仲宿商店街に映える深い緑のひさし。ガラスのドアが開いたとたん、たちまち豊かな香りに全身が包まれた。香りの正体は、カウンターにちょこんと置かれた「茶香炉」だ。お皿の上の茶葉がじわじわ温められ、芳香を広げている。わずかな量で気分をさわやかに塗り替えてくれる茶葉のパワーにさっそく触れ、お茶に対する好奇心も自然にふくらんでいく。ここは「茶舗はやし」。静岡の掛川を中心に、日本各地の厳選された茶葉が並ぶ、老舗のお茶屋さんだ。店を営む林泰正さん、美和子さんご夫妻は、空間を満たす香りのように優しく穏やかな笑顔で迎え入れてくれた。「まずは飲んでみてください」と勧められ、「板橋のいっぴん」にも認定された、茶舗はやし自慢の「深むし煎茶」をいただくことに。日本茶といえば、急須にお湯を注いで——と熱々の湯気を思い描いた私の先入観をかろやかに裏切り、美和子さんが持ってきたのは、透明の容器に入った冷たいお水だった。そのまま茶葉に注いで数分。あっという間に、エメラルドグリーンのような凛とした色の水出し茶が完成した。水出しは抽出するのに時間がかかると思い込んでいたぶん、その手軽さにまずびっくりだ。ひとくち飲んで驚きがさらに重なる。口当たりはまろやかで、嫌な渋みはまったく感じられない。身体にすーっと染み渡るような優しい甘みで、いくらでも飲めてしまいそうだ。普段家で飲むお茶には感じたことのないふくよかな風味に感動していると、今度は泰正さんが同じ茶葉を熱いお湯で淹れてくれた。湯呑みに注がれた瞬間、先ほどとはまったく異なる濃密な色合いに目が奪われる。口に含んでみると、水出しとは打って変わって、煎茶らしいキリッとした苦味が広がった。同じ茶葉だとは信じられないほどの違いだ。なぜお湯の温度によってこれほどの差が生まれるのか。そのわけをまるでマジックの種明かしをするように、泰正さんが教えてくれた。「日本茶の甘み成分であるテアニンは、温度にかかわらず一定の量が出ますが、苦味や渋みの元になるカテキンは、温度が高いほど多く抽出されます。だから、熱いお湯で淹れるとカテキンが前面に出て、甘みを隠してしまうんですよ。逆に冷たい水で淹れると苦味が抑えられ、甘みをしっかり感じることができます」水出しは、カフェインの抽出も抑えられるため夜でも安心して飲める。一方で、免疫力を高めたり脂肪の吸収を抑えたりといったお茶の持つ健康効果を存分に受け取りたいなら、お湯で淹れてカテキンをどんと出すのがいいのだとか。「湯気の立つイメージから夏場のお茶は敬遠されがち。だけど淹れ方を変えれば、1年中いつでも楽しめるものなんです」という泰正さんの言葉を、体を通して実感できた体験だった。茶舗はやしのルーツは、ここ板橋……ではなく泰正さんの祖父が営んでいた江東区・深川の茶問屋にある。茶問屋とは、生産農家から茶葉を仕入れて加工やブレンドを行い、まちのお茶屋さんへ卸す仲介業者のこと。戦前はかなり繁盛していたそうだが、空襲で大きな被害を受け、祖父も戦後まもなく旅立ってしまった。その後、祖母がこの土地を買い、ひとりでお茶屋さんを開いたのが1949年(昭和24年)。これが現在の「茶舗はやし」の始まりである。2代目の父からお店を受け継ぎ、3代目を担う泰正さんだが、元々は家業を継ぐつもりがなく10年ほど出版社で勤務していたそう。しかし、お子さんの誕生などをきっかけに、これからの人生や働き方を見つめ直すなかで決意を固めると、すぐさま勉強に励み、お茶の魅力を伝える専門知識を取得した。今は、煎茶を淹れて飲むという習慣自体が失われつつある時代。お茶屋さんにとっては切実な問題だ。ペットボトルのお茶がスタンダードになっているため、急須で入れたお茶を「苦い」「濃すぎる」と感じる人も増えているらしい。小学校の校外学習を受け入れた際は、子どもたちから「お茶は1日何リットル売れるんですか?」という質問が飛んできて驚いたと、泰正さんはいう。「淹れたあとの飲み物の状態で考えるのがあたりまえになっているんでしょうね。でも、お茶になる工程や淹れ方を教えてあげるとすごく興味を持ってくれるんです」この店でお茶のおいしさを知った子どもたちが、後日親御さんと一緒に再訪してくれたこともあるそう。泰正さんが思うお茶の魅力。そのひとつは、種類の豊富さだという。「産地はもちろん、品種や蒸し方、価格によっても味わいはまったく変わってきます。この仕事に長年携わっていますが、知れば知るほどおもしろくて、まだまだ奥が深いなと感じますね」たしかに、無数の種類があるからこそ、たまたま飲んだひとつの味で「煎茶は苦手」と判断してしまうのはもったいない。口に合わないと感じた経験も、自分の好みを知るための大切なヒントになるのだ。