「じゃあ、少しだけ何かやりましょうか」オーナーの白井正さんは、そう言ってスッとバイオリンを構えた。すると、妻の陽子さんもおもむろに移動をし、電子ピアノの前に腰を下ろす。急遽始まったのは、ふたりのスペシャルセッション。曲は、葉加瀬太郎さんの『情熱大陸』である。まさか、お昼からこんな間近で生演奏を聴けるなんて......! この後、ふたりはアンコールで『津軽海峡・冬景色』も演奏してくださった。夏の板橋で聴くのもまたおしゃれだ。ここは、高島平駅と西台駅の間。のんびりとした雰囲気が漂うイーストサイド名店街の「カフェ・タプロー」である。2007年のオープン以来、夫婦ふたりで営んでいる。ご近所さんを中心に、地方から喫茶店ファンも集う人気のお店だ。店内で楽しめるコーヒーや自家製のケーキ、そしてレコード音楽などももちろん魅力的なのだけど、何よりこのふたりの人柄に魅力が詰まっているので、まずはカフェ・タプローのオープンに至るまでの物語を紹介したい。正さんと陽子さんは同じ大学出身。それぞれ物理と数学を専攻する理系学生だった。卒業後、正さんはイタリアの貿易会社に勤め、陽子さんは高校の数学教師として働いていたのだという。「私は物理の知識を活かして、鉄鋼関係の輸出品の検査員として技術的な仕事をしていたんです。日本全国の工場を飛び回りつつ、イランに派遣されて7か月間滞在していたこともありましたね」その頃ふたりは結婚し、凄まじい倍率を勝ち抜いて当時できたばかりの高島平団地へと引っ越してきたばかりだった。陽子さんは高校教師を辞め、正さんと一緒にイランへ渡った。なかなか勇気がいりそうなものだけど、「当時は若かったので、とにかく海外に行ってみたいという気持ちだけだったんですよ」と陽子さんは朗らかに笑う。その後、イタリアの貿易会社を辞めた正さんが次に就職したのは英国大使館だった。前職の事務局長に勧められて面接に行ってみたところ、理系かつ英語ができることが買われて内定。そこで、科学技術の分野で通訳や翻訳の仕事をすることになった。▲ 店内には、正さんが当時のチャールズ皇太子やダイアナ妃と一緒に写った写真も飾られているイギリスの国際的な場で日本の科学技術を紹介したり、反対に日本にイギリスの科学者、技術者を招いて国内の案内をしたりしていたのだという。そして、英国大使館に35年間勤めたのち、定年退職をして始めたのがこのカフェ・タプローである。団地の中で地域の人たちが気軽に集えるカフェをつくる。これは、陽子さんからの提案だったそう。「(正さんは)もともと絵が好きだから、画廊をやりたいと言っていたんです。でも私は、団地の高齢化が進んでいるなかで、話し相手がいなくて孤独を感じている人や、寒い中でもずっと外で世間話をしている人たちを見てきたので、そういう方々がコーヒーを飲みながらゆっくりできる場所ができたらいいなと思ったんですよね」地域のためになるならと、正さんも賛成。ただ画廊案も捨てきれず、店内の壁にはワイヤーがつけられ、ちゃっかり絵が掛けられる仕様になっている。絵を眺めながらゆっくりお茶ができるギャラリー付きのカフェといった様相だ。もちろん、飲食店を営むのはふたりとも人生で初めてのこと。バリバリ働き、子どもを育て、60歳を過ぎてようやく少し落ち着けるはずのところで、またいちから未経験の仕事を始める。それも、地域の人たちのために。正さんも陽子さんも、やっぱりいい意味で只者じゃないなと思う。ちなみに“タプロー”は、正さんが出張中に訪れたロンドン郊外にある「タプロー・コート」に由来。正さんのルーツでもある現地での経験や思い出が、この名前に詰まっている。メニューもイギリスにちなんでいるかと思いきや、そうでもない。トースト、卵、コーヒーもしくは紅茶がついた「ボンジョルノ」という名前のモーニングセットや「パニーニ」など、軽食はむしろイタリア色が強い。イギリスの要素は、コーヒーカップがウェッジウッドであることくらいかもしれない。そのくらいが心地いい。コーヒーを淹れたり、軽食やケーキなどの調理は基本的に正さんの担当。「私の得意分野を奪われちゃったんですよ」と陽子さんは笑う。