してほしい。調理技術は、ほぼ独学で身につけたという鈴木さん。昔から料理をすることは好きだったそうだが、さまざまなお店の味を研究し、自分なりの味を徐々に見つけていった。また、お客さんに鍛えられた部分も大きいという。「釣りが好きな常連さんがいて、釣った魚を店に持ち込んでくれるんです。最初はさばけないからって断っていたんですが、『絶対できるようになるから、とりあえずやってみろ』って言われて(笑)。魚屋さんに聞いたり、YouTubeを見たりして試行錯誤するうちに、今ではほとんどの魚をさばけるようになりました」魚を扱えるようになったことで、料理のバリエーションも格段に増えた。“Today’s Special”と書かれた壁掛けのメニューには、その日の仕入れや要望に応じて、多国籍な料理がならぶ。「もちろんイチオシは台湾料理だけど、お客さんに喜んでもらうことが最優先なので、リクエストにはできるだけ応えたいなと。居心地のよさは保ちつつ、常連さんにとっても新鮮で、飽きないお店にしたいですね。自分としても、思いもよらなかった料理に挑戦するのは、いい刺激になるし楽しいんです」「今日〇〇ある?」「次は〇〇作ってよ」という、無邪気なオーダーをうれしそうに受け止め、叶えていく鈴木さんの姿からは、ここに集う人々への深い愛情が伝わってくる。料理に関する要望にはフットワーク軽く応じる一方で、鈴木さんには店主として決してブレないこだわりがある。それは、「開店・閉店時間をきっちり守ること」だ。「大雨が降ろうが、人が全然来なかろうが、定休日や特別なことがない限り店は必ず開けますね。ひまだからって早じまいするようなことは、絶対にしないです。だれかが来てくれる可能性がある以上は、責任を持ってちゃんと店を開けておくべきだと思っているし、それが僕のモットーなんです」「どんな日でも、あの店の明かりは必ず灯っている」という絶対的な安心感は、常連さんの間で共有されている。だからこそ、体調不良などで仕方なく休むと、鈴木さんを心配する連絡が後を絶たないのだという。「命の心配までしてくれるので、大げさだなあって笑って返すんですけどね。でも、それだけこの店を必要としてくれる方々がいるってことは、本当にありがたいし、うれしいことだと思っています」決まった日時に店を開けるという、店と客がいちばん最初に結ぶ、あたりまえで大切な約束。常連さんが増え、どれだけ距離が縮まっても、鈴木さんはその関係性に甘えをつくらない。HASHIYAの軽やかでアットホームな雰囲気は、そんな店主の強いプロ意識と誠実さの土台の上に成り立っているのだと感じた。「芸人時代は、『あのネタやって』なんてお客さんから言われたことなかったのに、今は『今度これ作って』ってむちゃぶりされる毎日です(笑)。でも、そういうリクエストや、『ここがなくなったら困るからやめないでね』という言葉が、僕の大きな原動力になっています。やっぱり目の前で自分の料理をおいしそうに食べてくれるのを見ると、この仕事をやってよかったなと思いますね」その柔軟で懐の深い接客から、幅広い人々の心をつかんで離さないHASHIYA。メイン通りの喧騒からはすこし距離をおいた立地も相まって、近所の人が日頃のストレスや疲れをそっと手放せる「心の避難所」のようにもなっている。「一応ツッコミだったので、ボケはいくらでも受け止めますよ」そう笑う鈴木さんのチャーミングさと、訪れるたびにワクワクをくれる多種多様な料理。その両方に引き寄せられ、HASHIYAには日々たくさんの人々が、疲れた心と体を労わるために“帰って”くるのだ。