迷ったり、失敗したりしながら遠回りすることの楽しさも、お茶は教えてくれているのかもしれない。「スーパーにもお茶は並んでいますが、どれが自分に合うか気軽に尋ねられる場所はなかなかないと思うんです。だから相談だけでも大歓迎。そのなかで、好みの味を見つける道のりを楽しんでもらえたらうれしいです」そのためにお二人が大切にしているのは、お茶に対するハードルをぐんと下げること。オープンで寄り添うような接客に加え、お茶との距離を縮めるための工夫を随所に散りばめている。そのひとつが、クラシカルな煎茶にとどまらない多様な品揃えだ。かわいらしいデザインのパッケージや、急須なしでも手軽に淹れられるティーバッグ、フルーツと掛け合わせたフレーバーティーなどが棚に並ぶ。「これなら自分も試せそう」「かわいいから誰かにプレゼントしようかな」と、初めての人でもお茶の世界へ足を踏み入れやすい、気軽なラインナップだ。お茶に興味をもったビギナーがすぐに自宅でお茶を淹れられるよう、急須や茶器をはじめ、お茶のある暮らしを支える道具もしっかり用意されている。急須は二大産地である愛知の「常滑焼(とこなめやき)」や三重の「萬古焼(ばんこやき)」を中心に、使い勝手の良いものを選んでいるそう。なかでも昔から人気なのが、「朱泥(しゅでい)」と呼ばれる独特の赤みを帯びた急須だ。「朱泥土に含まれる成分が、お茶のタンニンと反応することで、まろやかで奥深い味わいになるんです。さらにこだわる方は、金網の味が混ざらないように茶こし部分まで土で仕上げた『セラメッシュ』というつくりの急須を選ばれますね。お茶はとても繊細なので、使う道具によっても味に違いが出るんですよ」専門的な知識をわかりやすく解説してくれる泰正さんだが、「とはいえ、そこまで細かく考えなくても、丁寧に淹れればお茶はいつでもおいしいですから」と笑って付け加える。お二人のこだわりぶりは、お茶の魅力を引き立てる脇役たちに対しても変わらない。九州・有明産の海苔は、包丁で手切りして缶に密閉するまで、すべて手作業で行っているという。趣のあるパッケージの文字は、書家である美和子さんのお父さんが書いたものだ。「この作業を2人でするのは、正直かなり大変です。でも、自分たちでやれば、缶の中に好きなだけびっしり詰められますし、お値段も抑えられますからね。気兼ねなくたくさん召し上がっていただけるよう、これからもできる限り続けていきたいと思っています」店にはほかにも、羊羹やおせんべいなど、お茶との相性抜群の品々が。「お客さんによっては、ここを『海苔屋さん』や『おせんべい屋さん』だと思っている方もいらっしゃるんですよ(笑)。でも、それくらいお茶以外の商品に対しても妥協せず、良いものを揃えるようにしています」ほほえみつつも、凛とした表情の美和子さんからは、単にお茶という商品を売るだけでなく、お茶をみんなで囲むひとときや、和みの時間そのものを届けたいという意思が伝わってきた。そんな想いのこもった品々は、日頃のちょっとした贈りものやささやかなお返しにも重宝されている。「この隙間に海苔をすこし詰めてくれない?」といったリクエストにも柔軟に対応しているというお二人。贈る相手の顔を思い浮かべながら自由に詰め合わせを作る時間は、選ぶ側にとっても楽しいだろう。贈られたお茶をきっかけに、「おいしかったので自分でも頼みたくて」と遠方から問い合わせが来ることもあるのだとか。茶舗はやしが届けるお茶の魅力はそうして、板橋から全国各地に広がっている。最近は外国人の来店も増えているというが、この店の根底にあるのは地域に暮らす常連さんたちとのつながり。親、子、孫と3世代で通い続けるお客さんも珍しくない。角地に位置し、入り口が2面にあるオープンな造りも手伝って、病院帰りのお年寄りから、涼しさを求めて駆け込んでくる小学生まで、幅広い層がふらりと立ち寄ってくれるのだと、美和子さんはうれしそうだ。「お年寄りも子どもも安心して立ち寄れる、“見守りステーション”になれればいいなと思っています。長年このまちの方々に支えられてきたし、地域に恩返しをしていきたいですね」そして、泰正さんはこう言い添える。「水出しでも、フレーバーティーでも、お茶菓子でも。どんなきっかけでもいいので、まずはお茶に触れてみてほしいと思っています。もし、興味を持ってくれたら、そこからはとことん深いところまで教えますよ」お茶のある暮らしをスタートさせるための「はじめの一歩」から、自分なりのこだわりを見つけるその先の道のりまで。どんな歩みにも親身になって伴走してくれる茶舗はやしは、どこまでもおおらかで、心強い。