ケーキづくりも全部独学。リサーチをしつつ、自分なりにアレンジを加えて今の形に至ったという。とにかく正さんが器用すぎるのだ。自家製ケーキは、甘夏のジャムが添えられた「パウンドケーキ」や「アップルパイ」など。ケーキセットには、コーヒーか紅茶が付いてくる。人気メニューの「レアチーズケーキ」は珍しく、レアチーズ部分は正さん、下のクッキー部分は陽子さん担当と、夫婦のコラボでできている。添えられたブルーベリージャムももちろんお手製。甘さ控えめで、隠し味に白ワインが少しだけ入った大人な味わいのチーズケーキだ。ランチ後のデザートにもぴったりな軽さで、ぺろっと食べられる。ふたりが日々大事にしているのは、地域の人たちとの対話。自分の意見を押し付けず、相手の話をよく聞くこと。店員とお客さんという関係以前に、人と人のコミュニケーションにおいて基本的なことを実践している。だからこそ、カフェ・タプローには自然と人が集まってくるのだろう。陽子さん曰く、正さんは困っている人がいると放っておけないらしい。「カフェ・タプローの後に、“よろず承り相談所”って付けたいぐらい(笑)。自転車がパンクした人がいれば直しにいっちゃうし、パソコンを買った人がいればこのお店で設定までやってあげちゃうし」カフェでありながら、どうやらこの地域のコミュニティセンター的な役割も担っているようだ。正さんのような人が近所にひとりいたらありがたいし、めちゃくちゃ頼られそうだ。「何かやっていないと落ち着かなくて。いろいろなきっかけから皆さんとお話ができて、私の方が元気をもらえるんです」そう話す正さんは、カフェの営業時間外に植物画とバイオリンの教室を開いている。もともと趣味だったそうだが、駐日英国大使館のパンフレットの絵も手がけた腕前の持ち主。板橋区から講師の依頼をされ、「人に教えるなら」と講座で学び直した上で、3年間地域の人たちに教えた。さらにその後も自ら教室を開き、27年間に渡って絵を教えながら、板橋区内の野草を中心にした植物画の本を生徒さんたちとつくったり、植物園で展示をやったりしているそう。店内には、植物画以外にも正さんや生徒さんが手掛けた作品がたくさん飾られている。▲ 写真と見間違うような色鉛筆で描いた精緻なイラスト。これはお客様の作品。陽子さんも「柿なんて、今すぐ食べちゃいたくなるくらいおいしそうでしょ?」と絶賛楽器もまた、最初は趣味でやっていたもの。時間に余裕のあったコロナ禍を活かして、人前でも演奏できるようにと、夫婦で楽器の練習に励んだのだという。そのうち団地内で依頼が来るようになり、今も年に数回ふたりで一緒に演奏会をしているらしい。「楽しい時間を過ごしてほしい」という思いから、冒頭のようにお店で生演奏をすることもある。ふたりとも、もう少しで80歳と聞いて驚く。多彩なのも、それだけ人生の中で新しい挑戦を続けてきたということ。いくつになっても好奇心を忘れず、アクティブに学び続ける人はかっこいい。それを夫婦ともに、お互いを尊重しながらやっているのも、素敵なことだと思う。オープンからもうすぐ20年。「お店を始めてよかったと思いますか?」と尋ねると、正さんも陽子さんも迷うことなく「よかったです」と答えた。「カフェがなかったら、今こんなに元気でいられていないと思います。よく定年後はやることがなくて家にずっといるって言うでしょ。でも、私にはここがあって、好きなバイオリンも弾けるし、絵も描ける。幸せなことだなと思います」(正さん)「この年齢になると、皆さんやるべきことを終えて、自分のために日々時間を過ごしますけど、私は毎日やることがいっぱいで、むしろ忙しいんです(笑)。でも忙しいのはきっといいことなんだって。地域の皆さんが喜んでくださると、私たちも嬉しいですから」(陽子さん)誰かのために始めたことが、自分の喜びや生きる力になる。「こんな風に生きられたらいいな」と目標になるようなふたりに出会えて、なんだかこちらまで力が湧いてきた。また季節が巡った頃、正さんと陽子さんそれぞれの近況を聞きに行きたい。モーニングセットの「ボンジョルノ」を食べながら。